第3幕:夜と異世界
珍騒動のあと、俺は身体についた泥を落とすために風呂に入ることにした。湯船には既に湯が張ってあったのだが、これはつまりシアルフィアが浸かっていたということであるわけで、俺は少々ドキリとした。特殊性癖があるわけではないから、あくまでドキリとしただけではあったのだが。
爺さんとの珍問答を思い出し、まさかシアルフィアが浴室にまで押しかけてはこないだろうな、という期待と不安を抱いたりもしたのだったが、流石にそうなることはなかった。今頃はあの爺さんとシアルフィアが言い合っているだろう光景が容易に想像できて俺は思わず苦笑してしまっていた。
……しかしどこまで本気なのだろうかと、俺は疑問を抱かずにはいられなかった。単にバカにされているのなら、それはそれで構わないという気もしてはいるのだが。
ひとっ風呂浴びてサッパリすると、時計の針は午後6時を回ったところだった。予告の時間まであと2時間弱だ。
シアルフィアはリビングルームのソファに腰を下ろし、ニュース番組を興味深そうに眺めていた。レンドールの爺さんはダイニングルームでパイプをくゆらせながら新聞を読んでいる。
いくら何でも他人の家に馴染みすぎだろアンタは。
「あ……」
こちらに気付いたシアルフィアが立ち上がって、頭を下げた。どうしたのだろう、と思っていると
「ごめんなさい。ユウ様が入るとは知らず、先に湯をいただいてしまって……」
申し訳なさそうにしている理由を告げてきた。そんなことを気にするなんてとも思ったが、亭主関白な家では一番風呂を気にするというような風習もあったような気が確かにしていた。
「気にしすぎだよ」
それは実はご褒美です、などとは言わない。そんな性癖もない。同様のシチュエーションに対してフィーバー起こしそうな友人もいたりはするが。
俺が言うと、シアルフィアは意外そうな表情を浮かべ、それはすぐに微笑みへと変わった。
俺もソファに腰を下ろす。彼女の隣に座るというような積極性も余裕も無いわけで、L字の一辺と一辺に直角になるような配置で座ることになった。
そんな様子を爺さんは見逃す気配は無かったが、ただ目を光らせただけで茶々を入れてくるようなことはしなかった。俺にはそれが嵐の前の静けさのように思えて怖かった。いかんせん、前科がありすぎるのだ。眼福だったが。
ニュースを見ながら、俺とシアルフィアの間で特に会話が繰り広げられるような様子はなかった。少々間の悪さを感じてはいたが、実際の所シアルフィアは物珍しそうな表情で食い入るようにテレビを見つめていたためであって、それはそれでいいかとも思えていた。俺自身にとっても、少し気持ちを整理する時間が欲しかった。
もし彼女にとってテレビが珍しいというのなら、さっき言っていた"異世界"という言葉とも辻褄が合う。いちいち説得力を増強させてくるような展開に、俺はぽりぽりと頭を掻いた。
――いくらかの真実が含まれてるってことなのか?
状況的には悪徳商法からの催眠に引っかかるようでなかなか受け入れがたい話ではあったが、無邪気な彼女の瞳を見るたびに自分の心の汚れ具合が気になって、少々自己嫌悪を感じたりもしていた。
そんな後ろめたさもあって、不法侵入とも言える行為を働いている二人を叩き出すようなことはせず"様子を見る"という選択肢を選んだという面もあった。
時計の針が音を立てずに回っていく。流石に空腹感を覚え始めていたが、どうやら爺さんが後で用意するとのことらしく、俺はもう少し我慢してみることにした。
しかし考えてみたら、媚薬でも仕込まれたりしそうで怖いな……
午後7時になり、始まったのは青狸が主役の国民的アニメだった。そういうものを見る年齢でもないからしてチャンネルを変えることも考えたが、シアルフィアは退屈していないようなのでそのままにしておくことにした。時折「おお」とか「うわ」といったような呟きが聞こえてくる。アニメの世界にどっぷり浸かりこんでいるようだ。
夜のとばりが落ちていたので、俺はカーテンを閉めた。
時間は進み、午後8時まであと5分となった。
「そろそろですかな」
爺さんが家庭菜園の本を閉じ、リビングルームの方に来る。もちろん、その本も我が家のものだ。
シアルフィアは真剣な面持ちで静かに立ち上がった。俺は特に指示されるでもなくテレビを消す。
「では、いきます」
シアルフィアがリビングルームの中央に向かって右手を突き出した。何の真似だろう、と眺めていると、その手のひらの先に光が集まっているように見えてきた。
俺は疲れ目か飛蚊症か光視症かと、ゴシゴシと目をこすった。
横に立っていた爺さんが部屋の灯りを消す。すると、幻覚でも何でもなくはっきりと光の存在を確認することができた。粒子と呼ぶにはおぼろげで、しかし微妙に輪郭を保っている光がゆらゆらと揺らめいている。
俺は呼吸が早くなるのを自覚していた。9割くらいの確率で嘘だろうと思っていたのが、8割、7割と急速にその数字を減じていく。もう、何が本当のことなのか判断する余裕はなくなりかけていた。
確かに、まだこれは単なる手品だという可能性もある。しかし、もし本当だとするなら――
光は平べったく広がり、天井に達するほどになった。人はもちろん、牛や馬程度なら十分にくぐれそうな程度の大きさはある。
「準備完了です」
シアルフィアがそう言うと
「では、行きましょうかな」
と、爺さんが背後からぐわしっと俺の両腕を掴んだ。うお、見かけによらず何て豪腕!
