第8幕:イドとエゴ(2)
理性に逆らうべく高鳴る心臓の鼓動を抑え込もうとしていると――ふぁさ、と布の舞うような音がした。その音の意味も容易に想像できて、見てはいけないという気持ちを抱えつつ――俺は少しだけ顔を彼女の方へと向けた。
シアルフィアは最低限のものだけを身につけていた。要するに――下着姿だった。白熱灯の暖かな光の下でも分かる布切れの白さが彼女の穢れ無さを端的に表しているように見えた。無地ではないが、華美な装飾が施されているわけでもない。それが逆に扇情的に思えた。
ここまでされても、俺は動けなかった。理性、本能、衝動、抑圧、感情、混乱、あらゆるものが脳内に溢れかえって完全に判断能力を麻痺させてしまっていた。
シアルフィアはどんな気持ちでいるのだろうか。彼女は身動き一つしようとしなかった。
静寂が場を支配する。僅かな雑音すらもここには存在しない。
「――どうして、俺なんかに」
そう口にするのが精一杯だった。俺は何かに秀でているわけではない。外見は並未満ではないだろうが、上の部類にも入らないだろうと思っている。運動神経も学力も中の上か、精々良くて上の下といったところか。何にせよ、黙って佇んでいるだけで異性に惚れられるような男じゃないってことだけは胸を張って断言できる。
ただ、偶然この学園に選ばれてしまったに過ぎないわけだ。
シアルフィアは自分で自分を抱くような格好で、自らの腕をつかむ力にきゅっと力を込めた。
「……理由が、必要ですか?」
絞り出すような声。それは感情を押し殺しているようにも聞こえた。
俺は彼女の言葉の真意を図りかねた。
理由なしに深い関係になる男女も確かにいる。割り切った付き合いなんてのもある。でもシアルフィアはそんなことをするタイプにはとても思えなかったし、現に確かな目的を持って今この学園に存在しているわけで。
あるいは、まだ知らされていない理由があるというのだろうか?
「もし君が、無理……してるんだったら」
本心から望んでいるのか、無理してるのか。それを見ただけで判断できるほど俺は経験豊富なわけでもない。だから、訊くしかなかった。情けなくても、それしかなかった。
シアルフィアは答えない。
沈黙が、言外に肯定の意を示す。
自分でも、酷いことをしているのは分かっていた。恥ずかしい思いをさせたままでその意図を探ろうとしているわけだ。自分自身に反吐が出そうになってくる。
何も訊かず――このまま抱きしめるのが優しさなのか?
再びの静寂。
そんな重い空気の中、シアルフィアは微かに唇を奮わせ、消え入りそうな声で細く細く呟いた。
「私じゃ……ダメ、なんですか……?」
そんな様子の彼女は今にもその場に崩れて落ちてしまいそうに思えた。
静かな叫びを聞いて、俺は自分の愚かしさを呪った。
俺はどこまでバカなんだろう。彼女がどれだけの勇気を振り絞ってこんな行動に出たというのか。
拒絶される事への恐怖を押し殺しながら。
何が彼女を突き動かしているのかは分からない。だけど、どんな理由にしたって拒絶されるのが怖くないはずがない。そんなのは逆の立場で考えてみたらすぐ分かるし、もし自分が迫る側だとしたら――こんな行動に出るのは絶対に無理だ。
それどころか、こんな姿の彼女を目にしてすら俺は、俺自身が拒絶されることに対する恐怖を抱いていた。自分が囁き、触れ、感じて、感じさせる。そんな課程を想像し、どこかで拒絶されてしまうのではないか。彼女の抱いているだろう恐怖に比べると遥かに些細でちっぽけなのに、俺はそんなものに縛り付けられてしまっている。
傷つけたくない――そういう気持ちが無いわけじゃない。でも実際にやっていることは彼女を傷つける行為に他ならないし、思いやる気持ちは拒絶されることへの恐怖を誤魔化す言い訳になってしまっている。
でもシアルフィアは拒絶されることを覚悟で迫ってきたのだ。およそ人間としての芯の強さが違うということを俺は痛烈に実感させられていた。
意を決して、俺はソファから立ち上がった。
本当の意味で彼女を大事にしようと心に決めて。
これ以上、無様な真似を晒して彼女を傷つけるようなことはしない。俺は彼女をしっかりと直視した。
