第5幕:文化と味覚
小屋から出た俺は、さぞ険しい顔をしていたに違いない。実際シアルフィアは俺を見て顔を強ばらせていたし、レンドールの爺さんも軽口を叩いたりする様子はなかった。爺さんはただ深く息を吐いただけだった。
暗黙の了解とでもいったところか、爺さんの先導で今来た道を後戻りすることになった。シアルフィアは俺の少し後ろを歩いている。さっきは並んで歩いていた。この微妙な距離感が今の彼女の気持ちを表しているんだろう。つまり怖がっている、というわけだ。
しかし俺も少し気持ちを整理する余裕が欲しかったから、申し訳なかったが微笑みかけるようなことはしなかった。
「……この様子では、期待していた諸々はまだお預けになりそうですなあ」
爺さんがぽつりと呟いた。悲嘆する風でもなく、淡々と状況を説明している風だった。何を期待しているのかはすぐに想像できたが、突っ込みを入れる気分でもなかった。
正門から今度は反対側に建物に沿って歩いて行く。ほどなくして無数の黒い石版――モノリスと呼ぶべき構造体が多数立っている不思議な草原に出た。
「さて、今日のところは儂はこれでおいとまするとしますかな。食事の手配は済ませております。後はよろしく頼みますぞ」
と、爺さんが俺に対して言ってニコッと笑う。
「どこに行くんですか?」
少しばかり意外だった爺さんの言葉に、俺はその意味を探ろうとしてしまった。
「付き人には付き人用の寝床がありますゆえ」
一礼し、爺さんはきびすを返して去って行った。
俺は爺さんの真意を測りかねていた。二人のやり取りを見ていればシアルフィアが爺さんを信用しているのはよく分かるし、つまり爺さんにもシアルフィアの信用を得られるだけの誠実さがあるのだろう。二人が気の置けない間柄であることに疑いを挟む余地はない。――まあ、色々とやりすぎな部分があるような気がしなくもないが。
つまり、爺さんは俺みたいな得体の知れない馬の骨と大事な姫様を二人きりにしてしまうことに抵抗はないのだろうか? と思ってしまう。確かにこれまでの言動を聞く限りそれを期待してるのは分かるのだが、どうして俺を信頼できるのか――そう表現すべきかは微妙だが――気味の悪さを感じる部分があるってのは否定できない。
それを悪意とは言わないが、何か俺の知らない裏があるんじゃないかと勘ぐってしまう。
そして、今度こそ二人きりになってしまったわけだ。気まずいというのとは少し違うが、こういったシチュエーションに不慣れな人間としてはどう振る舞えばいいのか困惑してしまうのだった。
シアルフィアがモノリスの一つの前に立って
「えっと……これ、かな」
と、確認する素振りを見せる。
「この一つ一つがそれぞれアトリエへの入口になっているんです」
「アトリエ?」
「はい。私たちがこの世界で過ごしたり、課題をこなすための準備を行ったりする場所ですね」
過ごすのはいいとして、課題の準備、か。俺は先刻の学園長の説明を思い出して、気を引き締めてかからなければなと思い直していた。巻き込まれる形とは言え、もう俺の肩にかかっているのは自分一人の将来だけではないのだから。
守らなければならない。守るという行為に対して異議をとなえるつもりはない。ただ、彼女が酷い目に遭ってしまうような事態は避けなければならない。
シアルフィアがモノリスに手を触れると、表面が淡く光って波紋のようにゆらめいた。
俺と彼女はそのモノリスの"中"へと入った。
どうやら光をくぐって我が家からこの世界にやってきた時のように、あのモノリスはどこか違う場所同士を繋げているものらしい。厚さ20cmやそこらのモノリスの中にこんな空間があるはずもなく、全く別の場所に移動したと考える方が自然だ。
中はサーカステントの内側のように円形に広がっていた。広さは学校の教室を一回り大きくした程度だろうか、中央にはモノリスが立っていて、どうやらこれが出入り口になっているようだ。床は木目調で、円周に位置する外壁は白いシンプルなクロスで覆われている。高い高い天井は見上げたら目が眩みそうで、中央に大きなシャンデリアが、円周上には小型のライトが空間を照らし出している。
壁を見るとドアが二つあった。それぞれが向かい合うような位置関係になっている。
「向こうにあるのが工房で、こっちにあるのが住居です」
シアルフィアがドアを指さして説明してくれる。ふと、これだけの広さがあるってことは後で部屋の数が増えていったりするのだろうか、などと思ってみたりしていた。空間のこの形には何らかの意味があるような気がしたからだ。
