伝説の多頭竜
1
長い間風雨にさらされ色落ちで何とか
読むことの可能な看板が、みすぼらしく立っていた。
《立ち入り禁止》と書かれた看板をちらと見、
ミハイル・ドランコフは禁足地といわれているアジェンダー遺跡に
踏み込んだ。
いつの頃か猛獣が住み着き人が入ることはない。
ミハイルが所属している傭兵集団【暁の稲妻】が
さらに禁足地という設定をでっち上げることに成功した。
結果、入り込む人間はほとんどいなくなり、
表に出すことのできない取引や特別な相談に使用するには
もってこいの場所になっていた。
季節外れの太陽から守るように茂った密林が、
日差し避けになり暑さを感じることはない。
当然人の声などするはずもなく聞こえるのは不気味な、
虫の声と小動物の鳴き声だけだ。薄暗く歩きにくい道も、
ミハイルの行く手を遮るかのうようだった。
加えて左右あちこちから伸びてくる腕のような木の枝を
払いながら注意深く歩みを進めた。
反射的にミハイルは足をとめ、振り返る。
背後から七歳くらい思われる子供が走ってきていた。
ミハイルより一回り以上下の長い髪の毛を
赤いリボンで一つにまとめている女児だった。
いつの間にかガキの遊び場になっているのだろうか。
団長に報告しないといけない。
走ってきた女児はミハイルを見て、走るスピードを落とし止まった。
「おい、こんなところで遊んでるんじゃねえ」
恫喝するようにミハイルは言う。
しかし女児は全然物落ちせずにミハイルに向かっていった。
「おじさんこそなんでここにいるの?」
おじさん! おじさんだと!? オレはそこまで歳をとっていないぞ!
ミハイルは怒りを沈め出来る限りやさしく答えた。
「仕事に決まってるだろ」
ここに来る途中で食べた焼き菓子を思い出した。
一つだけ残りがポケットに入っている。
「これやるから、さっさと戻れ」
いいながら女児に手渡す。女児は目を輝かしながら
受け取ると元気よく応えた。
「うん。わかった」
少女は輝くような笑顔でミハイルの元から
走り去っていった。
女児の行く方向は明らかにミハイルと同じ方向だった。
走り去って行く女児を見つめながらつぶやき舌打ちをした。
「わかってねーじゃねーか」
とは言っても女児がミハイルと同じ方向だったとしても
同じ場所とは限らない。
もう二度と会うこともないだろう。
ミハイルは再び歩み始めた。
数時間前、暁の稲妻の幹部カルサス・テキーラから
暁の稲妻本部を出る間際に仕事を頼まれた。
三時間後に会談をすることになっているということだった。
会談相手はルイス・マックスウエル。
団長であるロバルト・シャーン直々の仕事だったが
緊急の用で行けなくなったらしい。
仕事内容は書類を受け取るだけでいいとのことだった。
ミハイルは最初断ったがバロッテリがあまりに
懇願してくるのでしぶしぶ承諾せざるをえなかった。
カルサス・テキーラは礼を言って逃げるように
ミハイルの側から立ち去っていったしまった。
仕方なくアジャンダー遺跡に向かうことになってしまった。
ルイス・マックスウエル。王立軍事大学で軍人として活躍。
しかし怪我で退役後、政治家を志す。急進的な考えを持ち、
その年の選挙で当選し、軍部からの支持を得てで選挙に当選する。
下調べをしたメモ書きをポケットから取り出し読んだ。
ミハイルは暁の稲妻、団長のロバルト・シャーンに
カルサス・テキーラに頼まれた仕事について確認しようと思った。
しかしロバルト・シャーンは不在だった。
どうやらカルサス・テキーラと話している最中に出かけてしまったらしい。
仕方なく待ち合わせの場所に向かった。
やがて密林を抜けると焼け爛れてしまうような太陽と
すでに見る影もないアジェンダー神殿が現れた。
数千年前は色鮮やかな色彩の装飾が神殿のあちこちに使われ、
立派だったと聞いたことがあった。乾燥した地面の上に
何者かの足跡が残っていた。依頼者はもう来ているのであろう。
神殿に一歩踏み入れると、崩れた神殿の残骸が散らばっていた。
ミハイルは出来る限り乗っても崩れなさそうな残骸の上を歩いた。
神殿を支えているのであろう大黒柱の役割をしている四隅の石柱は
いつ崩れてもおかしくないほどに朽ちていた。
神殿を抜けると待ち合わせ先である祭壇が見えた。
瞬間、信じられないような強風がミハイルに襲ってきた。
しかも強風は横から吹いてくるものではなく、上空からだった。
同時に聞いたことの無いような獣の咆哮にミハイルは
吹き飛ばされないようにしながら空を見上げる。
灰色の巨大物体が少しずつゆっくりと降下してくる。
あれは一体なんだ……?