帰宅直後に"事故"で見た姿とはまた趣が違っていた。部屋の雰囲気がそう見せているのかもしれないが、派手ではないが決して地味でもない白の下着を纏った彼女は大人の色気を漂わせていた。
俺は彼女の息が触れる距離まで歩み寄って、床に落ちたバスタオルを手に取った。そして肩にかけた。タオル越しに細い肩に触れた時に、彼女が小さく震えていることに気が付いた。
シアルフィアは俯いた。俺のそんな行動を拒絶の印だと受け取ったんだろう。
俺はそうじゃないことを、逃げず、自分の言葉で伝えようと思った。
「大事に、したいから」
俺は静かに言葉を紡いだ。
「本当のことを言うと……結構、理性もいっぱいいっぱいなんだ。今は全力で抑え込んでるけど、気を抜いたら衝動に負けて暴走してしまいそうな気がする」
言って微笑みかける。彼女が静かに顔を上げ、双眸が俺の瞳を捉える。
「でもそれは好きだから、じゃないんだ。男ってどうしようもない生き物だから、好きじゃなくても……その……そういう気持ちになってしまうから。でもそんないい加減な気持ちじゃ絶対に君を傷つけることになってしまう。……バカで情けなくて、もう傷つけてるのは分かってるけどさ」
シアルフィアは潤んだ瞳を俺に向けたままだ。
「さっきまで、君を傷つけたくないからって自分に言い訳してて、でもそれは自分が傷つきたくないからだって思い知らされて、結局傷つけてるって気付いたんだ。本当に……ごめん。でも傷つけたくないってのも本当で、だから、拒絶されるのを怖がってるような関係のままでしちゃいけないって思うんだ」
行為そのものに対して怖いと感じたり無理をしたりするってのは仕方ないことなのかもしれない。でも、拒絶に対して恐怖を抱いたまま関係を結んでも幸せになれるとは思えない。
「だけど、一つだけ約束できる。俺は君のことを好きになる。一目惚れをするタチじゃないからまだそういう感情が芽生えるには日が浅すぎるけど、話をして、触れて、感じて、間違いなく好きになるって確信したんだ」
偽らざる正直な気持ちだ。彼女の姿に、声色に、一挙手一投足に、真摯な姿に、確実に惹かれて行く自分を実感している。
ひょっとしたらシアルフィアにはそんな感情はないのかもしれない。単に必要だからという理由でこうしているのであって、好きとか愛するといった感情を持ち出すのは俺が空回りをしているだけなのかもしれない。それなら俺はピエロだし、こんなことを口にしても拒絶されてしまうだろう。でも、もうそんなものは怖がらない。怖くないと言えば嘘になるけど、それで行動を躊躇ったりはしない。
「だから本当に好きになった時に、改めて告白するよ。約束する」
体温すら感じる距離で、俺は気恥ずかしいような台詞を全く躊躇することなく口にしていた。しかしシアルフィアは俺を見つめたまま、まだ動こうとしない。
彼女が何を求めているのか、俺はすぐに気が付いた。
誓いの証明。
それは彼女を傷つけるようなものではないはずだ。
でも、ひょっとしたらそれすらも勘違いであるのかもしれない。
いいさ。誤解で突き飛ばされても。拒絶されても。
あとは、俺自身の――勇気。
俺は左手を彼女の肩に、右手を頬に添えた。
静かに、彼女が瞳を閉じる。
ゆっくりと、俺は彼女に唇を重ねた。
柔らかで暖かな感触と呼吸、鼓動、震え、そういったものが混ざり合って伝わってくる。
唇が触れるだけのキス。
どれだけの時間が経っただろう。恐らく一瞬だったのだろうが、長い長い時間に感じていた。
二人の距離がゆっくりと広がる。
シアルフィアが瞳を開き、目と目が合う。
そして、彼女の瞳から涙が零れた。
一筋の滴となって、頬を伝い、したたり落ちる。
それは留まることを知らない。
違った、のか?
「う――うーっ!」
堰を切ったように彼女が泣き出す。
「ご、ごめん。そう……だよな。こんなの、好きでもない男にされて――」
俺は内心動揺しながら、彼女にかけるべき言葉を必死で探す。しかしシアルフィアは泣きじゃくったまま首を横に振った。
「ち、ちが……違うんです……何だか、ほっとしちゃって、そうしたら、急に……」
ひっくひっくとしゃくり上げている。
ほっと、した?
