クレムリンへの帰還
1942年2月17日 午後7時42分
ソビエト・ロシア社会主義共和国 モスクワ市内、クレムリン内、廊下
...久し振りだな、この感じは。何ヶ月ぶりだろうか。...いや、確か実際には一ヶ月経ってるか経ってないかだな。
俺の前には元子猫ーーーアナスタシア・ミラノーヴナ・ヴィクトーリアが立っている。
彼女は扉をノックした。
「失礼します、同志スターリン。同志スクリャノフをお連れしました」
「入れ」
...懐かしい声だ。おそらく一週間ぶりであろう、同志スターリンの声だ。
俺がそう思っていると、彼女は扉を開けて待っていてくれていた。
「済まない」
私はそう言い、中へ入ると彼女は、そういう時はありがとう、ですよ?って言ってくれた。
私は入室して、前を向くとそこには...
「お疲れ様だ、同志スクリャノフ」
頬がごっそりと削ぎ落とされ、痩せ細った同志スターリンの姿があった。
「な...ど、同志?これはどういう」
「いや、何という事はない。ただ同志の業務を私が肩代わりしていただけだよ」
「っ...」
確か俺が1日にこなしている書類業務は最低で8時間超えている筈だが?!
「それよりどうした?もう少し休みを与えた筈だが...そうだったよな?同志ヴィクトーリア」
「っ...それは...」
...成程。何故彼女が客室乗務員として乗っていて、その後も私を護衛していたのか今良く分かった。
おそらく同志ベリヤがどんどん痩せ細っていく同志スターリンをどうする事も出来なかったから、私に与えられた休憩もさせず呼び出ししたかったのだろう。...申し訳ありませんでした、同志スターリン。
「答えろ、同志ヴィクトーリア。私は同志スクリャノフに休みを与えた筈だろう?」
ここは彼女を護るべきだ。同志ベリヤからの命懸けの任務を失敗させてはならない!!
「同志スターリン。今回は私が休みは要らないと無理を言わせて来ました。申し訳ありません」
「...本当に要らないのか?」
そんなお姿でそのような事は言わないでください。申し訳なさ過ぎて今さっきまでの自分を殴り殺したい位です、同志スターリン...
「勿論です、同志スターリン。私は充分休みました。今度は同志スターリンが休まれる番です」
「そう、か。休む番か...私も同志モロトフとベリヤに言われたよ。休むべきです、とね」
「では何故休まれなかったのですか...?」
「...休める訳無いではないか。同志がゴーリキーで頑張って働いていたというのに」
「っ...!」
「我々は本来部下や国民が働きやすいように、生きやすいように身を削るべき立場なのだ。それなのに我々が楽してしまってはその彼らが苦しむだけだ。それではいけないだろう?」
それを聞いた瞬間、俺は泣き崩れてしまった。
同志スターリンに対しての、今までの印象を全て塗り替えられてしまった瞬間だった。
「ど、同志?どうしたのかね?」
同志スターリンは泣き崩れた俺を椅子から立ち上がり、支えようと俺の側に立った。
「大丈夫です。大丈夫ですから、同志スターリン」
俺は泣きながらも、そう伝えた。
「立てますか?同志スクリャノフ」
同志ヴィクトーリアは私の側で身を屈めた。そして、同志スターリンを見上げた。
「...そう思って戴けるだけで私達は本来充分なのです、同志スターリン。それを思っているだけで我々はどれだけ幸せか。だから、それを実践している事を聞きまして同志スクリャノフは泣き崩れてしまったのです」
「そう、なのか?」
同志スターリンは不安そうな声で、そう語り掛けられた。
「勿論です、同志スターリン。我々は、同志スターリンのような偉大な方を戴ける事はこの人生に於いて最大の幸福であります」
「そう、か。私は、変われたのだな」
「え、どういう事ですか?」
「...いや、同志ヴィクトーリアには関係無い事だ。だろう?同志スクリャノフ」
私はゆっくり、しかし大きく頷いた。
...はい、同志スクリャノフ。同志スターリンは、もう史実で言う赤い皇帝の面影など少しも見えません。
「...有難う。では、私は少し休むとするよ」
「お疲れ様です、同志スターリン」
私は直立不動となり、頭を下げた。その前を同志スターリンが通って行き、部屋を出た。
...そういう事だったのですが、同志スターリン。何故貴方がここまで頑張られていたのか。...必ず、ロシア共産党史に載せますので少しお待ち下さい、同志スターリン。
