擬態
真夏の太陽が、町を灼いていた。
車一台がかろうじて通れる狭い道に面して、錆び付いたシャッターの降りた建物が点在している。ここは、かつて商店街だった。通りに人があふれていた時代もあったが、今は古びた家の建ち並ぶ、住宅街の一部だ。
その一角。周りの家と同じようにぴったりと閉じられていたシャッターが、きしみながら開いた。1人の男が、派手な音をさせながらシャッターを開けていく。頭の辺りまで上がった所で、勢いよく跳ね上げる。がしゃんと音がして、シャッターは戸袋へと収まった。
男は、20歳前後だろうか。背が高く痩せている。半袖シャツにジーンズ、肌は青白く、何年も太陽に当たっていないかのようだった。実際、店の奥から「古書 新堂」とかかれた看板と、本が山積みにされたワゴンを引き出して店の前に並べる間も、ひさしの陰からは出ようとしなかった。並べ終わると男は店にひっこみ、扉を閉めた。ガラスの扉には内側から新聞紙が張られていた。
店内は、わずかな灯りと、新聞紙のすきまから入る外の光のみで、昼間とは思えない暗さだった。入るなり鼻先に本棚が迫る。壁も一面が本棚だ。通路にも、足場のない程に本が横積みにされている。本棚の本にも、床の本にも埃が積もり、男が歩く度に舞い上がった。店の中央付近の壁際に、本棚と本棚の隙間がある。そこに置いてある椅子に男は座った。店の奥、畳を重ねて一段高くなった場所に机があり、その奥に老婆が一人座っている。机の上の古い大きなレジスターは、下を向いて縮こまっているような格好の老婆を押しつぶしそうな威圧感だった。
男も、老婆も、じっと動かない。
舞い上がった埃が落ちる音すら聞こえるような静けさ。この店に客が訪れる事はまずなく、何かの間違いで扉を開けてしまった客も、店内を一目見て退散するのが常だった。
正午を過ぎて、外はますます暑さを増している。この店に冷房の類のものはない。埃まみれの淀んだ空気が、湿気を帯びて体に纏わりつくような不快な状況でも、男と老婆はじっとしていた。眠っているわけではない。2人とも、暗い中でじっと、老婆は机の上を、男は床を見つめていた。
◇
赤い光。
甲殻類の殻がいくつも重なったような顔面に、ぽっかり空いた穴の中に納まったそれは、目だ。
そいつは、真っ直ぐ、俺を見つめている。
赤い目と、俺の間。
背を向けているのは、親父だ。
親父の背中の真ん中を、棘の生えた、作り物のような腕が貫いている。そこから滴る血で、親父の下半身は真っ赤に染まっていた。
「ば、化け物……」
親父が、かすれた声で言った。
化け物、目の前の物は、それ以外に表現しようがない。
小さい頃から毎日見てきた店の中で、化け物と血まみれの親父は無理矢理挿入された異物のようだ。
化け物が、親父を引きずって、ゆっくり、こちらに向かって来る。俺は身動き一つとれず、ただ、それを見ていた。
◇
不意に響いた音で、男は、白昼夢から引き戻された。扉の開く音だった。稲光のように、真昼の光が店内に射し込む。続いて、光を背に1人の女が店に足を踏み入れた。20歳前後、大学生のようだ。ノースリーブのチュニック、クロップド丈のズボンにミュール、合皮のショルダーバッグをだらしなくぶら下げている。髪はラフに纏めてあり、化粧気は無い。女は、舞い上がる埃に少し眉をしかめたが、そのまま店内へと足を踏み入れた。
女は、通路をふさぐ本にも、厚く堆積した埃にも頓着せず、あちこち物色するように店内を見て回る。男は、女が店に入る際に扉をきっちり閉めなかったせいで、店内に細い光がまだ差し込んでいる事がたまらなく気になっていた。立ち上がって扉を閉め、椅子に戻ると、女が店の奥で老婆と顔を寄せあって話しているのが見えた。が、それ以上関心を払うことなく、男の視線は再び床へと落ちた。
その視線に、女のミュールが割り込んだ。
「あの、本を運ぶの手伝ってもらえませんか?」
「……」
「ハードカバーの文学全集で、とても一人じゃ運べないんです」
と、言って、女は、男の反対側の壁の前の、赤い背表紙の本の山を指さした。
「……」
「お婆さんに、あなたに頼めっていわれたんですけど」
男が睨むように見ても、レジ前の老婆はいつもの通り格好で、こちらに目を向けることすらしない。男は、無言で、立ち上がった。
深夜。
街灯の下を、男が歩いていた。
日が落ちても、暑さは衰えない。周囲に人気はまったく無い。建ち並ぶ家の明かりはほとんど落ちている。
不意に、男が、街灯の真下で立ち止まった。
暗がりの中に、無数の気配がする。
そのまま立ち止まっていると、じれたように気配の主達が動き出し、光の中に歩み出た。
四つ足、犬のようにも見えるが、毛皮のあちこちから攻殻質の鱗の様な物が乱雑に生えている。体は歪に膨れ、白く濁った目に意志は感じられない。開けっ放しの口からは舌がだらりと垂れ下がり、茶褐色の液体が滴っている。その犬に続くように、次々と同じ様な、だが、決して同じではない歪んだ生き物たちが男を取り囲んだ。
犬の様な生き物たちが数匹、うなり声をあげて男に襲いかかった。
男が動じることなく、大きく腕を振るうと、何匹かが男の足下に叩きつけられた。間髪入れず、もう片方を振り下ろすと、残りが弾け飛んだ。
