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緩和ケア病棟、という病棟自体の響きをどうにも好きになれなかったが、この病棟の環境自体は気に入っていた。
前の病棟とは違い、看護師さんはベテランが多いのか柔らかな雰囲気を持った人が多かった。看護師さん、というよりは小学校のころの保健室の先生に似た雰囲気とでも言ったほうがいいのかも。
彼の入っている個室は、前の病棟のように課金する事で個室に入れるのではなく全員が個室に入れるようだった。前の病棟の部屋から見える景色と、この病棟の大きな窓から見える景色は全く違って僕は同じ病院に入院しているようには思えなかった。
病棟自体の照度も高く、この病棟に入ったところに掲げてある通り「自分らしく過ごす」というのがこの病棟のモットーらしかった。ベランダらしき所で、車いすに乗ったいかついおじさんがタバコをふかしていて、それは有りなのか。とちょっと思ったが。まぁ僕も最後の時はどうせならああやってやろうとは思う。
今までの病棟とは違い、大きなソファーに腰かけながら僕はベッドの上に横たわる拓也の姿を見た。
彼はだるそうに首を右斜めに傾けている。
「美沙子がさ」
「……うん」
「張り切ってたよ。なんか結婚式するんだのどうだのこうだの」
美沙子の「結婚式をしたい」なんていうもう、どれだけ使い古されたんだよってレベルの願いは病棟の看護師さんをそれはそれは盛り上がらせた。音楽療法士の人にも来てもらおうだとか、どうだとか。ちなみに僕の親もその案には大賛成らしい。
拓也は、少しだけげほ、とむせた後に小さな、かすれるような声を出した。その声が絞り出すような声になってきている事に胸を痛めたのは、もう随分前の話だ。
「あいつはさ」
「うん」
「そういうの、好きだから」
「だよなーーーー。俺も思うよ。ほんと美沙子はロマンチストっていうかなんていうかさーーーー」
なにこのテンション?と若干自分でもう引いてるから突っ込まなくていいよ。
ノリノリで「美沙子ちゃんと、拓也くんの結婚式みたいわぁ」なんて言ってるのは僕の空気の読めない親だけで。
結婚なんかしない。と反対したのは拓也だった。なんでかとかいちいち別に書かなくていい気もするけど、まぁ当たり前だけど美沙子にバツをつけるわけにいかないっていうのが拓也の考え。まぁ普通。
それでも引き下がらないのが美沙子。
どれだけ懇願されたって、絶対にしない。という拓也との交わらない会議をまとめたのは、にこやかな笑みを浮かべるこの病棟の師長さんの言葉だった。
師長さんが言ったのはこう。
じゃあ、書類上の結婚はなし。でも結婚式はしましょう。きっといい思い出になる。
なんてこと。結婚はしないのに結婚式とは。
はぁ?と珍しく眉を寄せて不快感を表す拓也になんて、百戦錬磨の師長さんは負けなかった。これまたにこやかな笑みを浮かべながら念を押すように「結婚式はしましょう」と言った。
そんなこんなで、結婚をしていないのに結婚式をする事となった二人。
すごいね。大規模コスプレパーティーじゃん。なんて言えば、拓也が久々に声を上げてわらった。
そういえば、この病棟の好きなところがもう一つある。
夕焼けがいい具合に拓也の顔を照らすところ。
もう、昔の面影はなかったが、夕焼けに照らされる拓也は本当に美しかった。
「ほんとはさ、」
そんな意味ありげな言葉の切り出しに、僕はまじまじと拓也を見つめる。
彼は少しだけ息を吐いた後に、少し口角をあげる。
「もうこっちに来たら、さっさと死んでやろうと思ってたのに」
「うん」
「意外と死ねないから」
「うん」
「……こまるよ」
そう言って彼は目を伏せて笑う。
本当に困ってるなら、僕が帰るという度に「また来週も、会えたらいいね」なんて意味ありげな言葉をいうのをやめてね、なんてきみと指きりげんまんしたい。
「八尋」
「ん」
「俺さ」
「うん」
「美沙子と八尋と」
「うん」
「幼馴染でよかったよ」
そう言って、拓也が微笑む。
この病棟に来てから、なんとなくケータイ小説のポエムくさい言葉ばかり呟くようになった拓也。
僕は、何も言えなくなってしまってただ黙る。
「八尋」
「……うん」
僕は、彼を見る。
彼は何も言わずにただ、20キロの重りでも手首につけてるの?とでも問いたくなるくらいゆっくり手をあげて僕をベッドサイドに手招きした。僕がベッドサイドに立てば、彼は乾燥した手で僕の手を弱弱しく握った。
「俺さ」
「うん」
「今日が、最後だと思って生きていくよ」
美沙子と、同じ言葉を彼は呟いた。
彼の頬に、涙が伝う。夕日が涙にきらりと反射する。
同じ言葉を言っているのに、泣き虫な美沙子が泣いていなくて、滅多に泣かない拓也が泣いている。
そんな状況下で僕はただ、君に最後の日が訪れないように祈る事しかできない。