背後で蠢いているもの
少し白くにごっている湯にミハイルは右足から湯に触れた。
ゆっくり身体を湯の中に沈めると昨日よりは痛みがないが、
どこか心地よい痛みが全身を駆け巡った。
大きく嘆息し、背後の岩に寄りかかる。
ミハイルが温泉入り少し数十秒後もたたないうちに
ディエゴがやってきた。湯煙の中、どことなく普通の人とは
違う足音でディエゴがやってきたのがわかった。
それでも確認のため振り返った。
ディエゴの身体を見た瞬間、ミハイルは度肝を抜かれた。
長身で筋肉質なのは服を着ていたときから予想できていた。
しかしミハイルが思っていた以上にバランスの良い太さと
伸縮性のありそうな両腕についた筋肉。
加えて綺麗に六つに割れている腹筋。
全身には無駄なぜい肉というものは全くといってもいいほどなかった。
鋼のような肉体とはまさにこのことだとミハイルは思った。
それ以上にミハイルが度肝を抜かれたのが、
ディエゴの全身がまるで何かに斬られたかのような
傷が全身にあるのだ。それに右腕に包帯を巻いてあった。
こういう仕事をしていると全身に傷を持ったのを
何人も見たことがあったが、ディエゴの傷は全てを凌駕していた。
ミハイルの視線に気づいたディエゴは「どうしましたか」と尋ねた。
「いや、なんでもない」
ミハイルが言葉を濁すと
「なかなかどうして。いい露天風呂じゃないですか。隣に失礼します」
隣に入ってきた。
「いいお湯ですね。さすがかの将軍ドロレルが好んだという秘湯。
身体が溶けてしまいそうじゃないですか」
二度三度、湯を顔にかけた後ディエゴが話始めた。
「さて、先ほど話した別件の話に入るとしましょう」
「その前に聞きたいことがある」
ミハイルはディエゴに問いかけた。
「なんですか」
「どうしてオレがこの村にいることが分かったんだ」
「私の子飼いがあなたを見たと言っていたんですよ」
ミハイルは顔をしかめた。レノと一緒に歩いているときのことだろう。
しかしレノと一緒のときは少なくとも完璧と言っても
いいくらいの女装をしていたし、男だと分かるような声を発していない。
ミハイルが首をひねっていると
「覚えはないですか。あなたは女装をしていたらしい
じゃないですか。でも一時的に帽子を脱いだときがあった。そのときですよ」
ミハイルの頭にあの国境の若い職員の顔が思い出された。
「あの冷たい目をしたあいつか。どうりでお前と似て冷たい眼をしていた」
「ほめ言葉ととっておきましょう」
「オレが逆に隣国アリエルに入国しようとしていたらどうするんだ」
「いえ、それはないと考えていました。少なくとも、
暁の稲妻はアリエルに土地勘はない。あなた方が仕事をしているのは
ファリス内がほとんど。それもほとんどが要人保護など、王国内部からの
仕事がほとんどです。もちろん可能性はゼロではないので
念のためアリエル国境にも部下を配置しておきました」
「すべてお見通しだったわけだ。そこまで分かっていて
どうしてここまで来るのに三日間もかかったんだ」
「それがこの件につながることにもなるんです。少し熱くなってきましたね」
ディエゴは湯から半身だけ出て岩に座り口を開いた。
「組外の人に話すことではないので誠に言いにくいのですが――」
「その前にオレの質問に答えてもらおうか。
まず本当にオレを襲ったのはお前の手のものじゃないんだな」
「違います。私はそんなことを命令した覚えはないです」
「そうか……」
だったら一体誰が?
いや、一番怪しいのはカルサス・テキーラ。あいつか?
そう思った瞬間、全身の血液が沸騰し始めた。
あいつをぶち殺してやる!
ミハイルは立ち上がり、出入り口に向かおうと温泉から右足を出した。
刹那、ミハイルの首筋に金属の冷たい感触が感じられた。
「てめぇ、いつの間に得物持っていた!」
「護衛のためですよ。もちろんあなたを守るためのものです。
まだ私の用件を聞いていないでしょう。それからにしてもらいましょう」
ディエゴの声は小さく冷たい。さらに威圧感と殺気が入り混じっていた。
いつでも首に付けられている、短刀に力を入れられる感じだった。
少なくとも周囲から仮に見られていても脅されているようには見えない。
頭の中で燃え滾るような血液が瞬間的に冷めたのと
同時にそれまで火照るように熱かった身体も冷めてきた。
それでもこのまますぐにでも王都に行きたかった。
しかし今のミハイルにディエゴを倒す力はない。
「身体の冷えは回復を遅らせる原因になってしまいますよ」
ミハイルはあきらめて右足を再び湯に身体を浸かった。
心地よい熱さが急速に冷えた身体をいたわるかのようにだった。
湯煙の中よく見ると、ディエゴは薄い肌に近い腰ベルトを巻いてあった。
なるほど湯煙の中一目見ただけでは気づくはずはない。
ディエゴは握っていた短剣を腰の後ろにあると
思われる鞘に戻し、ミハイルの隣に入った。
しかし団長を殺したのもカルサス、あいつだろうか。
少なくとも団長を殺れるほどの実力はない。
どちらかといえば頭でのし上がってきたタイプだ。
あいつが団長を暗殺してどのくらい得をするのだろうか。
ミハイルは空をぼんやりと眺めながら考えていた。
「考えごとをしている最中申し訳ありませんが、私の話を聞いてもらえますか」
「ああ……。勝手に話してくれれば耳が勝手に反応する」
「私が属している亡国の聖戦に不穏な空気が流れていると感じたのは、
一週間ほど前でした。そのときは不確実で何ともいえなかったので
何も手を打ちませんでした。しかしそれが後の祭り。
本当はあなたがこの村に来た初日に来たかったんですが、
その原因の究明と処理に時間を割かなければならなかったのです。
すぐ後にあなたが暁の稲妻、団長の殺害との話が広まったからです。
もちろんあなたが暗殺し たとは考えていません。
おかしいと思いませんか。事実上この国の傭兵の八割以上を
占めている組織同士の幹部が同士が同時に危機的な目に合う。
偶然とは思えないんですよ」
ディエゴがまくしたてるように話し始めた。
「どんな危険な目に合ったんだ?」
ディエゴは一回咳払いをした。
「私は場をわきまえて冗談を言うつもりなんです。
それを踏まえておいてください。今は世の中的にあまりよろしいとは
言えない仕事をしています。しかし幼い頃は憧れたものです。
伝説の勇者がこの地を支配する悪い竜を倒すっていうおとぎ話に」