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飲料開発職、異世界を醸して帰る  作者: もしものべりすと


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第十八章「最後の仕込み」

新月の夜の三日前、私は最終の試料の官能評価を一人で行った。


 効率神殿の地下の本物の仕込み室で、ヌマト卿が二十数年にわたって続けてきた発酵液から、最も状態の良い桶の中身を、ほんの僅かに採取した。柄杓で五十ミリリットルほど。木のカップに移し、私は地下三階のあの仕込み室の中央の机に座った。


 机のうえには私の黒い無地のノートが開かれていた。


 ノートの隣にあのKX-073の茶色いガラス瓶が立っていた。


 私はカップを鼻に近づけた。


 澄んだ茶葉の青さ、後ろに微かな柑橘の温度、奥に僅かな発酵的ニュアンス。


 間違いなく、私のKX-073と、同じ系統の香気プロファイルだった。


 不思議だった。


 ヌマト卿は私が井戸の底に落ちる前から、二十数年にわたって、この香りを地下で守り続けていた。彼が守ってきた本物の神酒の処方と、私が現代日本で二年がかりで組み上げたKX-073の処方は、まったく異なる原料と工程から作られているはずだった。それなのに、最終的な香気プロファイルは、ぴったり一致した。


 偶然ではなかった。


 二つの世界のあいだに、何かの繋がりがあった。


 その繋がりの正体は、私にはまだ分からなかった。だが、その繋がりが、私を井戸の底に落とした。そして、その繋がりが、私をここまで連れてきた。


 私はカップを舌に乗せた。


 甘さの欠片、後味の苦み、鼻に抜ける香気、すべての要素が、私の知っている味と、同じ場所に着地した。


 長く目を閉じた。


 頬を、温かい何かが伝った。


 涙ではなかった。


 たぶん、私の二年が、ようやく、誰かに届いた、その手応えの、温度だった。


 私は目を開け、ノートに、最終の判定を書き込んだ。


 合格。


 その二文字を書いた瞬間、地下の石の天井から、湯気が一筋、ふっと立ち上がった、ような気がした。


 翌日、私は王宮で老王に最終報告を行った。


 謁見の間に集まった重臣全員の前で、私は逆発酵の作戦の最終工程を、淡々と説明した。新月の夜の二十時に地下仕込み室の準備開始。二十二時に主桶の温度調整完了。零時にKX-073とヌマト卿の本物の神酒を、貯水槽の中央に同時投入。深夜三時に攪拌完了。明け方四時から地下水脈を通じて王都全体の井戸に成分が拡散開始。翌朝八時に最初の井戸から本物の神酒が湧き始める予定。


 老王は私の説明を最後まで黙って聞いた。


 話し終わると彼はゆっくり立ち上がり玉座から階段を一段降りた。重臣たちが一斉に息を呑んだ。王が玉座を降りることは儀礼上、極めて稀なことだった。


 老王は私の前まで来て、両手で私の手を握った。


「倉科凛子、わしは、王として、わが王国の運命を、汝に託す」


 彼の手は乾いて少し冷たかったが、握る力は意外に強かった。


 私は深く頭を下げて答えた。


「陛下、必ずや、ご期待にお応えいたします」


 その夕方、私は中央神殿の長老のもとを訪れた。


 長老は痩せた指で私の額をそっと撫でた。


「お嬢さん、お嬢さんは、もう、わしらの世界の一部じゃ。お嬢さんが、井戸から上がってこられた日以来、お嬢さんの足跡は、もう、わしらの世界に、深く、刻まれておるのじゃよ」


 長老の言葉は、私の胸の奥に、しんと落ちた。


 私は彼の前で、長く頭を垂れた。


 そして、新月の夜が、訪れた。


 午後七時、地下三階の仕込み室で、私たちは集合した。


 主役は四十名。


 貧民区の母親五名。中央神殿の若手神官六名。効率神殿の中下級兵十二名。王都の老医師団十名。王宮直属の書記官二名。リーノ、ヌマト卿、セレナ、ジン、そして私。


 全員、簡素な麻の作業着に着替えていた。手には事前に煮沸消毒した白い手拭い。神殿の祭服も、効率神殿の祭服も、武官の鎧も、誰一人として纏っていなかった。私たちは、肩書きを脱ぎ、本物の仕事に向かう、ただの職人として、集まっていた。


