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他にも幾つか心当たりに情報収集を依頼し、続々と集まってくるネタを分析していく。今のところの一番の収穫は、ずっと過去にアメリカのSF雑誌に載せられていた、『Parliament of Comet』の書評だった。
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映画脚本を手掛ける Richard Dowland による処女作。少年たちが謎に包まれた宇宙、異次元を駆け巡る冒険譚。ジュブナイルではあるが大人も楽しめる一冊。
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ダウラントは小説から脚本に向かったのだと思い込んでいたが、どうもそうではないらしい。彼は元々脚本家で、小説も書いてみた。
そういう流れであれば、彼に関する情報の探しかたも違ってくる。元々『Richard』も『Dowland』もありふれた姓名で、そのまま検索しても膨大な同姓同名の人物に埋もれてしまう。だから私は『小説家のダウラント』として散々調べていたが、『脚本家のダウラント』については、全く探していない。
試みにアメリカの映画情報サイトで、彼の名前を検索してみる。
結果、幾つかヒットした作品が出てきた。そのどれもが特にSFでもなく、感動物と呼ばれる類いの映画らしかった。公開時期は十二年ほど前。もしこの脚本と火星年代記との類似点が見つかれば、ダウラントが本物だったということになる。だがそれらは日本では公開されていなくて、基地のメディアサーバにもない。地球から映画丸々一本ダウンロードするとなると許可を得なければならなくなるし、内容を確かめる術はなさそうだ。
とにかく次いで、『脚本家のダウラント』について検索してみると、『小説家のダウラント』よりもかなり実のありそうな結果が出てくる。私は喜々として早速総当たりで調べていこうとしたが、その前に、地球の楓からメールが届いていた。
『彗星会議』、その原版だ。
もし私が読んでいた『彗星会議』が、いわゆる〈超翻訳〉物だったとしたら。私の知るダウラントは、ダウラントと日本人の翻訳者によって作り出された、幻だったということになる。
しかし、その考えは杞憂だった。
それは一行目からわかる。別に全文記憶しているワケではないが、明らかに『彗星会議』の出だしだ。
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桔梗は学校の帰り道、ぼんやりと夜天を眺めながら歩いていた。シリウス、プロキオン、ベテルギウス。大三角形が目映く輝き、桔梗の吐き出す白い息に瞬く。
星というのは、不思議きわまりない。
その存在の実体を知った瞬間から、桔梗は星という物に対して、ゾクゾクとするような感動を味わい続けている。
「先生、星というのは太陽のような恒星だと仰いました。それが酷く遠くにあるんだとも。そしてそれが沢山集まって、銀河になる。銀河は渦を巻いていて、恒星もまた、地球や火星のように、ブラックホールの周りを回っている。ですよね? だとするとボクが見てる星座というのも、過去とか、将来には、形が変わってしまうということですよね?」
「その通り。実はそれは、この世界が持続していくために、非常に重要なポイントだ」頷く、天文数理学の教師。「我々人類は、これまでに、繰り返し、何度も何度も滅びかけた。しかしその度に文明を再興させることに成功した。その鍵となったのが、〈星図〉だ。
例えばこのシリコン・ウェハーに記された星図は、第四世代の物だ。彼らは避けられない〈転位〉に際して、全ての知識を未来に遺そうとした。それがこの世の習わしだからだ。これまでに七度、人類は滅びている。その度に我々は言葉を乱し、様々な定理の変化に苦しんだが、しかしその〈転位〉は天体までには及ばない。だから我々はその度に、遺された〈星図〉を頼りに知識を取り戻し、こうして文明を再興させることが出来たのだ」
天体の配置を鍵にした復活。人類を何度も滅ぼした〈異常〉もさるものながら、それに影響を受けず、静かに、何千年という単位で、刻々と定理を表現し続ける星々の存在。桔梗にはそちらの方が、何か酷く偉大な物として感じられてしまうのだ。
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はっとしつつ、私は先を急いだ。
主人公で、知的好奇心は旺盛ながらも、少し奥手な少年、桔梗。きっと原版では桔梗の英語名なのだろうと思いこんでいたのだが、そのまま『Kikyou』と記されているのだ。次いで桔梗の英語名を調べてみると、『Chinese bellflower』とある。これでは名前に仕様がない。
つまりダウラントは、主人公の名を日本語から取ったのだろうか。
次いで出てくる、運動神経抜群で機転に富んだ、桔梗の憧れになっている少年、青磁。こちらもまた『Seiji』とある。
そう長い小説ではない、いろいろと確認しつつも、三時間ほどで読み終える。邦訳版を読んでいたときにはまるで気づかなかったが、かなりの固有名詞が、日本語がそのままローマ字で転写されている。加えて気になったのは、結構な数の文章が、日本語的だという点だ。
「ちょっと待て、どういうことだってばよ」
思わず呟く。次第に頭がグルグルしてきた。
つまり、『彗星会議』は最初日本語で、それが英訳されてアメリカで発表された?