俺たちは住居の方へと繋がる扉をくぐった。
その向こう側に広がる室内は悪く言えば平凡、良く言えば堅実な作りになっていた。ちょうど一つの家屋が再現されているようで、リビング、ダイニング、キッチン、そして個室が複数という構成になっている。狭くはないが、広すぎるわけでもない。絢爛な作りではないが、室内を構成する家具は決して安物ではない。そんな空間になっている。
窓の外には煌びやかな星空が広がっていた。文字通り、そこにあるのは宇宙そのものだったのだ。
窓ははめ殺しにはなっておらず、開閉するための取っ手がある。しかし外の空間を見る限り、窓を開けてみる勇気は今の俺にはなかった。
今日はここで二人で過ごすのかと考えて、俺は思わず唾を飲んでしまった。無理矢理にでも爺さんを引き留めておいた方が良かったような気もしていたが……まあ、首を縦に振りはしなかっただろうということは想像できる。後悔してもしかたないし、意味もない。
ダイニングには既に料理が用意されていた。何かおかしな術でも使ったのか、料理は出来たての暖かさを漂わせている。正直なところかなり空腹だった俺は、ひとまず夕食にしようかと提案してみた。シアルフィアは笑顔で頷いた。
ダイニングテーブルの上に並べられた料理は和洋中と取りそろえられていた。厳密には、洋風っぽいけど微妙に違う何かというようなものもあるようだったが―― 口に合うものを好きにとって食べろと言うことなのだろうか。自分と彼女とでは食文化も違うわけで、なるほど妥当だ。
俺たちは椅子に座り、料理を見繕う。
「……これ、何ですか?」
と、彼女が怪訝な表情で指し示したのは納豆の入った小鉢だった。
懸念していた意味でのおかしな料理――例えばスッポンだのマムシだの――は無かったが、別の意味でおかしなものはあったようだ。
「それは納豆って言って、発酵した大豆だよ」
「発酵した……。ユウ様の国では一般的な食べ物なんですか?」
「地域によるかな。俺の周りじゃ一般的だけど、"腐れた大豆"呼ばわりして食べない地域も結構あるよ」
そう言って苦笑いした。彼女に無理に食べさせるつもりも、また食べる必要も無いと思っていたのだったが、彼女は真剣な眼差しで小鉢に入った発酵食品を見つめていた。そして――手に取る。
俺は微妙に狼狽して、言った。
「無理することないよ。ゲテモノ好きの人でも食べ慣れてないと結構きつい食べ物だから」
俺自身、チーズ系のものは食べ慣れていないと正直きつい。どの国の食べ物にも同じ事が言えるとは思うが、発酵食品はクセがありすぎる。
「……いえ。ユウ様にとって一般的な食べ物なのでしたら、苦手だからと私が避けるわけにはいきませんから」
少し震え声になっているシアルフィアの表情は強ばっていた。嫌なら食べることはないと言う程度のことはできても、食べようとしているのを無理に止めるほど大げさでもないように思えた。俺はその発酵食品が彼女の口に合うという"万が一"を祈っていた。
シアルフィアは手に持ったフォークで――多分箸の使い方は知らないのだろう――納豆を数粒取り、糸を引いた豆を見てますます口元を歪めながら――それを口の中へと放り込んだ。
俺は納豆を噛む様子を恐る恐る眺めていたが、少しして彼女は口元を抑えて横を向いた。ガタン、と椅子の音が鳴る。やっぱり無理だったんだと俺は焦り、コップを持って席を立ち、蛇口から水を注いで渡そうとした。
水を受け取ったシアルフィアは一気に口の中の納豆を流し込んだ。
「けほっ、けほっ」
蒸せた彼女は両目に涙を溜めていた。
「いきなり納豆ってのはハードル高すぎるって。日本人でもダメな人が沢山いるくらいなんだから」
「ごめんなさい…… でも、それじゃ申し訳ないですし……」
俺は彼女がそこまで気を遣う理由が分からなかったが、生まれ育った文化がそもそも違うのだろうし、あまり詮索はしないでおこうと思った。ただ、無理はしてほしくないということだけを伝えることにして。
「食事は楽しむものなんだし、好きなものだけ食べればいいと思うよ。……まあ、栄養は偏らないように気をつける必要はあるけど」
言って自嘲気味に笑った。俺だって食べ盛りの健全な男子であるわけで、気をつけないと間違いなく栄養が偏ってしまう。肉、肉、乳製品、肉、肉、卵、肉、とか。今は妹がバランスを取ってくれるから健康的な生活を送ることができるのだが、もし一人暮らしだったらと思うとぞっとしてしまう。
シアルフィアは微笑んで、俺の言葉を受け入れてくれたようだった。
落ち着いたところで、俺たちは食事を再開することにした。