呆然と見つめるミハイルにゆっくりと悠然と巨大な物体が
ミハイルの前に降りる。
灰色の巨体はミハイルの数十倍はあろうかと思われるほど大きく、
加えて九つもの首がついている。
十八もの赤い瞳の中から光る鋭い眼差しがミハイルを捕食対象と
するのに時間はかからなかった。
さらに九つある首はそれぞれが意思を持っているかのように
一つ一つが違う動きをし、ミハイルを威嚇している。
「なんなんだ! この化け物は!?」
叫ぶと同時にミハイルは幼き頃聞いたおとぎ話に
首のいくつもある多頭竜の存在がいたことを思い出す。
勇敢な勇者たちが多頭竜を倒し、平和をもたらすという御伽噺。
ミハイルは子供の時に何度も聞いた事をあるのを思い出した。
多頭竜の持つ圧倒的な威圧感と恐怖に今さらながら、身体が
硬直していくのがわかる。
思考回路も混乱し、依頼人のことなどすっかり頭から離れ逃亡という
言葉が駆け巡ったときにはすでに遅かった。
多頭竜はミハイルが背を向ける瞬間、行動を予期していたかのように
素早くミハイルの背後に周りこんでこようとする。
ミハイルは必死の形相で逆方向である祭壇の方向へと疾走した。
背後から多頭竜が吐いたと思われる炎がミハイルを襲う。
寸でのところで祭壇の影に隠れ難を逃れた。
灼熱の炎がミハイルの側を駆け抜ける。
祭壇から顔を出すと、多頭竜は何かに苦しんでいるかのように
暴れ狂っているようにミハイルには見えた。九つの首はそれぞれが
違う方向に炎を吐き出し、辺りは火の海と化している。
踊り狂っている心臓と錯綜している思考を落ち着かせるには
ちょうどいい、ミハイルは息を整えながら思った。
「誰だ!」
ミハイルは瞬間的に懐に持っている小刀を密林から
向けられる気味の悪い視線に向かって投げつけた。
しまった!
