ありがとう……
「健史!」
僕はそう言いながら倒れた“彼”を揺すぶった。
「うーん……あれっ、ここどこ? ウチじゃないみたいだけど。父様、タケシって誰?」
そして、程なくして意識を取り戻したのは“彼”ではなく、息子の秀一郎だった。
「北アルプスの〇〇岳のふもと、覚えていない?」
海がそう聞くと、秀一郎はこくりと肯いた。
「突然休講になってさ、家に帰りついたとこまでは覚えてるんだけど、何かぞわっと寒い感じがして……それから記憶がないよ。だけど、休講くらいでなんで家に帰ったんだろ?」
そうやって、自分の記憶の糸をたどりながら息子はしきりに首を傾げた。
「お前がここまで1人で運転してきたんだよ。私の知り合いの訃報だから、落ち込んで運転を間違えてもいけないからって言ってくれてさ」
「げっ、それもマジで覚えてないよ。ヤバイ……僕ホントにどうしたんだろ」
息子は首を振りながら僕の言葉に返した。
「ねぇ、龍太郎…何だか違う気がしない?」
「何が?」
「顔よ。」
海に言われて、僕は秀一郎の顔をもう一度まじまじと見た。全く違う顔になるはずもないのだが、あんなに似ていると思っていた健史そのままの顔ではない。少し海に似ている部分が強調されたと言うのか、結城家で育った環境の影響でおっとりとした面が表立った言うのか……印象がそれまでと違っていたのだ。たった何時間かの間にである。
健史は本当に逝ってしまったのだと僕は悟った。
「ああ……確かに」
「ねぇ、なに2人で僕の顔見てこそこそしゃべってんの? なんか感じ悪いよ。変だよ。記憶がない僕が一番変だけどさ」
そして、1人でボケてつっこむ姿に、僕は涙が出た。隣を見ると海も泣いていた。
健史……君はやっぱりバカだよ。報われない愛のために命まで投げ出すなんて。
それに……僕の考えに間違いがなければ、最初そうやって海に近づいたものの、君は僕よりも海を愛してしまったんだろ? だから、その事の良心の呵責にも耐えかねて君は死を選んだ。
そして、今でも愛してると言おうとした海の言葉を、僕に気遣って最後まで口にさせようとはしなかった。
そんな気なんて遣わなくていい。僕は知ってるよ。海は君を……君だけを今でも愛している。
君が最初僕が好きだったと海が気付いたように、僕も彼女が心の奥底の大切な部分に君をずっとしまいこんでいるのをちゃんと知っているのに。
なのに、君は独りで逝ってしまったし、彼女の言葉まで呑み込ませた。
僕は、もしもあの時君が彼女と2人で生きる選択をしたとしても、最初こそ落ち込んだかも知れないけれど、きっと時間がかかったとしても二人の幸せを心から応援する事が出来るように……なれたと思うよ。
だから、君はホントにバカだよ。そして、本当に大切な大切なものをたくさんくれた。my precious-君こそが僕の宝物。
僕はこれからも君の遺してくれたものを一生大切に抱きしめて生きていくから――
「やっぱ僕だけじゃなくて、父様たちも変だよ。何を泣いてるの?」
泣いている僕たちに秀一郎は怪訝な顔を向けた。
「ホントにかわいいなと思ってさ。お前は私たちの宝物だよ」
僕はそう言いながら、秀一郎を抱きしめた。海が横で頷いた。
「気持ち悪っ! それに、見てないから良いけどほのがこれ見たら怒るよ。頼むからここだけにしてくれる? それでなくても、父様はお兄ちゃまと私では対応が違うって、よく嫌味言われるんだからね」
「父親が息子を可愛がって何が悪い」
僕は口を尖らす秀一郎の髪を乱暴にくしゃくしゃと撫でながら、そう言った。秀一郎の方も、口ではそう言いながら、何だか嬉しそうだった。
翌日荼毘に付された健史のお骨を秀一郎に持たせ、帰りは僕が運転し帰途に着いた。
「この方が居なかったら、お前は生まれてはいない。まさにお前の命の恩人なんだよ」
僕はそう説明して、“健史”を実の息子の懐に抱かせて大切に大切に家まで運んだ。
-*-*―*―*―
次の日、僕はあの人から呼び出しを受けた。
「梁原が遺体で見つかったそうだな。お前が引き取ったと聞いたが……」
「ええ、事後承諾で申し訳ないですが。言おうとは思っておりました」
「彼が……秀一郎の実の父親だからか」
続いてあの人はストレートにそう言った。
「ご存知でしたか」
僕は軽く驚いてそう返した。
「いや……だが、あれだけ似ていればな。私も何度か彼には会っているから」
「父様、どこからお話したらよろしいでしょうか……」
それで、僕はこれまでの経緯をかいつまんで正直に(とは言え、健史が最初僕に気があったという事はさすがに伏せて、海の幸せを切に祈ってという事にしたのだが)あの人に話した。
「そんな事が……お前が梁原を密かに探していると知って、あやつがお前から彼女を奪って身ごもらせて逃げた事を憎んでいると思っていた。それにしては、彼そっくりの秀一郎を心から可愛がっているし……不思議には思っていたのだが。」
「僕にとっては、秀一郎は何にも変えがたい宝物ですよ。父様、僕の子供ではない跡取りはダメですか。」
本当のことが解ったあの人に、僕はそう尋ねた。
「戸籍上は間違いなく、20年前に何があったとしてもお前の子供だろう。もうどうでもいいことじゃないか。それに、今時血のつながりを云々する時代でもあるまい。
秀一郎は、YUUKIを引っ張っていくだけの素質を充分持っている。案外、お前よりも向いてるかもしれんぞ。そんな逸材を、みすみす過去の経緯でふいにするほど、私は経営者として甘くはないよ。
それにな、孫ってもんはじじいにとっては無条件にかわいいもんなんだよ。
龍太郎、お前本当にいい友達を持ったな」
僕はその言葉に出そうになった涙をかろうじて堪えて、父様に深々と頭を下げた。
「父様、ありがとうございます。」
健史、ありがとう……君は、僕から父親へのわだかまりさえ消してくれたよ。