勇者と魔王の正面対決
1.死角の勇者
勇者ルークには、王国最強と謳われる固有能力があった。
《絶対背後》。
一度敵と定めた相手の背後へ、瞬時に移動する魔法である。その能力の恐ろしさは、単に背後を取れることではなかった。相手が振り返ろうとすると、魔法が自動的に発動し、再び背後へ移動するのである。
どれほど素早い敵であっても、ルークを正面から捉えることはできない。巨大な竜が振り返れば、その背後へ。百戦錬磨の剣豪が身を翻せば、またその背後へ。ルークは常に敵の死角を取り続け、一方的に攻撃を仕掛けることができた。
この能力によって、ルークは数々の強敵を打ち破ってきた。
そして今、彼は魔王城の門前に立っていた。
長い旅だった。幾多の魔物を討伐し、魔王軍の幹部たちを退け、ようやくここまで辿り着いたのである。
城の外では、王国軍と魔王軍が対峙していた。両軍とも、勇者と魔王の決戦が戦争の行方を決めることを知っていた。
「勇者ルークよ。王国の命運は、そなたに懸かっておる」
国王の言葉を思い出し、ルークは聖剣を握り直した。
魔王ヴァルガス。幾人もの歴代勇者を退け、魔族を率いて人間の国々を脅かしてきた恐るべき存在である。
正面から戦えば、勝てる保証はない。だが、背後を取ることができれば。
ルークは静かに息を吸った。
「……行くぞ」
そして、魔王城の扉を押し開けた。
2.最終決戦
魔王ヴァルガスは、玉座に座っていた。
漆黒の鎧をまとい、傍らには巨大な魔剣が置かれている。その姿からは、歴代の勇者を退けてきた者だけが持つ、圧倒的な威厳が感じられた。
「よくぞここまで来たな、勇者よ」
魔王が立ち上がる。
「魔王ヴァルガス! 今日こそ貴様を倒し、この戦争を終わらせる!」
「よかろう。我が力、その身をもって知るがいい!」
魔王が魔剣を抜いた。ルークも聖剣を構える。
互いの魔力が高まり、玉座の間を凄まじい緊張が満たした。
そして、ルークが先に動いた。
「《絶対背後》!」
その姿が消える。次の瞬間、ルークは魔王の真後ろに立っていた。
完璧な位置だった。魔王はまだこちらを見ていない。このまま聖剣を振り下ろせば、勝負は決まる。
しかし、その瞬間。
魔王が振り返った。
「!」
ルークは驚愕した。
速い。
これまでの敵とは比較にならない反応速度だった。だが、問題はない。《絶対背後》は、相手が振り返ると自動的に再発動する。
ルークの姿が再び消え、魔王の背後へ移動した。
すると、魔王がまた振り返った。
ルークは背後へ移動した。
魔王が振り返った。
ルークは背後へ移動した。
魔王が振り返った。
ルークは背後へ移動した。
「……む?」
魔王が小さく声を漏らした。ルークも眉をひそめた。
何かがおかしい。
魔王が振り返るたびに、ルークの魔法は正常に発動している。にもかかわらず、魔王は即座にこちらへ向き直ろうとする。しかも、その速度が尋常ではない。
ルークの背後への移動に、魔王は完全に追従しているのである。
やがて、その動きは人間の目で追える速度を超えた。
ルークが消える。
魔王が回る。
ルークが消える。
魔王が回る。
その繰り返しが、凄まじい速度で続いた。
「何だ、これは!?」
魔王が叫んだ。
「それはこっちの台詞だ!」
ルークも叫び返した。
しかし、二人の身体は止まらなかった。
*
実は、魔王ヴァルガスにも固有能力があった。
《万敵正面》。
自分に敵意を向ける相手を、必ず正面に捉える魔法である。
どれほど素早い敵であっても、死角から奇襲を受けることはない。相手が背後へ移動しようとすれば、魔法が自動的に身体の向きを修正する。
この能力によって、ヴァルガスは数々の勇者たちを退けてきた。そして今、その能力は完全に正常に機能していた。
ルークの《絶対背後》も、正常に機能していた。
勇者は、敵の背後に立つ。
魔王は、敵を正面に捉える。
どちらの魔法も、その目的を達成するために自動的に発動し続ける。
しかし、そこには一つだけ、致命的な問題があった。
