或ル剣客ノ死
某講談より
今、一つの物語が幕を下ろそうとしている。
時は寛永も十と少しばかりの三代将軍、家光公が治世の頃。場は水戸徳川藩のとある武家屋敷が一つ。
そこには春も暮れようとしているのに未だに冬に用いるような厚手の夜着(掛け布団)を被る武士がいた。鼻筋の通った役者か稚児のような整った顔のまだ年の頃は二十を過ぎたか否か程の若侍だ。
しかし、彼は咳き込む度に血は出ぬものの、暫し感じた魂を削り吐いているような感覚も最早なく、体も羽が如き軽やかでつい布団から出てしまえばそのまま天へと行けそうな心地にすらあった。
彼はふと思い返してみた。思えば、我が人生は既に三年前に終わっていたのではないかと。
間違いはなかろう。彼が七つの頃より剣の腕を磨き続けたのは偏に憎き父の仇、堀源太左衛門を討つ為に他ならない。その誓いより早十と四年の月日が過ぎ、最早彼の仇も江戸柳生が道場主である柳生飛騨守宗冬殿より学んだ新陰流の一刀にて既に亡い。
在るのは四国随一の腕とされた讃岐高松藩が武術指南役を一太刀にて打ち負かす程剣に通じ、それこそ江戸柳生屈指の剣客であった事すらも遥か遠き事のように病んだ己が身と嘗て高松藩にいた頃、書を披露した際に藩主・生駒下壱岐守殿より拝領した伝彦四郎貞宗のみだ。
もう死ぬな、咳き込み過ぎたのか僅かに咳に血が混じったのを拭った手の朱を見ながらそう思った。死ぬのは怖くない、しかし武士であれずに死ぬのは怖い。
ならば、せめてと這いずりながら、刀架に架けてあった貞宗を手に取ると柱を寄りかかるように倒れ込む。
手に馴染んだ重さであった貞宗が重く感じるのは暫く触っていなかったからだろうか、しかしそんな些末事は彼にとってはどうでもよく鯉口を切ると鞘から抜き払うと刀身を眺める。稀代の名工の鍛えしそれを見つめるその目は限りなく澄んでいた。
そう、まるで遊びに興じる童のようにどこか楽しそうな瞳でそれを眺めている。
しかし、それも外からの僅かな気配によって止める。それの中に不穏なものを感じた瞬間に先刻まで戦場では役に立たぬ病人の躯は嘗てのように思うがままに動き、それに応えるかのように貞宗を軽く振るうと、雨戸を切り払う。
夜も真夜中の暁九つ。下女も暇を出した家に普通の用があろう者などいまい。
「よく気付いたな。流石は、といった所か」
笠の上からでも判る、左目から鋭い眼光を放ちながらも、笑みのようなどこか愉快そうに見つめる。恐らくは彼より多少年長の二十半ばから三十ほどの侍であるがその足取りは勿論毛ほどにすら油断のない、達人と呼ばれし者等ですらかくやという程の武道に優れている者であるというのは分かる。
簡素ながらも実用に重きを置いた筒袖と同色の野袴、長旅に適した草鞋と脛巾。肩には僅かだが旅塵がかかっているようにも見える。
男はその手を柄元から離すことなく話していたが、それも暫くすると手を笠を外す為へと使われる。暗がりながらも右目を鍔にて覆うその異装は天下の何処を探そうとも、今は亡きかの独眼竜・伊達従三位権中納言殿か彼の同門最強と称される御方しかいまい。
「……これは柳生十兵衛三厳殿。此の様な無礼、申し訳ありませぬ。して夜分に何用で御座いましょうか?」
彼は軽いのか、重いのか己すら分からぬ体を引き起こしながら腰に右手の大刀を鞘に納め直すと右側に置き、枕元にあった脇差を差した。師範の兄であり己の師伯にあたる人物に剣を向けた、そうでないにしろ長旅をした同門の先達に対し礼が欠けた行動。それだけでも非礼に斬られてすら何の疑問はない。