飛び散る血にひるむどころか、いっそう興奮した犬達が一斉に男に飛びかかった。
喜びの声を上げているかのような熱狂的な攻撃の中、男は、一人、冷静だった。
いつもの事だ。
親父が化け物に殺されてから、俺の前に、この妙な奴らが現れるようになった。そして、俺は、この妙な奴らを素手で叩き殺す事ができるようになっていた。ほとんど毎晩。誰にも見られない深夜。俺は町を歩き回るようになった。だが……
男が、妙な違和感を覚えた。
いつもより数が多く、いつもよりいっそう興奮している気がする。攻撃がやむ気配はない。
不意に、犬達が、一斉に男から飛びすさった。
男に向かって油断なく注意を払いながらも、別の方向にも意識を向けている。
男も、そちらに意識を向けた。
道の向こうから、誰かが歩いてくる気配がする。
向こうからは、この惨状が見えているはずなのに、歩を乱す事もなく一定の足音だ。
歩いてくるのは、昼間の女だった。
威嚇の唸り声にもまったく怯むことなく歩いてくる女に、犬が数匹、襲いかかった。
が、次の瞬間、飛びかかった奴等が悲鳴を上げて跳ね飛び、倒れた。眉間や腹に、細い鉄の棒のような物が刺さっている。真っ直ぐ伸ばされた女の腕の先が、奇妙にねじれて変形し、まるでボウガンのような形になっている。棒……ボルトは、ここから発射されたようだった。女が犬に歩み寄り、かがんでその手をボルトが刺さった傷口に触れた。犬の体がびくりと大きく痙攣する。一瞬置いて、鱗が見る間に剥がれて落ち、膨れていた体も徐々にバランスを取り戻していき、やがて、そいつは、普通の汚い野犬になった。
「……宿主を殺さずに、処理する方法もあるんです」
男の周囲の、血と肉の塊をぶちまけたような光景を見て、女は、言った。
「……」
男は、この女が、自分と同じ生き物だと、本能で理解した。理解した次に、沸き上がってきたのは、疑念でも安堵でもなく、目も眩むような怒りだった。目の前のこの存在を、許してはおけない。
だから、物も言わずに、女に飛びかかった。
女は少し驚いた顔をしたが、すぐに、迎え撃つ体勢に入った。かざした手から生えるボウガンに、ボルトが勝手に装填される。
男が間合いに入る直前、女のボルトが発射される直前、男が突然踏みとどまった。勢い余って、2、3歩よろけ、そのまま、あっけにとられた女の横をすりぬけ、後ろも振り向かずに走り去った。
「……行く所は、一つしかない……」
男は、店に戻っていた。
このまま、感情にまかせて腕を振るえば、この赤い怒りにつかまって、二度と戻れないのではないか。急に沸き上がった恐怖が、彼の攻撃の手を止めさせた。
そのまま逃れたが、彼の戻れる所は、ここだけだ。
店に入り、扉もシャッターも閉めた。やつは昼間ここに来たんだから、これでは逃げた事にはならない。でも、ここに戻ってくるとたまらない安心感が彼を包んだ。
いつもとかわらない。
自分の場所。
確認するように、店内を歩き回る。
ふと、その足が止まった。
女が昼間本を買ったせいで、壁が露出している。男は、少し不愉快になった。だが、まじまじと見るうちに、壁の色が少し違うことに気がついた。ちょうど顔の高さくらいの長方形。そういえば、ここには昔、鏡がかかってなかったか。
男が、壁に向かって手を伸ばす。
そうだ、ここには鏡があった。
ちょうどここに立って、こうやって手を伸ばして。
ゆっくりと鏡に向かって。
『化け物……』
親父の声は、もっと、近くで聞こえていなかったか。
そう、たとえば、すぐ、耳元で。
男は、店の外に出た。
思った通り、女が待っていた。
「この街に、『居る』事はわかってた。あなたを、探していました」
「……」
「自分は息子を殺した化け物と住んでいる」
「……」
「……あなたのおばあさんが知り合いにそう漏らして、それが、私たちの耳に入った」
「……なぜ」
「……?」
男の体が、奇妙に膨れ始めた。
「なぜ、ほうっておいてくれなかった」
体の奥から硬質化した骨がせり出し、肌を突き破る。いくつも、いくつも。そのたびに、男がうめき声を上げる。それは外骨格となり、全身を覆っていく。男は、苦痛と恐怖で顔をゆがめ、涙を流していた。
「あなたは既に、1人殺している」
「今、もう一人死ぬ」
男の顔が、増殖していく棘と殻に飲み込まれた。
「お前が来たから、俺は死ぬんだ。おまえが、おまえが……」
恨みの声は途切れることなく続く。だが、そこにはもはや感情は感じられなかった。男だったその固まりが軽く腕を振るうと、一撃で、店がぺしゃんこに潰れた。
男の顔があったのとは別の場所に、顔らしい物がある。その表情は、怒りに震えている。
もはや、擬態は必要無い。
彼は、雄叫びをあげた。
目の前の侵略者に対する怒りの咆哮だ。
女がその声に呼応して、流線型の外骨格に覆われた、蜂の様な姿に変わった。腕にはボウガン。背中に生えた羽を震わせ、ゆっくりと、飛び上がる。
上からは、店のあった場所が、見渡せる。
潰れて残骸だけになった今では、それはすごく小さく見えた。
だいぶ前に書いて放置していたものに手を入れて公開してみました。続きも考えていたはずですが忘れました。