そして俺は抵抗する余裕すら与えられず、その光の中に放り投げられた。
――
「と、と、とわっ!」
無理矢理投げられた格好の俺はつんのめって顔から草むらに突っ込みそうになり、辛うじて踏みとどまった。風呂に入った直後にまた土まみれになるなんてのはゴメンだ。
――え? 草むら?
俺は立ち上がり、軽く周囲を見回した。外が夜であることに変わりはない。しかし、その場所は――全く見覚えのないものだった。室内ですらない。
目の前には並木道があり、街灯が舗装路を照らし出している。街灯の高さは背丈よりも少し低い程度で、あまり見たことのないような形状のものだった。
左側には巨大な建物があった。北欧系とでも言うか、瀟洒で幾分歴史を感じさせるような外観をしている。窓の数から判断するに建物は4~5階建てで、幅は母校の数倍はあろうかという大きさだ。
夜空を見上げてみると、それは俺の見知るものとは全く違っていた。光害や大気汚染で汚された鈍色の星空ではなく、一粒一粒が確かな光を放ち、その色合いまでも感じさせてくれるような広々と透き通った輝き放つ景色だ。
俺はあっけにとられて、思わず頬を全力でつねってみた。
「痛ぇ」
どう考えても現実だ。夢と現実の区別くらい、つけられないわけはない。
「納得していただけました?」
声がして背後を振り返ってみると、シアルフィアの姿があった。その後ろの光から更にレンドールの爺さんが出てきて、程なくして光は粒子となってかき消えていった。
「……理解を超えた何かが起きてるってことは認めざるを得ないって思ってる」
そう、完全に理解は超えている。今起きたのはワープなのか、あるいはテレポートなのか。俺はさっきまで自分の家でテレビを見ていたはずであって、眠らされて知らないうちに運ばれたというのでもなければこんな場所にいる説明はつかない。
そして、意識が連続しているということに疑いを挟む余地は無かった。眠らされたり、意識を失わされたりしていないことは間違いない。俺はリビングルームで光の中に入って――というより放り込まれてこの場所にやってきたのだ。
更に付け加えるなら、この景色自体が少々現実離れしていた。日本国内でこんな景色の場所なんてあるんだろうか。
「十分ですな。さて、お疲れの所申し訳ございませぬがいくつか手続きなどがあるのでちゃちゃっと済ませてしまいましょう。その後は二人きりでごゆるりと」
また穏やかならない台詞を耳にして、俺は思わずシアルフィアの方を見た。しかし彼女がレンドールの言葉を否定する様子はなかった。ただ、うつむき気味になって耳を赤くしている。
常識外れの出来事と、余計な妄想を抱かせるような発言。頭の中ではキャパシティをぶち破りそうな勢いで情報が錯綜していた。
知恵熱でヤカンが沸騰しそうだったが、どうにか堪えて俺は理性を保つ。こういう状況では混乱したら負けだ。
爺さんの先導で俺とシアルフィアは並んで歩みを進めた。舗装された並木道を通って、建物の前までやってくる。しかし建物の門扉をくぐることはなく、正面で曲がって建物の外周を沿うように進んでいく。5分ほど歩いた頃だろうか、小道に逸れたところに小屋が建っていて、窓からは明かりが漏れていた。中に誰かいるようだ。
レンドールは足を止め、小屋の扉の前に立って俺の方に向き直った。
「ここに学園長がおります。正直いけすかなくナヨナヨしい若造といった風采ですが、取り仕切っているのもヤツとのことなので細かい話はヤツからお聞き下されば助かります。我々は話が終わるまでここで待機しておりますが、万一犯されそうになったりしたら大声でお呼び下さい。お助けいたしますゆえ」
「いけすかなくて悪かったな。それと、私に男色の趣味など無いわ!」
窓から怒声が鳴り響いた。爺さん、聞こえるようにわざと大きめの声で言ったろ……
俺はやれやれ、と苦笑しつつ小屋へと足を踏み入れた。