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ぱっ、と目が覚めた。
まるで何が起きたのか理解できないほど、爽快な目覚めだった。あれほど酷かった頭と喉の痛みの、欠片も残っていない。それで私は自分に起きていることをすっかり忘れ、ただぼんやりと、あれ、どうして医療室にいるんだろう、と首を傾げる。
そして思い出した。酷い目眩と息苦しさに襲われ、倒れ、ドクターに何かを注射されたことを。
辺りを見渡す。医療室には誰もいない。
私は息を詰めつつ立ち上がり、忍び足で出口へ向かう。最早ドクターも信用ならなかった。何が何だかよくわからないが、彼女もアメリカの協力者として、プロジェクト9に関わっているのは確かだ。
9。その字が不意に、目に留まった。
例の茶封筒が、ドクターの机の上に投げ出されているままだった。私は再び息を詰め、辺りの様子を窺い、素早く歩み寄って中を改める。アンプルは消え去っていたが、数枚の書類が同封されていた。私はポケットから端末を取り出して、大急ぎでそれをカメラに収めていく。
そして元通り封筒に納めた時、不意に扉が開く音がした。
慌てて振り返ると、ドクターが驚いたように突っ立っている。だがそれも一瞬のことで、彼女は丸い顔に笑みを浮かべながら、フワフワとした足取りで私に歩み寄る。
「あら。目が覚めた? 気分は?」
何事もない、様子。私は怪訝に思いながらも、それに答えた。
「あ、もう、大丈夫です」
「そう。びっくりしたわ、急に倒れるんだもの。看た感じ、ただの貧血だけど。ちゃんとご飯は食べてる? やっぱりジョー中佐にお肉をご馳走してもらった方がいいんじゃ?」
貧血で、咳や熱が出るか?
疑いつつも苦笑いで誤魔化していると、彼女は壁一面の棚に歩み寄って、ずらりと並んだ箱を漁り、幾つかの錠剤を取り出して私に差し出す。
「ま、忙しいとは思うけど、無理はしないでね? はい、ビタミン剤と胃薬。食後に一錠ずつ」
「あ、すいません」
引ったくるようにして受け取り背を向けた私に、ドクターは怪訝そうにしていたが。もうこんな所には、一分一秒たりとも居たくなかった。
まったく、何がどうなってる?
混乱の極みだった。私は部屋に戻ると厳重に鍵をかけ、身体を改める。カロン人に誘拐された人物は、首や鼻に発信器を埋め込まれるという。とりあえず身に覚えのない傷は見つからなかったが、安心は出来ない。鼻の奥なんて調べようがないし、ナノマシンか何かを注射されていたのだとしたら、見つけられるはずがない。
私はまるで落ち着かず、三歩も歩けない部屋の中でウロウロする。
ジョーは。米軍は、プロジェクト9の秘密施設に入り込んでしまった私に、きっと何かの実験をしたのだ。いや、実験とは行かないまでも、そこで私が何かを見たり、聞いたりしたんじゃないかと疑い、こうしてジョーをかぐやに派遣し、ドクターに具合を看るよう依頼した。
いや、待て待て。
そう、私は自分の推理を確かめる。
まず、疑いようのない事実。私の不調は、秘密施設で行われていた実験に関係がある。きっと私はあそこで、なにか危険なウィルスか何かを吸い込んでしまったのだ。米軍はそれを穏便に納めるため、治療薬か何かをドクターに渡した。
そう、きっと、そんな所だ。
くそっ、あの薬は、一体何なんだ?
驚くほどの回復具合で、逆に恐ろしくなる。頭痛も喉の痛みも完全に消え去り、頭も異常なほどに冴えている。
何れにせよ、投薬の事実をドクターが隠すあたり、まともな薬とは思えない。
ドクター以外で医学に詳しい人に、血液検査か何か頼めないだろうか?
そう考えてみたが、この状況で一体誰を信用出来るというのか。あの生真面目人間であるドクターすら、ヤツらの手に内に堕ちているのだ。これでは基地の幹部の大半は、直接的、あるいは間接的に、ネズミーに支配されていると見た方がいい。
じゃあ、信用できるのは?