だが、それ以上に疑問が頭をよぎる。彼は勿論の事、新陰流を納めている者が柳生の役目を知らぬ訳は無い。大目付・柳生但馬守より各藩に推挙されし新陰流の者等は、時に幕府の脅威になろう者等を粛正する幕府の刃と化す。その柳生の裏の主こそ三厳である。
だが、水戸徳川と云えば、天下に鳴り響く御三家が一つ。その格は同じ身内なれど親藩よりも上である。それがお取り潰しになるような沙汰は藩士である彼の耳に入った覚えはなく、また左様な事になれば外様、のみならず、譜代、新藩すら公儀そのものへの不信感を抱く。
しかし、それ以上に藩士である彼にとって藩に仇なすならば斬るしかあるまい。例えそれが殺されようとも殺さねばなるまい。
それが武士なのだから。彼は剣客である前に水戸藩士としての思考に基づき選択する。
「ふん、親父殿の頼まれ事の帰りよ。誠に児戯に過ぎぬ匹夫共しか居らぬ故飽き飽きしていたが、その帰りに貴様が死に体だと聞いてな。先程の剣気から察するに腹でも切ろうとしたのであろう。なれば、畳の上では死にたくなかろうから同門としてせめてもの慈悲を、な」
そう言い三厳は低く嗤った。見透かされている、そう思い目の前の剣士を見た。
暗くてもはっきりと判るほどに――――その隻眼には狂喜と愉悦の色を強く宿している。潰れた片方の分も足したかのように、爛々と篝火か人魂が如く輝く。
……そこに先程まで呵々と不敵に笑っていた、嘗てより憧れていた先達はなく、長らくその身を生死の狭間に置いた一匹の剣鬼のみが、いた。体中から漲り溢れんばかりの殺気は最早唐土の奉先殿もかくや、といわんばかりだ。
腰に手をかける三厳を見て、判断も碌に着かぬ愚図な頭よりも早く体が動いた。瞬時に左腰へと大刀を差し、先の敵の一挙手一投足に注意を払う。恐らくこの身は一太刀を振るうのすら容易ではない。立つことすらままならぬ身では足に力の入らぬ剣となり、斯様な剣は古今東西どのような剣よりも劣る。
ならば、居合を遣うしかあるまい。陣中にて振るうことを想定し思案された型もある、遣うとならばそれが有効となろう。それに彼は新陰流でも、こと居合は抜きん出る腕を持っていた。それは水戸藩家中においても同じであった。
その彼が新陰流にて鍛えられ、また水戸にて新田宮流をも取り込み鋭く研ぎ澄まされた恐らく生涯に悔いを残さぬ一刀を、江戸柳生のみならず柳生宗家を含めても最強とすら称される男に――放つ。ただその為に隙を探し、相手の動きを見続ける。
「ふん、どうした。よもや、その躯全く利かぬと言うならばまだ苦しまずに逝けるものだがなぁ。」
「何故、某が下へ? 拙者は既に鬼籍も同然、片足を父母と同じ地に着けております。戦うなれば某以上の猛者など、この日の本には数多とおりましょう」
心の内から思った事を武士は述べた。達人同士の打ち合いならば例えそれが袋竹刀とて殺し合える。真剣ならば言うまでもない。
幾ら敵であろうとも同門を斬るのにはやはり抵抗がある。憧れに剣を向ける、太平の世にあって功名を求むる餓鬼へと堕ちるのを嫌悪している。
彼の言葉に三厳は一瞬拍子が抜けたような、白けたような間が僅かに流れたが、呵々と嗤った。
「くくくっ、そうか、貴様もそうか。仁義だの忠義だの立派なお題目がなければまともに刀すら抜けん者か……。ぬかせぇいっ! 貴様とて分かっておろう、感じておろう その血、その身、その魂が訴えておろう!
剣を握りたいと、強さを欲したいと、切りたいと!!