勇者が魔王の背後に立ち、なおかつ魔王が勇者を正面に捉えている状態は、どう考えても存在しないのである。
一方が位置関係を修正するたびに、もう一方の修正が必要になる。そして、その修正が終われば、また最初の修正が必要になる。
二つの魔法は、互いの成立条件を際限なく破壊し続けた。
勇者ルークと魔王ヴァルガスは、世界の命運を懸けて、凄まじい速度で回り始めた。
3.王国史上最速の戦い
魔王城の外では、王国軍の兵士たちが決戦の行方を見守っていた。
勇者が城へ入ってから、すでに十分が経過している。しかし、いまだに勝敗を知らせる合図はなかった。
「勇者様はご無事だろうか」
「相手はあの魔王だ。激しい戦いになっているに違いない」
兵士たちは不安げに城を見上げた。
そのときだった。
魔王城の窓から、凄まじい風が吹き出した。
「うわっ!」
周囲の木々が大きく揺れ、地面の砂埃が舞い上がる。さらに、城の上空に巨大な雲が渦を巻き始めた。
「な、何だ、あれは!」
王国軍の魔術師たちが驚愕した。
魔王城を中心に、巨大な竜巻が形成されつつあったのである。城の窓が次々と砕け散り、瓦礫が空高く巻き上げられる。
「まさか、勇者様と魔王の戦いによって……!」
「なんという魔力だ!」
王国軍も魔王軍も、その光景に圧倒されていた。両軍の兵士たちは、城から距離を取って避難を始めた。
しかし、竜巻はなおも勢いを増していった。
*
玉座の間では、勇者と魔王が回っていた。
《絶対背後》による瞬間移動と、《万敵正面》による超高速の身体回転。
魔王の身体は魔法によって守られていたが、周囲の空気までは守られていなかった。猛烈な回転が空気をかき乱し、さらに二つの魔法の連続発動によって生じる魔力の流れが、巨大な渦を形成していたのである。
勇者ルークは、何とか聖剣を振ろうとしていた。
しかし、狙いを定めた瞬間には、すでに魔王の身体が振り返っている。そうすると《絶対背後》が発動し、ルークは再び背後へ移動してしまう。
魔王も同じだった。
勇者へ攻撃を仕掛けようとすると、相手が背後へ移動するため、身体が勝手に回転する。その瞬間には、勇者がまた背後へ移動している。
攻撃を繰り出すための姿勢すら、まともに作ることができなかった。
「き、貴様ァァァ!」
魔王が叫んだ。
「な、何だァァァ!」
ルークも叫び返した。
「そ、その魔法を止めろォォォ!」
「そっちが止まれェェェ!」
しかし、どちらも止まらない。
二人とも、相手を倒そうとしている。その敵意を察知し、二つの魔法は忠実に働き続けていた。
その間にも、玉座の間は着実に破壊されていった。
豪華な絨毯が吹き飛ぶ。
巨大な燭台が壁に叩きつけられる。
歴代魔王の肖像画が、額縁ごと天井へ舞い上がる。
やがて、荘厳な玉座が床から引き剥がされ、猛烈な風に巻き込まれていった。
しかし、勇者も魔王も、そんなことに構っている余裕はなかった。
二人は、ただひたすら回っていた。
*
戦闘開始から、一時間が経過した。
魔王城の上空には、巨大な竜巻がそびえ立っていた。
王国軍の魔術師たちは、必死に内部の状況を調査していた。そして、ついに勇者と魔王の能力が衝突していることを突き止めた。
「……なんということだ」
魔術師長は、報告書を見つめたまま呟いた。
「つまり、勇者様は魔王の背後へ回り続けておられるのだな?」
「はい」
「そして、魔王は勇者様の方へ振り返り続けていると?」
「そのようです」
「……それで?」
「……回っております」
魔術師長は、しばらく黙っていた。
「……ずっとか?」
「……ずっとです」
魔術師長は、改めて竜巻を見上げた。
王国の命運を懸けた最終決戦。歴代最強と謳われる勇者と、世界を脅かす大魔王。
その二人が、史上類を見ないほどの魔力を消費しながら、一時間もの間、ひたすら回転している。しかも、互いへの攻撃は一度も成立していないらしい。
「……何とかならんのか?」
「魔法の発動条件を満たしている限り、止まらないようです」
「発動条件とは?」
「……互いを敵として認識していることです」