私の仲間。三人の男子高専生たち。
テツジあたりは、金を積まれればあっさりと裏切りかねない。あの調子だと殿下はとても真面目に捉えてくれないだろうし、信頼出来るとすれば、岡だ。
私は部屋を出て、辺りを見渡し、人通りの少ない経路で岡の居室に向かう。彼らは八畳ほどの三人部屋に押し込められていたが、運がいいことに中にいたのは岡だけだった。彼は膝にギターを乗せてチャランチャランと音を鳴らしていたが、私を認めると大きく口を開き、云った。
「おう、ゴッシー。大丈夫かよ。倒れたって聞いたけど」
私はほっと息を吐き、中に足を踏み入れた。
「それなんですけど、実は」
云った所で、彼が机に広げていた譜面が目に入った。
アニーと雪の女王、テーマソング。
ぞっとして息を詰める私に、彼は視線を察して苦笑いした。
「あぁ。超流行ってんじゃん、これ。一応レパートリーに加えとかないとな」
「へ、へぇー」
「で、どうした?」
「いやいや何でもないですご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした!」
私は一息で云って、部屋を飛び出す。
駄目だ、岡も既に、ネズミーの支配下にある。私は自室に戻って鍵をかけると、再びグルグルと頭を巡らせた。
他には? 他に安全そうな人は?
隊長はドクターと一番の仲良しだし、副長クラスの佐治は、その支配下にあると見た方がいい。あとは、農家の二人、克也。この辺は安全そうだが、農家の木村はジブリ好きだったはず。そうなると、絶対に大丈夫とは云えない。
あと、他には。
その時、部屋のチャイムがピンポンピンポンと鳴らされた。
途端に心臓が跳ね上がり、身動きできなくなる。
息を詰め、そのまま数秒。今度は扉がコンコンと叩かれ、くぐもった、それでいて押し殺したような声が響いてきた。
「ゴッシー? ボクだよ羽場だよ。ちょっと聞いて欲しいことがあるんだ!」
羽場?
確かに、彼は一番安全と云えなくもない。何しろ隠し事というのが出来ない質だ。私は大きく息を吐いて、それでもチェーンロックは外さず、薄く扉を開いて瞳を覗かせた。
「何です?」
尋ねる私に、彼は辺りを見渡し、酷く焦ったように顔を近づけてきた。
「プロジェクト9だよ。あれから阿部ちゃんの云ってたこと、色々調べてみたらさ。凄いことがわかって」と、再び左右を見渡してから、続けた。「とにかく、入れてくんない? ここじゃヤバいよ!」
本当に、コイツは大丈夫だろうか?
そう不安でもあったが、他に手もない。私は再び大きく息を吐いて、仕方がなく彼を室内に招き入れた。
羽場は部屋に入るなり、すぐに鍵をかける。そして狭い部屋の中を見渡し、コンセントや天井の照明を改めはじめた。
「な、何なんです!」
シッ、と、彼は人差し指を口につける。そして満足行くまで調べ尽くすと、大きく息を吐きつつ、唯一の私の私物入れであるクローゼットを指し示した。
「そん中、大丈夫? 機械的なの、入ってない?」
「ありませんよ。何なんです」
「盗聴だよ。マジでこの基地、ヤバいって!」疲れたように頭を振り、フワリとベッドに腰をかけた。「ボク、阿部ちゃんが地球に帰ってからずっと、佐治の部下に見張られてるんだ。やたらとボクの行動をチェックするし、こないだなんて、ボクに無理に、なんか変な飲み物飲ませようとするんだよ?」
「変な、飲み物?」
「なんか緑色で、ドロッとしたの。佐治は野菜ジュースだとか云ってたけど、きっとアレ、自白剤入りに違いないよ。ボクが阿部ちゃんと仲良かったの知って、何か聞き出そうとしてるんだ。あれ以来ボク、ちゃんとパックされた水や食べ物以外、口にしないようにしてる」
やはり、佐治は駄目か。
米軍に負けない気概を持っている、一番頼りになる人物と思っていただけに、その事実は私の心を萎えさせた。
「私も、ドクターに。何か変な注射をされちゃって」
説明する私に、羽場はこの世の終わりのような顔をした。
「クソッ! ボクの大事なゴッシーに、なんて事するんだ!」そしてすぐ、両手を胸の前で開いた。「あっ、これ、別に変な意味じゃないから。大事ってのは、将来を嘱望する人物って意味で」