「...済まないね。まさかこうなっているとは知らなかったんだ」
俺は同志ヴィクトーリアに向けて言った。
「っ...何故私がこうしたのか理解したのですね」
「ああ。同志ベリヤが命じたのだろう?今すぐ同志スターリンの元へ連れて行くように、と」
「...はい、申し訳ありませんでした」
彼女は任務の為とはいえ、俺に与えられた休日を潰してしまったのだ。
しかも、帰ったら仕事が忙しい事も伝えてしまっていたから少し同情してしまっているのだろう。少し俯きながら言葉を返した。
「私は大丈夫だよ。...逆に申し訳なかったな、君にこんな任務をさせてしまって」
「...いえ、命令ですから」
「...有難う」
「ですからこれは命令で」
「それでも、だ。...どうやら君はそこまで冷酷ではなさそうだからな」
「...」
顔が引き攣ったな。まぁそんな冷酷なやつがこの国にポンポン居たら怖いしな。
「君は頑張った。もう休んでいいから。さ、帰りなさい」
「いや、でも...秘書はどう、なされるのですか...?」
彼女は少し遠慮がちに、しかしハッキリとした感じで質問してきた。
「...いや、まぁそこはその通りなのだが...君に出来るのかい?」
「元々秘書を希望していましたからその辺りの訓練は履修しています」
俺は彼女に懐疑的な目を送ると勿論です、と言っているような、そんな自信満々な顔を見せた。
「...成程?まぁそれなら逆に有難いが...君の職場に迷惑を掛けないか?」
彼女は俯きながら、どうせ私は邪魔者でしょうし、と答えた。
「そう言ってはいけないよ、同志ヴィクトーリア」
彼女は少し驚いたようにこちらに顔を向けると、私は言葉を続けた。
「誰でも邪魔者という人は居ないよ。何故なら生まれてきた人達は誰もが役割を持っているのだから」
「役割、ですか?」
「ああ。時々居るんだ。俺なんか居なければ良かった、とか生まれてなければ皆は幸せだった、とか。だが、彼らは自分の人生を正しく見つめられていないと私は思うんだ」
ある例え話をしよう。
あるところに一人の男が生まれた。彼は住宅金融が家業の長男に生まれた。
生まれて直ぐに彼にも弟が出来るのだが、彼が12歳の時弟は氷の張った湖で溺れてしまう。勿論彼は弟を助ける為に湖に飛び込んだ。その時彼は弟を助けれたのだが代わりに風邪を引いてしまい左耳の聴覚を失ってしまうんだ。
その後、彼は薬局で薬を運ぶアルバイトを始めたがある時主人が患者に対して毒になる薬を分からずに彼に渡してしまう。主人はその時ある戦争で息子を亡くしてしまっていた為に精神が参っており、正しく薬を見分けられなかったからだ。
しかし彼はいつもその人の薬も運んで居たため、間違いに気付き主人にそれを伝えて事なきを得た。
そして彼は成長し、大学へ入学するための資金を自分で稼ぎ、卒業した後は世界中を仕事で飛び回る、という野望を持っていた。
しかしその夢は叶う事は無かった。父が急死した為である。
取締役員は彼が継がなければ住宅金融は解散させる、という案が決議され急遽家業を継ぐ事になってしまったのだ。
しかも弟を大学に行かせる為に自分の資金を全て弟に渡したのだ。この時点で彼は夢を叶える事が出来なくなってしまった。
それでも彼は諦めず、家業に専念し、会社を大きくしていく。更には奥さんまでも貰ったのだ。
新婚旅行の資金を貯め、いざ行こうとした時に最悪の出来事が起きてしまう。
その時彼が住んでいる国で大恐慌が起きてしまったからだ。更にその時商売敵が仕組んだ噂で資産が無くなってしまう。払い出しも出来ず破産するかに思われたが奥さんが新婚旅行の資金を彼に手渡し、なんとか破産せずにすんだ。
彼はその後もめげずに頑張っていくが、人生下り道のような状況になっていた。
その後、戦争が起きた時には弟が徴兵され、勲章を頂く事になる。対して、彼は徴兵基準に合わなかったから免除されたが。
そんな彼に戦争が終わった後、最大の困難が待ち構えていた。
会社の経理係である叔父が30万という大金を無くしてしまったのだ。
彼は仕方無く商売敵の元へお金を借りに行くも断られてしまう。
その時彼はその商売敵に生命保険があり、15万振り出されるのなら死んだ方がマシではないか、と言われ自殺を決意する。