ああ、そういうことかと俺自身の胸にも安堵感が湧き上がり、急激に目頭が熱くなってくる。しかしここで俺まで泣き崩れるのはいくら何でも情けないから、感情を噛み殺して受け止める側を演じようとする。その程度の格好はつけたかった。
俺は優しく彼女を抱きしめた。邪な気持ちからではない。そういう欲望が湧いてこないのかと言われれば否定できないが――今はとにかく優しくしたかった。
好きとか愛してるとかは分からない。それでも、今この瞬間においては彼女に対して愛おしいという感情を抱いていることだけは自信を持って言える。
ひとしきり泣いた後、彼女が落ち着いたのを感じ取ってから窮屈さを感じなくなる程度に身体を離した。
「何か俺の知らない理由があるのかもしれないけど――好きでもないのに無理する必要なんて無いと思うんだ」
俺の言葉に、シアルフィアが照れたような笑顔を浮かべた。
「私は……ユウ様のこと、好きですよ?」
その表情に俺はどきりとしてしまった。彼女が一目惚れをするようなタイプには見えないけど、意外にそうだったりするのだろうかと少々自意識過剰なことを思っていると、言葉を続けてきた。
「でも……確かに、理由はそれだけではないです。好きだという理由だけで抱かれてもいいと思えても……打算的な考えがあること自体ダメ、ですよね」
シアルフィアは自嘲気味に呟いた。
「打算的な考え?」
「はい。そうすることで……ユウ様がより強い力をふるえるようになるから。何故かは明日すぐに分かると思います」
「力、か」
「巡り巡って自分の身が可愛いから――そう捉えられても否定はできません」
力があれば、それだけ彼女を守りやすくなるのかもしれない。彼女はそのことを言っているのだろう。
「それは違うと思うな。自分の身が可愛いだけの人間だったらこんなことできないさ。君を突き動かしてるのは、他人を想う気持ちなんだと思うよ」
覚悟を決めたせいか、自分でも驚くほど饒舌だった。そんな俺の言葉に対してシアルフィアは少しばかり恥ずかしそうに微笑んで
「人のためじゃなくて、ユウ様のためだったらそうかもしれないです」
照れたように呟いた。やめてくれ。本気で衝動を抑えきれなくなってくる。
「ユウ様が私の事を覚えていないことが少し残念ですけど……でも、大したことではないです」
ほんの少しだけ悲しそうな表情を浮かべていた。夕食の時も気になっていたが、どうやら俺と彼女は面識があるらしい。でも異世界に済む人間がなぜ? そして、本当に出会っていたとするならばどうして俺は覚えていないんだ?
「それって人違いとかじゃなくて?」
可能性として最も考えられることだった。しかしシアルフィアは躊躇うことなく首を横に振った。
「外見も、名前も、間違いありません。それに、私はあの家を知っていますから」
「あ――」
彼女の言葉に、俺は一つ唐突に気が付いたことがあった。
「そうか、だから遠慮の無いことをしてもそんなに気にしなかったのか」
かなり真面目に思い至ったことだったのだが、彼女にとってそれは黒歴史に近いものであるらしく
「だからそのことは忘れて下さいお願いします!」
と、顔を紅潮させて強く抗議してきた。そんな様子に、俺は思わず笑い声を漏らしてしまっていた。釣られてシアルフィアもクスクスと笑い出す。
もうムードは壊れてしまった。気持ちが和むような、穏やかで温かい雰囲気だ。
そう、今日はこの雰囲気でいいんだ。背伸びしたり焦ったりする必要なんてない。
「もう一つだけ、お願い、聞いてもらえますか?」
「なに?」
「名前で……呼んで下さい」
言われて、未だに俺は彼女を一度も名前で呼んでいないことに気が付いた。
「分かったよ。シアルフィア……いや、シア」
俺は親しみを込めて、愛称で呼んでみた。彼女が気に入るかどうか不安だったが――シアは一瞬驚いたような表情を見せた後、破顔した。
そして、俺に体重を預けてきた。
本能を抑え込むのは容易ではないというのが本音でもあった。それでもシアの気持ちを考えたなら、うまくやっていけそうな気がしていた。
まだ、二人の関係は始まったばかりだ。