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秋の宵

作者: 糸川草一郎

 雄二には母親が二人いた。というか、実際には母親と母代りの伯母である。伯母は「にのえ」という名だった。伯母夫婦は厳しく雄二をしつけたが、その代わりお金で買えるものは何でも買ってあげたがった。

 実の母親は彼を産んだとき、まだ十八だったそうで、父親はいたけれど家に寄りつかなかった。そして一人で彼を五歳まで育てたけれど、そこまでが限界だった。彼女はその年に夫と別れた。

 彼が母親と別れたのは、ビートルズが来日した1966年である。ベトナム戦争さなかでもあったが、日本は昭和元禄と呼ばれるかつてない好景気、よって世相はそんな活気に沸き返っていた。

 母親は麻由子と言った。麻由子さんは雄二を育てきれなくなって、彼をにのえ伯母さんに預けた。父親の行方はわからなかった。彼は両親に育児放棄された子供だったのである。

 それから月日は流れ、次第に雄二は絵画の才能を発揮し出した。そしてよくシニカルな漫画を描いてぼくに見せた。子供離れした四コマ漫画だった。ぼくたちは十歳になっていた。

 ぼくは周囲から本の虫みたいに言われていたけれど、そんなに読書家と言うわけじゃなかった。でも、お話を書くのは好きで、いろんな作り話をノートに書きためていた。

 にのえ伯母さんの家はなかなか居心地がよかった。居間には大きな家具調のカラーテレビがあった。それからびっくりするようなオーディオ・コンポがあった。古い家具に囲まれ、文学全集や図鑑や百科事典のある本棚は、見ているだけで気分が落ちついた。

 雄二は恵まれていると言ってよかった。彼は自分の部屋を持っていたからだ。六畳間だった。ぼくの家では子供部屋は共用で、姉と妹と同じ七畳半の部屋に押し込められていたから、狭いことこの上なかった。

 雄二とその六畳間でいつものように、彼が漫画を描き、ぼくが作り話を書いて見せあっていたら、彼が内緒で見せてくれたものがある。それは、麻由子さんからの手紙だった。一度会いたいと書いてあった。彼が学校から帰って来たとき郵便屋さんに直接渡されたので、にのえ伯母さんはまだ知らない。彼女の現住所を見たら隣町の入山瀬という駅を降りて少し沿道を行ったところにあるらしい。手紙にそんな道案内が書いてあった。入山瀬は富士宮駅から四つ目の駅だ。それなら、ぼくたちのお小遣いでも行ける。

 十月の最初の日曜日は冒険日和と言ってよかった。快晴。ぼくたちはそんなに電車には乗ったことはなかったけれど、乗り方は知っていた。入山瀬に着いたのはお昼ごろだった。ぼくたちは親に信ちゃんの家に遊びに行くと嘘をついた。信ちゃんの家は自転車でも四十分くらいかかる。ぼくたちは駅までは自転車だったし、方角も同じだったから、まんまと親を騙すことができた。二人ともお弁当を作ってもらっていたので、お昼は入山瀬の駅を出たところのベンチで済ませた。

 麻由子さんのアパートはすぐに見つかった。「昭和」とだけ、建物の壁にペンキで大きく書いてあったけれど、後の文字は剝げてしまって読めなかった。

 二階の三号室ということだったので、「203」と書いてある部屋の前に立った。「藤田・吉村」と並列でドアにあった。雄二の姓はいま吉村だ。もとは宮澤だった。それが父親の姓だったからだ。藤田って知ってるかと訊いてみたけれど、彼はまったく知らないと言う。

 と話していたら、ドアがいきなり開いた。ぼくたちは思わず手すりの所まで後ずさりした。口に烟草をくわえた、汚らしい長髪で、派手な黄色いアロハシャツの若い男が、ドアの向うに頭を掻きながら立っていた。昼間だって言うのにひどく酒臭くて、吐き気がした。

「何だお前ら」

「いえ、何でもないです」

「あの、ここに吉村麻由子さんていますか」

「は? ああ、麻由子! おい、どっかのガキが来てるぞ」

「はあ? もしかして、雄二? 雄二なの?」

「いえ、違います」

 雄二はその場から慌てて逃げ出した。というのは、奥から出てきた麻由子さんが、透け透けのシュミーズ姿で、しかも片方の紐が肩をずり落ちて、乳房が見えかかっていた。ぼくたちは女の人の裸を見たことなんかまだ一度もなかった。びっくりして一目散に駈けだした。