自分の運命を呪いながら橋のもとへ辿り着き、飛び込もうとすると他のおじさんが飛び込んだ。
彼は一瞬驚いたが、優しい性格だった為そのおじさんを助けた。
その助けたおじさんに何故飛び込んだんだ、と聞くと君を助ける為さ、と言った。
それの為に川に飛び込むなんて馬鹿げている、と言うとおじさんからたかだか15万の為に死ぬ君の方が馬鹿げているではないか、と言われてしまう。
君は素晴らしい人生を生きてきた。なのに何故捨てるんだい?と、聞かれると俺は生きていても意味のないやつだ。生まれてこなければ皆幸せだった、と言う。
それを聞いたおじさんは不愉快に思いながらも、それだ、と思った。
そして、おじさんは彼の生まれてこなかった世界を見せた。
それは、最悪の世界だった。
彼が生まれていない、という事はまず弟が湖で死んでいるという事であり、勲章も何もかも無かった。次に薬屋の主人の薬の処方の誤りに気付く人が居なかった為、主人は牢獄送りの、精神病棟送りになっていた。
また彼が生きていないという事は父の家業の住宅金融も無くなっており、商売敵が街を歓楽街にしてしまっていた。
また、奥さんも性格が少し変わっていた為に結婚相手が居なかったのだ。
それを知った時おじさんは言った。不思議だろう?一人の人が欠ければその人に関わった人の運命全てが変わっていくのだ。君は素晴らしい人生を送ってきたというのに何故捨てるんだい?
彼は理解した。自分がどれだけ素晴らしい人生を生きてきたのかを。
そして彼は願った。お願いだ、もう一度、もう一度機会を下さい、と。もう一度俺が居た世界に戻りたいんだ。神よ、お願いです。私に、私に最後の機会を...
そう願った時、彼は元の世界に戻れた。そして、自分の幸せを理解した彼は家に帰り、妻を抱き締めた。
妻は彼に机のある部屋に向かわせると、自分が関わった人達が家に入ってきて、お金を机に置き始めた。
彼の為なら理由も聞かずに、とお金を寄付し始めたのだ。その後、会社を大成功させた友人が電報で25万融資する、という届けが届いたり、薬屋の主人や弟も駆け付けた。
彼がどれだけ素晴らしい人生を送ってきたのかを改めて理解した瞬間だった。
「誰もが一度は思ってしまう問題。自分は生きていても仕方のない人間だ。生まれてこなければ良かった。...しかし、一度人生を振り返ってみてほしい。そんな人は一人も居ないのだから..っと、そう思うんだ」
「...素晴らしい物語、ですね」
すまん、実はアメリカの作品なんだ。つい名作だから語ったが。
「そうだな、本当に...まぁ取り敢えず邪魔者なんて言うな。お前にはお前の良さがあるからな」
「...有難う御座います」
彼女はそう言いながら顔を上げ始めた。
「で、秘書の件ですが」
「駄目よ!!」
...何か聞き覚えのある声が聞こえてきたな。
「この人の秘書は私だけなの!分かる?!」
...相変わらず、独占欲が凄いなぁ。
そう思いながらいつの間にか右腕にしがみついている最愛の妻、エカテリーナ・アレクセーエヴナ・スクリャノフを見た。
「一ヶ月間だったよな、訓練。確かまだ10日足りない筈だが...」
「もちろん全課程終了したわよ?中級まで」
「...そ、そうか」
「...可笑しいですね。本来中級取るのに半年掛かるのに」
「は?」
...今なんて言った?
「それは本当なのか?同志ヴィクトーリア」
「はい。中級の課程を履修するには最低でも半年掛かる筈なのですが」
「でも私は出来ました!」
エカテリーナは懐から紙を取り出し、見せつけるように広げた。
「...そんな、本当に取れているなんて」
ヴィクトーリアの顔が引き攣っている。つまり...
「本当、なんだな?」
「もちろん!全てあなたに対する愛の結晶です!」
「そっか...」
それなら、仕方無いな。どうせこうなる運命だったんだ、受け入れよう。
「エカテリーナ、君を私の秘書長として認める。同志スターリンに許可を取ってくるように」
「はい!」
エカテリーナは走って、同志スターリンの元へ向かった。
「..済まんね、同志ヴィクトーリア」
「い、いえ。大丈夫です」
「まぁ君なら私が言った言葉の意味が分かると思うから、期待してるよ」
「っ...!は、はい!頑張りますっ」
さて、気付いているだろうか、秘書長、と言った事に。つまり...
ま、良いさ。なるようになれ。
...さ、執務を始めようとするか。