更にそれが和訳されて、日本に入ってきた?
「つまりダウラントって、著者じゃなく翻訳家だったのか? 日本の適当な小説をパクって、自分の物にして出版した?」
その時、メールが着信していることに気が付いた。情報収集を依頼していた羽場からだ。
彼のメールは、独特というか、酷く読みづらい。トータルでは必要な情報が完璧に揃っているのだが、話の流れがあっちに行ったりこっちに行ったりで、何の話をしていたのかすぐにわからなくなる。
この時のメールもその調子で、十年ほど前にあっただろう火星年代記を巡るゴシップ騒ぎ話から始まったかと思うと、当時のSFでこれが面白かっただとか、あのキャラは死ねば良かったのに、とか、まるで関係のない方向にも飛んでいく。
だが彼が添付してきてくれたハリウッド関係者が集うという掲示板のログなどを眺めていくと、次第に当時の状況が垣間見えてきた。
基本的には、吉良の云っていた事が正しかった。『火星年代記』の映画化が噂され、その脚本をダウラントが書いているらしいという噂。次いで『火星の望郷』が公開され、しばらくは特にこれといった反響がなかったが、後にダウラントが書いたとされる『火星年代記』の脚本が流出。その両者のそっくり具合に、ついにミルコも反応せざるを得なかったという流れだ。
一方で、ダウラントのコメント。それは結局、探り当てることは出来なかった。
ただ一点、吉良は『ダウラントは死んだ』と云っていたが、どうもそれは怪しかった。ゴシップといっても、そう流行らなかった映画の話だ、ダウラントもそう有名な脚本家でもないし、コメントの総量は限られている。その中に確かに『ダウラントは亡くなっている』という物はあったが、デマだという反応もあり、結局公式な情報源は何もないのだ。
けれども私の目を惹いた、一つのコメントがあった。
反応を示さないダウラントに対し、騒ぎが厭になって、また日本に逃げたんじゃないか、というのだ。
その流れを辿っていくと、どうもダウラントというのは日本のオタク文化が大好きだったようで、何度も日本を訪れ、日本語も堪能だというのだ。
やはり、ダウラントはパクリ屋。
更にその可能性が濃厚になってきた。
「けどそうなると、『彗星会議』って誰が書いたのよ。日本の売れない小説家? いやいや、出版されてたら、そっくりな海外文学が後から出たら。いくら何でも誰かが気づくでしょ。いや、そうでもないか? 別に『彗星会議』も売れたワケでもないし、自費出版とかネット小説だったりしたら、誰も気づかないかも」
しかしその推理の場合、辻褄が合わない点が出てくる。
「あ、そうだよ。脚本版の火星年代記」
私はそれを開き、双方の文章を見比べてみる。それは火星年代記の方には日本語を元にするような固有名詞は見受けられなかったし、日本語的な文章も少ない。
そう、少ないが、ないワケではなかった。明らかに日本語的な言い回しの文章が、いくつかある。
「整理しよう」私は混乱しつつあった自分の頭を整理するため、呟いた。「『彗星会議』の作者Xは、この『脚本版:火星年代記』の作者とイコールな可能性が高い。一方で『彗星会議』は、日本語原作Zがあって、これのパクリっぽい」ふと、私は眉間に皺を寄せた。「待てよ。んなことあり得るか? Zを書いた人が火星年代記も書いたなら、その人はダウラントに依頼されるか何かしないと無理」
そこで私は、あっ、と私は声を上げた。
不意に様々な疑問が綺麗に片づく推理が、組み上がってしまったのだ。
私は慌ててデジタルパッド内のデータを確認し、その推理に間違いがないと確信すると、パッドを掴んで部屋から飛び出し、吉良の元へと向かった。