 どこまで走ったかわからない。ひどく息切れがして、息を整えるのに時間がかかった。コカコーラの自動販売機の前に立ち止まった。やっと話ができるようになって、雄二が言った。

「コーラ、飲むか。おごるよ」

「いいのか」

「うん、今日のお礼だよ」

「ありがとう、でも、これでいいのか。引き返さない?」

「ぼくはもう帰る」

「でもせっかく逢いに来たんだぜ」

「もう逢った」

「顔見ただけじゃん。それもちらっとだけ」

「ぼくは、お、お」

「おっぱい?」

「口に出して言うな」

「だっておっぱいじゃん」

「お母さんのあんなとこ、見たくなかった」

「ああ、知らない男の人といたことか」

「あれは同じ、ふ、ふ」

「布団で寝てたか。それもあんな透け透けの」

「思い出させるな」

「うん、もう止める」


 しばらく歩いているうちに大変なことに気がついた。ぼくの財布がない。アパートから駈け出したときに、どこかで落としたみたいだ。

 そこらを懸命に探した。側溝とか、道のすみずみまでくまなく探した。見つからなかった。でも、どうしてもあのアパートの近くには行けなかった。二人とも麻由子さんに逢うのが怖かった。

 しかたがないから、歩くことにした。ずいぶん財布探しに時間をかけたから、もう夕方になっていた。入山瀬駅の時計が五時十分を差していた。

 一時間近く歩いたろうか。富士根駅の手前まで来ていた。二人のお腹がそろって鳴った。

「お腹すいたね」

「うん」

「どうしよう」

「ぼくのお金でパンでも買う?」

「でもあんぱん一個くらいしか買えないよ」

「じゃ我慢するか」

「くたびれたね」

「でも源道寺まで来たよ」

「いま何時」

「真っ暗だね」

「あっ、七時ちょっと前だよ」

「疲れた。もう電車に乗ろう」

「でもあとひと駅だよ」

「もう歩けない」

「乗ったらお金無くなっちゃうよ」

「いい。ぼくのお金だ」

「悪いよ。ぼくは歩く」

「ここで別行動はよくない」

「わかったよ。乗るよ」


 たまたますぐの電車があったので、富士宮駅に着いたのは七時ちょうどだった。ここからは自転車に乗ればいいけれど、ずっと急な上り坂である。ぼくたちは漕ぐ元気もなく、押して歩いた。自転車はひどい足かせだった。駅まで行きは一時間かからなかったけれど、帰りは何時間かかるかわからない。

 途中に焼き鳥の屋台があって、そこからすごく美味しそうな匂いがした。八時のチャイムが鳴った。酔っぱらいが二人連れでふらふら歩いていた。大声で堀内と江夏の話をしていた。ぼくも堀内や江夏は好きだったけれど、もうそんなことを話題にする元気もなかった。ぼくらこそふらふらだった。それにしても焼き鳥の匂いが腹の底まで沁み入った。泣きたいくらい空腹だった。

 もう九時を過ぎたんだろうか。時刻ももう分からなかった。やっと隣の町内まで来たとき、ずっと先の方で大勢の人の声が聞こえた。やっと小学校が見えてきた。そしたら、そこで清さんちのお婆ちゃんに逢った。

「あんたたちこんな時間まで」

「何ですか」

「あんたたちのことで大騒ぎだよ」

「……すみません」

「今何時だと思ってるの」

「……」

「とにかく町内会の人に言って来なきゃ。ああよかった。私はてっきり人さらいじゃないかって」


 そのあとの雄二のことはわからない。雄二はにのえ伯母さんの旦那さんである、宗男さんに連れて行かれた。ぼくは町内会の柴崎さんという父の消防団の仲間の人に連れられて、家に行ったら、父は近所の人に頭を下げていた。大勢人がいて、いま解散したところだった。ぼくの姿を見て、母が駈け寄った。母は真赤な眼をして、何も言葉にならないみたいだった。恐ろしかったのは父だった。父は仁王立ちで玄関の前に動かなかった。眼がきらりと光るのが見えた。夜目でもそれがはっきりわかった。厳しいまなざしでじっとこっちを見据えていた。その場には父と、ぼくと、母しかいなかった。父はしばらくそのまま何も言わなかったが、重い沈黙のあとやっと口を開いてこう言った。