「それより羽場さん、凄いこと、って。何です?」
尋ねた私に、開いていた両手を、ぱん、と打ち合わせる。
「そうだ。実はね、阿部ちゃんの云ってたLv10って言葉。どうもそれって、アームストロングの警備レベルを云うみたいでさ、そこを見たことあるって知り合いを見つけたんだ!」
「え? それって、アームストロングの人ですか?」
「そう。地球にいた頃からネットで知り合いだったギーク(コンピュータ・オタク)でさ。デイヴっていう変人なんだけど」
「デイヴ?」記憶にある名前に、私は首を傾げた。「それって、デヴィット・パッカードさんの事です?」
「え? そうそう。何でゴッシー、知ってるの?」
「こないだアームストロングに行った時、紹介されて」そこで私は、口ごもる。「でもあの人、アームストロングの科学主任だって云ってましたよ? そんな偉い人が、アームストロングの中で行われてる秘密実験を。知らないはずが」
「そこがね、アームストロングの不味い所なんだ。あの基地はあくまでアメリカ空軍の管轄下にあって、外部の科学者はあくまで〈お客さん〉なんだよ。それでデイヴみたいな民間科学者は、米軍側の機密に触れることが出来ないんだ」
「成る程」私は呟いて、彼に顔を近づけた。「で、デイヴさんは、何て?」
「何ても何も。これからだよ。丁度通信してる時、佐治が入ってきてさ。慌ててここに逃げて来たんだ」
とにかく私は片づけていたパソコンを広げ、羽場に席を譲る。彼はガシャガシャとキーを叩いて見たこともない設定を施すと、通信コンソールを開いて接続を開始させる。
「でも、大丈夫ですか? 盗聴とかされてませんかね?」
怯えて尋ねる私に、彼は鋭く云った。
「大丈夫。ボクとデイヴとの回線は厳重に暗号化してるから」そしてポコンと新しい窓が開いて、見覚えのある男が映し出された。「やあデイヴ。さっきはゴメン、ちょっと色々不味くてさ」
デイヴ、アームストロング基地の科学主任だという彼は、少し太り気味の丸い顔に、何だか羽場と似た恐怖とも怖れともつかない表情を乗せていた。
「いや、不味いぞ羽場。キミが探っているのは、余程重要な事なんじゃないか?」
「え? どうしたのさ」
「さっきジョーが来て、かぐやと何の通信をしてるんだって、問いつめられた。今までこんなことなかったのに。どうも基地内のデータベースで、Lv10隔壁について調べたのが感知されたんだろう。物凄い勢いですっ飛んできた」
羽場は私と顔を見合わせ、デイヴに顔を戻しつつ云った。
「それで? もう大丈夫なの?」
「あぁ。もう通信を他人のパソコンランダムで経由するよう切り替えた。これでボクがキミと通信しているというのは、知られようがない」困ったように両肩を落とし、彼は続けた。「しかし、何なんだ一体。軍がボクらに隠して色々とやってるのは知ってたけど、ここまで敏感に反応するなんて。ハバ、キミは一体何を調べてる。後ろにいるお嬢さんも仲間なのか? 確かゴッシーちゃんとかいう学生さんだと思ったが」
再び羽場は、私に瞳を向ける。そこで私は身を乗り出し、画面に顔を近づけて云った。
「デイヴさん、一つ伺いたいんですけど。カリフォルニアのネズミー・ランドって、行ったことあります?」
突拍子のない質問に聞こえた、ようだった。彼は困惑して表情を歪める。
「あ? 何なんだ急に」
「いえ、実は月面にネズミー・ランドを作るって噂を聞いて。それを調べてたんです。ホントかなー、と思って。アームストロングなら、何か聞いてるでしょう?」
完璧には騙せなかったらしい。デイヴは怪訝そうな表情を浮かべつつ、それでもとりあえずといった風に答える。
「バカバカしい。ネズミーなんてものは、頭の空っぽな連中が行く所だろ。何が魔法の国だ。ボクの研究の方が、よっぽど魔法じみてる。それもわからん低学歴な連中が、とち狂ったようにキャーキャー猿みたいな奇声を挙げてる。キミもその同類か? そんなくらだんことにボクの貴重な時間を使わせないでくれ」
この人は、完璧だ。
ちょっと羽場と違った意味での面倒くさい性格なのは確かだが、この際、そんな事には構ってられない。私は三度羽場と顔を見合わせ、事態を説明し始めた。