詰まる所、剣に憑かれておるのよ、男児という生き物はな。狂うておるのよ、剣客という者どもはな。幾ら縛り付けようとて貴様も儂も此の世が剣士である限り修羅の者よ、化外の者よ。己が以外は皆敵よ。」
そう嗤う三厳は急に嗤うのを止めた。先程まであった狂気の鱗片すら見せない、能面が如き無表情。それは嘗て師に愛した能が一幕、実盛を思わせるかのような老いた武将のようにすら見えた。
「天草の戦も終わり、公儀に逆らう者は最早おるまい。いるにしろそれは弱かろう。武士とは戦う生き物よ。相手の首を掻き切り、切り捨て、殺す事にこそ誉れとす生き物よ。ならば、太平の世に武士はいらなかろう?
武士の作りし世は武士の不要な世と化そうよ。なれば、儂は最後の武士となろうぞ!!
合戦場こそ永久の住処とし生きる最後の剣客となろう、鬼と蔑められ怖れられ駆ける最後の武者となろう、ただ斬るためにだけに鍛え抜かれたただ一振りの剣となろうぞ!!」
剣に生きて、剣となるが故の苦痛、怠惰、憤怒。そのどれもが理解でき、理解できなかった。
侍とは、武士とは、士分とは主が為に生き、主が為にこそ死ぬべき生き物だ。武芸者ではない、戦国乱世の武士ではない。彼等は大平の世の、無用な争いを避けた世の武士である。
彼は一途に武士であろうとし、三厳は一途に武芸者であろうとした。故に二人の意識の隔たりは天地の差に等しい。
しかし、彼の口元は歪んでいるのは彼は気付かなかった。
「では、よもや語る必要などあるまい。続きはこれとあの世にて語ればよい」
三厳は腰の三池典太を抜くと構えた。龍の口から構えられた青眼は今までに立ち会った剣客、その全てよりも堂に入っていた。
憧れが、柳生最強が剣を向ける。つい先程まで、ただ溢れていた剣気、殺気が全て彼へと向けられる。その荒れ狂う濁流の中、その中をまるで清流であるかのように彼の意識は最早一刀にのみ注がれる。
相手は感じればいい。武士を棄て剣客として彼はある。己が生存の為ではない。ただ剣に愉悦を、剣に意義を求める為にあるのだ。
故に彼を斬る。そうでなくてはならない、そうでなくてはならないのだ!
最早武士に狂奔する獣は要らぬ、使い手の手すらも断つ剣など要らぬ、主無く天下を住まいとしただ剣にのみ生きる――無双など要らぬのだ。
故に、彼は駆けた。
白は闇の中、月に照らさてるが故によく映えたその色は目に見える風とはかの如くと言う速度で疾走する。
まるで餓狼が獲物を見つけたかのように。
対する三厳はそのまま流れるように足を進める。
暴風が如く進んでくる彼に対し、三厳はまるで先程の言とは相異なるとも言ってもよい静寂の中にあった。それは無風の中の湖面に等しい。
そして時は来る。互いが互いに一足一刀の間合いまで詰める。彼はその貞宗を抜き付け、三厳は三池典太を振るう。柳生の、新陰流の神髄は後の先にこそある。勿論、それは同門の彼も承知である。
月明かりの中、互いの剣が月光を帯び一刃は光の帯を為した。互いの刃を重ねる事はない。それはどこか退廃的な、刹那の美しさともとれる美を醸し出していた。
「ほう、やはり迅いな。」
三厳は嗤いも、嘲りもなく純粋に彼を賞賛した。確かにその剣速は三厳を以てしてもその視界に留め続けるのが困難な程だ。
「……どういう事でしょうか……」
「どういう事、とは?」
憤怒の激情を抑える事もなく怒りに顔を歪ませながら、彼は三厳に問うた。彼からは今まで僅かにしか感じられなかった殺気が濃厚に場に流れても尚、顔色一つ変えず飄々とする三厳は口元を弓形にしながら言った。
「何故、斬らなかったのですか! 避けて尚斬る余裕が貴方様程の方が無いわけがないっ!」
切りかかる彼に対し、まるで稽古でもつけるかの如くただその剣すべてを受け流す。そのただ振るわれているだけの剣は彼でなくてもそれなりの腕さえあれば大した脅威にすらならぬそれを三厳は丁寧に受ける。