 午後八時、準備が始まった。


 貧民区の母親たちが、最初に手を洗った。彼女たちの順序は丁寧だった。手首まで湯で温め、肘まで煮沸した湯で清め、最後に冷水で締めた。一連の動作には祈りに近い静けさがあった。中央神殿の若手神官たちは、桶の縁を布で順に拭いていった。墨で汚れた指が、今夜は布の白さに染まっていた。


 午後十時、温度調整が完了した。


 主桶の液温は摂氏二十六度。pHは六点四。糖度、塩分、すべて規格値の中央に着地していた。


 私は地下三階の中央の机の前に立ち、ノートを最後にもう一度確認した。


 ヌマト卿が私の隣に来た。


 彼の手には、白い陶器の壺が一つあった。


 壺のなかには、彼が二十数年のあいだに守り続けてきた、本物の神酒の母液が、五リットル分、入っていた。


 私の手には、あの茶色いガラス瓶が、あった。


 残量、五百ミリリットル弱。


 二人は、貯水槽の縁に、並んで立った。


 貯水槽の水面は、地下から湧き上がる伏流水によって、静かに、しかし絶え間なく、揺れていた。


 午前零時。


 私は瓶の蓋を捻った。


 ヌマト卿は壺の蓋を持ち上げた。


 二人で同時に、貯水槽の中央に、向けて、それぞれの琥珀色を、放った。


 二つの液が、空中で、ひとつの放物線を描き、水面で、混ざり合い、貯水槽の深部に、ゆっくり、沈んでいった。


 水面の波紋が大きく広がり貯水槽の縁まで届いて折り返した。


 深夜の地下の仕込み室はしんと静まりかえっていた。誰も呼吸の音さえ立てなかった。私は両手を貯水槽の縁に置き、自分の鼓動だけが胸の奥で太鼓のように響くのを聞いていた。ヌマト卿は隣で目を閉じ祈りに似た無言の姿勢で立っていた。


 貯水槽の水面が落ち着いてゆくにつれて地下深くで何かが応えるような気配が立ち上がってきた。それは目に見えない気配だった。空気の温度のごく僅かな変化として最初は感じられた。私の頬の表皮の上を温かい空気が一枚通り過ぎていった。次に音として届いた。地下水脈の流れの音が今までよりも一段豊かに変じていた。水が水ではないものを運び始めた音だった。


 最後にそれは香りとして広がった。


 仕込み室の空気のなかにあの澄んだ柑橘の温度と微かな発酵的ニュアンスが少しずつ立ち昇ってきた。母親たちの目に薄く光が差した。若手神官たちが互いに顔を見合わせた。ジンが静かに胸の前で手を組んだ。


 セレナが貯水槽の前に進み出た。


 彼女は事前に幾度も練習を重ねてきた仕込みの祈祷の一節を低く澄んだ声で唱え始めた。


 マハ翁から伝わってきた古い古い言葉だった。


 言葉そのものの意味はすでに古語に近く完全には理解できなかった。しかし音の波が地下の石の壁を撫でて貯水槽の水面まで届いていくその通り道に私たちは皆引き込まれていった。


 午前二時。


 貯水槽の水面に細かな泡が立ち始めた。


 午前三時。


 泡は規則正しく一定の間隔で水面を撫でた。


 午前四時。


 地下水脈の出口の方向に水流のなかから琥珀色の薄い帯が伸びていくのが観察窓越しに見えた。


 逆発酵は始まった。


 成功するかどうかはここから四時間後の朝八時に王都中の井戸から本物の神酒が湧き始めるかどうかで決まる。私は時計を見上げて深く息を整えた。


 仕込み室の天井から細い湯気が幾筋も立ち上っていた。地下の冷たい空気のなかでその湯気だけが温かな生命の気配を運んでいた。私はその湯気を見上げながら自分の指先がいつのまにか温度を取り戻していることに気づいた。冷たかった指先の血が再び循環し始めていた。


 地下水脈の流れが規則正しい音を立てていた。


 その音は私の業界の頭にとって何より好ましい音だった。


 稼働中の仕込みプラントの音だった。

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