魔術師長は、再び黙り込んだ。
そして、静かに口を開いた。
「……魔王軍に使者を出せ」
4.世界を救う休戦協定
魔王軍の将軍は、王国軍からの申し入れを聞いて、驚いた。
「休戦だと?」
「はい。我々は、ただちに戦闘を停止することを提案します」
「何を馬鹿な! 我らは長年にわたって人間どもと戦ってきたのだぞ!」
「承知しております。しかし、このままでは魔王城が完全に破壊されます」
将軍は、背後を振り返った。
巨大な竜巻が、魔王城を包み込んでいる。城の尖塔が一本、音を立てて折れた。
「……うむ」
将軍は、しばらく考えた。
「……確かに、あれは困るな」
こうして、王国軍と魔王軍は緊急協議を開始した。
魔王軍にとっても、事態は深刻だった。
魔王ヴァルガスは、長年にわたって魔族を統治してきた偉大な君主である。その魔王が、勇者と戦っている最中にひたすら回転し続け、居城を破壊しつつある。
しかも、止まる気配がない。
両軍の魔術師たちは協力して魔法の解析を進め、双方の敵意が自動発動の条件になっていることを確認した。
どちらか一方が戦意を失えば、二つの魔法の競合は終わるはずだった。ただし、そうなれば、もう一方だけが攻撃可能になる恐れがある。
安全に戦闘を停止するには、二人が同時に戦意を解く必要があった。
「ならば、正式な休戦協定を結びましょう」
王国軍の指揮官が提案した。
「両軍が武器を収め、勇者様と魔王陛下にも戦闘停止を要請するのです」
魔王軍の将軍は、しばらく考えた。
城の尖塔が、もう一本折れた。
「……よかろう」
こうして、人間と魔族の歴史において、初めての正式な休戦協議が成立した。
両軍の指揮官が、同じ机について書類に署名した。
王国の紋章。
魔王軍の紋章。
双方の代表による、歴史的な合意である。
そして、強力な拡声魔法が準備された。魔術師たちは、竜巻の中心へ向かって呼びかけた。
「勇者ルーク様! 魔王ヴァルガス陛下! お聞きください!」
魔王城の上空に、声が響き渡る。
「両軍は、正式に休戦協定を締結いたしました!」
竜巻は回り続けていた。
「ただちに戦闘を停止し、互いへの敵意を解いてください!」
しかし、竜巻は止まらなかった。
魔術師長は困惑した。
「……なぜ止まらん?」
魔王軍の将軍も、眉をひそめた。
「……聞こえておらんのではないか?」
実際、その通りだった。
竜巻の中心では、猛烈な風切り音がすべてをかき消していたのである。
*
勇者ルークは、限界に近づいていた。
相手の背後へ移動するたびに、周囲の景色が目まぐるしく変化する。本人は瞬間移動しているだけなのだが、あまりの頻度に、自分がどちらを向いているのかさえ分からなくなっていた。
魔王ヴァルガスは、もっとひどかった。
彼の身体は、実際に回転していたのである。魔法によって身体が守られていなければ、とっくに命を落としていただろう。
しかし、身体が無事だからといって、気分まで無事とは限らない。
魔王は、猛烈に気持ちが悪かった。
「ゆ、勇者ァァァ!」
「な、何だァァァ!」
「い、いい加減にしろォォォ!」
「俺だって止まりたいんだよォォォ!」
二人は、相手を倒すために戦っていた。
しかし、すでにどちらも、相手を倒すことより、この状況から解放されることの方を強く望んでいた。
そこへ、両軍の魔術師たちが新たに用意した念話魔法が届いた。
『勇者ルーク様! 魔王ヴァルガス陛下! 両軍は休戦に合意しました!』
二人の頭の中に、はっきりと声が響く。
『互いを敵と認識している限り、魔法は停止しません! どうか、同時に戦意を解いてください!』
ルークは驚いた。
「きゅ、休戦だとォォォ!?」
魔王も叫んだ。
「な、何ィィィ!?」
『はい! 正式な休戦協定が締結されております!』
勇者は、ほんの少し考えた。
魔王を倒すことは、自分の使命である。しかし、自分は魔王を倒すためにここまで来たのであって、魔王の周囲を永遠に回り続けるために来たわけではない。
魔王もまた、考えていた。