「ずっと歩いてきたのか」

「はい」

「喉が渇いただろう。おい、草太に冷たいお茶を飲ましてやれ」

「はい」

ぼくは厨でお茶を飲んだ。父が中へ這入ってきた。

「腹は減ったか」

「はい」

「後で話がある。飯はおいおい腹いっぱい食べさせてやるから、今はお茶漬ぐらいにして、父さんの話を聞け」

「はい」

「由美子、こいつに茶漬を食わしてやれ」

「わかりました」

 お茶漬を食べて、お腹が落ち着くと、気分も落ち着いてきた。疲れも少し治まった。

「話がある。おもてへ出ろ」

「はい」

「そこへ立て」

「え?」

「いいから、そこへ立て」

「はい」

「目をつぶれ」

「はい」

「歯を食いしばれ」

「?……はい」

 そうして父はぼくを平手で殴った。

「立て」

「……はい」

「目をつぶれ」

「はい」

「歯を食いしばれ」

 もう一度、父は平手でぼくを殴った。また父の眼が光った。潤んでいるのかとも思ったが、泣いているようには見えなかった。

「立て、ぼやぼやするな」

「はい」

「目をつぶれ」

「あなた! もうやめてください」

「駄目だ。こう言う奴には徹底的に思い知らせる」

「やめてください。死んでしまうではないですか」

「こんな奴、死んだって構うものか。こんな子は父さんの子じゃない。お前な、母さんがどれだけ心配したと思ってるんだ。いいか、ここに手をついて母さんにあやまれ!」

「ごめんなさい!」

「もう二度と心配かけないと誓え!」

「はい! もうしません!」


 どれだけの間、泣いていたかわからない。しばらくして気がつくと、また父の声が聞こえた。さっきの声とは別人のような穏やかな声だった。

「中に這入りなさい。そこは明日には青痣になる。あとで風呂に這入って、傷のところをよく洗いなさい。母さん、しばらく顔が腫れるだろうから氷枕で寝かせてやりなさい」

 母はぼくの手を引いて、外の流しの洗面器の、冷たい水に浸した手拭いでぼくの頬を拭ってくれた。涙はぼろぼろこぼれたけれど、忘れられないのは、そのあとで食べさせてもらった塩むすびの味である。母は焼いた塩鮭と茄子の天麩羅を添え、林檎を剝いてくれた。けれど、四十年経った今でも憶えているのは塩むすびの味なのだ。塩味、というよりは涙の味に似ていた。

 床に這入ってからも、頬やこめかみがずきずき痛んだ。けれど、氷枕は熱をもった顔には気持ちよかった。まだ思い出すと涙が出た。明日両親にどんな顔をすればいいのか、わからなかったけれど、親に心配をかけるということが、どんなことか少しわかった。ぼくのしたことの正否はどうあれ、ぼくは両親に身の細るような心配をかけたのだ。いけないことをしたんだ、そんなことを考えているうちに寝入ってしまっていた。


 翌朝、ぼくはいつもより一時間も早く目覚めた。外流しの洗面器で顔を洗った。鏡を見たら少し青痣になっていた。でも痛みは気にならなかった。奥の間から起きてきた父に挨拶をした。

「お早うございます」

「おう、お早う。草太、新聞を取って来てくれるか」

「はい」

 厨から味噌汁の匂いがする。母は外で洗濯物を干していた。

「お早うございます」

「あ、お早う。早いね。眠れたかい」

「うん。ぐっすり」

 中間テストの勉強で夜遅かった姉はまだ寝ている。妹はいま起きてきた。薄いピンクのパジャマ姿で、まっすぐな長い髪を左手でくしゃくしゃにしながら、まだ瞼が半分開かないみたいな冴えない顔のまま、

「あ、お兄ちゃん、お早う」

「お早う」

 彼女は九時前には寝てしまうから、ぼくに夕べ何があったか知らない。

「きのう、お夕飯食べた?」

「うん」

「カバって、走るのかな」

「え、何言ってんの」

「うん、夢に出てきた。すごい地響き」

 朝ご飯のとき、地響きを立ててアフリカの平原を走るカバの大群のことを考えた。誰も何も話さない。父が沢庵を凄い音立てて食べている。妹がぼくの顔を見て、くすっと笑った。

「お兄ちゃん、カバに蹴られたんでしょ。いけない子ね」

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[良い点] 実の親に幻滅した雄二と、実の親の愛情を痛感した草太の対比が面白いです。彼らの行動や心情に、リアリティを感じます。 [気になる点] 悪いというわけでもないのですが、電車賃を無くして家に帰るの…
2014/01/22 00:29 退会済み
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