「その方の無礼故よ。ぬしは儂を『主の為に』斬るのであり、ぬしが『ぬしの為に』斬るのでは無かった。ぬしが敵を討つ時、ぬしは何の為に斬った? 父の為か? 母の為か? 御家再興の為か? 違かろう、ぬしはぬしの為に斬ったのであろう。ぬしが仇を討つと決め、殺す事だけに腕を磨き、その身を削り、ひたすらに磨いたその腕で、斬り殺したのであろう! 又十郎に聞いたわ、大人しく寺で坊主にでもなれば良かろうに、それを反故してまで江戸に来てまでして尚、己が為ではなく父母が為と? ほざくな、最初こそそうであったやもしれぬ。しかしな、ぬしも剣に魅せられたのよ!」
三厳は力を込めて向けられた剣を弾き返した。病治らぬ体は軽く地団太を踏む。そこに更に一太刀、また一太刀と打ち込んでゆく。その全てが比類無きほどの剛剣であり、刀を落としそうになるが耐え凌ぐ。
「ぬしはこの十兵衛三厳を本気など出せぬと舐めておるのか、つけあがるなよ下郎が! 儂への無礼、これをぬしに返した。ただそれだけよっ!」
更に叩き付けるような剛剣に手先が痺れる。今までとは異なる怒りが込められた一撃は何よりも心に響いた。
非礼を非礼にて返す。道理である。ならば……礼を以て殺す他あるまい。
「申し訳ありませんでした。では、殺しましょう。某に殺されて――斬られて下さい、三厳殿。綺麗に、痛み無く殺すように尽力します故にしかる後の黄泉路の案内、していただけますな?」
最後に浮かべた笑みには狂気が混じる。そうだ、それこそが彼本来の、仇にすら見せなかった本気。人の形をした、人非ざる人。魔人、剣鬼、悪鬼。この世にあってはならぬこの世のもの。
それは構え直した。先程と同じく居合であるが、大きく異なる。
動くのを前提とした先程の構えとは異なる、後の先を狙うかのような動く事を念頭に置かぬ構えを見せると断頭する罪人をみる首切り役人の如き冷めた目を向ける。
先程、三厳が感じ得なかった寒気が背筋を通り抜ける。久しく感じなかったそれを悟ると笑みがこぼれた。やはり目に狂いはなかった、彼は殺すに足る、宿敵となり得る存在だ。
「応、来い小太郎っ! 貴様の最期の剣、この三厳が見届けてくれるわっッッッ!!」
三厳の剛剣と彼――小太郎の凶剣、それが互いの剣閃が交差し、そして…………終わりを迎えた。
田宮小太郎国宗、幼名は坊太郎。讃岐藩生駒家の足軽であった父源八郎が指南役の掘源太左衛門に斬られた事を知り、単身江戸へと向かい柳生又十郎宗冬に師事し、その腕を鍛えた。その腕は卓越したもので江戸木挽町・柳生道場師範代を元服前の十になろうかならまいかの歳で一本を取るほどだった。そして、十八の若さにして本懐を遂げる事となる。
その後は敵討ちの際に惜しみない支援をした水戸徳川家に仕えるが、その修行で体に無理をさせたのが祟っただろうか。享年二十一。その墓は故郷である讃岐、父の生前より縁があった志渡寺にある。
柳生十兵衛三厳、柳生但馬守宗矩の嫡子として生まれる。その後、後の三代将軍、家光の下で指南役として働くが二十歳の頃に罷免され、十余年の放浪の果てに剣の極意を見出したとされる。後に父の遺領を弟である又十郎宗冬と分割され、その事に憤慨し官を辞して柳生の庄にて籠もったという。
慶安三年、鷹狩の最中に泥に足を取られ溺死したとされるが、その死因は不詳である。享年四十四。
余談であるが、三厳はその体中の怪我の中でも一際大きく、目立った右目と右腕の切り傷については生前から何一つ述べなかったという。
ホントはこの後田宮に六道輪廻で修羅界に行って魔人化したり、ダルタニアンとかと色々とするぼくのかんがえたどりふたーずを始めるつもりでしたが着地点を考えてなかったから短編にしました