人間どもを屈服させることは、自分の悲願である。しかし、そのために何時間も回転し続け、居城を破壊し、挙げ句の果てに吐きそうになるというのは、果たして望んでいた勝利なのだろうか。
やがて、魔王が叫んだ。
「ゆ、勇者よォォォ!」
「な、何だァァァ!」
「や、やめるかァァァ!?」
勇者は即答した。
「やめようォォォ!」
「よ、よしィィィ!」
「せ、せーのでやめるぞォォォ!」
「わ、分かったァァァ!」
二人は、同時に息を吸った。
「せーのッ!」
その瞬間。
《絶対背後》が停止した。
《万敵正面》も停止した。
勇者ルークと魔王ヴァルガスは、初めて互いの姿を正面から捉えた。
猛烈な回転が止まり、二人を中心に発生していた魔力の渦が、少しずつ勢いを失っていく。巨大な竜巻も、やがて消えていった。
魔王城には、静寂が戻った。
ルークは、聖剣を握ったまま立っていた。ヴァルガスも、魔剣を握っていた。
しかし、どちらも攻撃しようとはしなかった。
しばらくの沈黙。
やがて、魔王が口を開いた。
「……勇者よ」
「……何だ」
「……気分が悪い」
ルークは、ゆっくりと頷いた。
「……俺もだ」
二人は、その場に座り込んだ。
王国最強の勇者と、世界を脅かす大魔王。
その歴史的な最終決戦は、こうして終わりを迎えたのである。
5.伝説の決戦
それから数か月後。
王国と魔王軍の間で、正式な和平条約が締結された。長きにわたる戦争は終結し、人間と魔族は互いの領土を認め合うことになった。
勇者ルークと魔王ヴァルガスの決戦は、後世に語り継がれる歴史的な出来事となった。
両者は、互いの持てる力をすべて発揮した。
魔法の発動回数は、過去のあらゆる戦闘記録を凌駕していた。消費された魔力量も、史上最大級だった。
その戦いによって魔王城は甚大な被害を受け、巨大な竜巻は遠く離れた街からも目撃された。王国史上、これほど激しい魔法戦が記録されたことはなかった。
ただし、戦闘記録を編纂する歴史家たちは、少々困っていた。
「……勇者の攻撃回数は?」
「ゼロでございます」
「……魔王の攻撃回数は?」
「こちらもゼロです」
「……双方の負傷は?」
「ございません」
「……魔法の発動回数は?」
「推定で数百万回に及びます」
歴史家は、しばらく黙っていた。
「……何をしていたのだ?」
「……回っておりました」
その後、王国と魔族の歴史家たちは共同で調査を進め、最終決戦の詳細な記録を完成させた。
そこには、次のように記されていた。
『勇者ルークと魔王ヴァルガスによる最終決戦。両者は史上類を見ない激しい魔法戦を展開し、一撃も交えることなく和平に至った』
この記述は、後世の研究者たちから高く評価された。
厳密な調査に基づき、事実を過不足なく記した、優れた歴史記録だったからである。
*
和平条約の締結を記念して、王都では盛大な式典が開かれた。
勇者ルークと魔王ヴァルガスも、和平の立役者として招かれていた。
二人が並んで会場へ姿を現すと、人々から大きな歓声が上がった。
かつて世界の命運を懸けて戦った、二人の偉大なる戦士。
その二人が、今では互いを敵として認識することなく、同じ場所に立っている。
戦争が終わったことを、誰もが実感する光景だった。
魔王ヴァルガスは、ルークへ手を差し出した。
「久しいな、勇者よ」
ルークは、その手を握った。
「ああ。元気そうだな」
「うむ。そなたもな」
二人は、固く握手を交わした。
会場から、ひときわ大きな歓声が上がる。
そのとき、魔王が小声で尋ねた。
「……ところで、勇者よ」
「……何だ?」
「……一つ、確認しておきたいことがある」
「何だ、改まって」
魔王は、少しだけ真剣な顔になった。
「……もう、回らぬよな?」
ルークは、しばらく魔王を見つめた。
そして、深く頷いた。
「ああ。もう回らない」
「……そうか」
魔王は、心の底から安堵した。
勇者も、同じ気持ちだった。
こうして二人は、互いを正面に捉えたまま、穏やかに笑い合った。
世界は、平和になったのである。