考えるより先に手が動いてしまったのを後悔した。
投げてしまった小刀は十年前に師匠からもらった大事な小刀だった。
十年間大事に扱い、一度も抜いたことない。
どこの誰だか分からないヤツの血が大事な小刀についてしまう。
そう考えると悔やんでも悔やみきれなかった。
しかしミハイルの予想は違った。
林の中から聞こえてきたのは、人間の絶叫でなどではなく、
何か鋭いもので弾いたような音が聞こえてきた。
「どういうことだ?」
ミハイルは静かに呼吸をしながら密林の中にいるであろう
何者かに問いかけるように見つめた。やがて視線は消えた。
あの星屑の短剣は、師匠にしか生成できない金属で作られている。
それを跳ね返すことができるのは、師匠からもらったものしかない……。
ミハイルの頭にはさらに疑問ができた。
甲高い今まで聞いたことのない声ですぐに我に返った。
今大事なことはどうやってここから脱出するか、だった。
再び祭壇から顔のぞかせた。案の定多頭竜は暴れくるっている。
なんとか隙を見て逃げ出したかった。
ふと、ここに来る途中の女の子の事を思い出した。
あのガキはどうなっだんだ。多頭竜に殺されてしまっただろうか。
それともこことは別の場所に行ったのであろうか。
願わくばここに来なかったと思いたい。
空から何か冷たいものが落ちてたと思い、空を見上げた。
どす黒い雨雲がいつの間にか真っ青だった空を包み込んでいる。
大雨になるのも時間の問題だった。ミハイルの気持ちに焦りがつのってきた。
いや――これは逆にチャンスかもしれない。
ミハイルは考えをめぐらせ天を仰ぎながら独り笑った。
「なんとかなるかもしれない」
ミハイルの希望が天に届いたのかすぐに滝のような雨が降り出してきた。
すぐに地面にはいたるところに大小さまざまな小さな水溜りができる。
多頭竜の六本の首は炎を吐きまくっているが、どの首も指揮権がなく
まるでケンカでもしているかのようだった。
ミハイルは意を決し立ち上がった。
腰に差してあった剣を確認し、多頭竜に向かって走り出す。
多頭竜の三本の首がミハイルに気づき一斉に炎を吐き出す。
ミハイルは予想していたかのように素早く炎を避け、多頭竜の懐に入った。
しかし三本の首が待っていたとばかりにミハイルに向かって大きな口を開いた。
のど奥から真っ赤に燃え盛る炎が吐き出される瞬間、ミハイルはもうダメだ、
と思った。
しかし残り三本の首が炎を吐き出そうとしている首に巻きつき、
炎が吐きだされるのを制止させた。
巻かれた首は苦しそうに奇声をあげる。
巻きついた三本の首はまるでミハイルを助けようとしているかのようだった。
多頭竜の緑色のうろこに見覚えのある赤いリボンが見えた。
「こいつ!」
全身から怒りが湧いてきた。
わずか数時間前、交わした会話は一言二言だった。
しかし焼き菓子をあげたときの少女のこぼれるような笑みが
ミハイルは忘れることが出来かった。
腰に差していた剣を抜き、多頭竜にも負けないくらいの
大絶叫で多頭竜の身体を切り付けた。
しかし多頭竜の堅いうろこはミハイルの剣を通すことはなかった。
一太刀、二太刀と連続して振るったが、ミハイルの握っている剣は
多頭竜の硬い皮膚に傷1つつけることはなかった。
白亜の剣に歯こぼれができたことに気付いた。
舌打ちをしミハイルは持っていた剣を投げ捨てたときだった。
昔おとぎ話で勇者が多頭竜の弱点を突いた場所を思い出した。
素早く多頭竜の身体をよじ登り弱点へと向かった。
ミハイルを助けてくれていうような三本の首は
六本の首と戦っており、間違いなく劣勢に立たされているように見えた。
多頭竜の弱点である身体の中央に懐から持っていた、
もう一本の小刀を取り出し、刃を下に向け柄を両手で握ったときだった。
二本の首がミハイルの存在に気づいた。
前後の首は一斉にミハイルに襲い掛かってくる。
その時二本の首の倍はあろうかと思うような太い首が
どういうわけかミハイルを助けてくれた。
先ほどミハイルを助けてくれた三本の一本だった。
ミハイルに向かって、雄たけびを上げる。
まるで多頭竜のほうが早く弱点を突けと言わんばかりのように
ミハイルは感じた。
再び持っていた小刀に力込め一気に振り下ろす。
多頭竜はこの世とも思えないような奇声を上げ、のたうちまわり始めた。
ミハイルは多頭竜の身体から飛び降り、再び素早く祭壇の影まで
素早く逃げた。
九本の首全てが炎を四方八方に吐きながら同時に
大粒の雨のようなよだれを垂れ流している。
激しく全身を痙攣させている多頭竜の姿はミハイルにとっては異様な光景だった。
すると突然多頭竜は激しく巨大な羽で空に浮かび上がり
王都のほうへと消えていった。ことの成り行きをはらはらしながら見ていた
ミハイルは多頭竜がいなくなったことに安堵感に包まれた。
しばらく動くことはできなかった。
そしていつの間にか眠りに落ちていた。