第1話 決戦前夜、霧の中の殺気
慶長五年(一六〇〇年)九月十五日、未明。
関ヶ原の盆地は、世界中の全ての湿気を集めたかのような、濃密な霧に覆われていた。
東軍、西軍合わせて二十万近い兵馬が、息を潜めて対峙する。その静寂は、巨大な火薬庫の前で火打ち石をカチカチと鳴らすような、張り詰めたものだった。
東軍の最前線、福島正則陣営。
「……来るな。やっと、特大の喧嘩ができる」
可児才蔵は、湿った空気の中で愛槍の柄を撫でた。四十六歳。武人として脂の乗り切った時期である。彼の肉体は、度重なる戦場で鍛え上げられ、鋼の塊のようになっていた。
彼が所属する福島隊は、開戦と同時に敵陣へ突っ込む一番槍の役目を負っている。血が騒がないはずがない。
「おい、才蔵。気負いすぎるなよ」
同陣営の武将が声をかけてくるが、才蔵は鼻で笑った。
「気負う? 馬鹿を言え。俺は楽しんでいるんだ」
才蔵の視線は、霧の向こうの敵陣ではなく、同じ東軍の並び、少し離れた位置に布陣している黒田隊の方角へ向けられていた。
(いるんだろう? あの堅物な亀がよ)
一方、黒田長政陣営の先鋒を務める後藤又兵衛もまた、同じ霧の中で静かに目を閉じていた。
彼の甲冑は、主君・長政から賜った銀色の南蛮具足。胸元には亀甲の紋が輝いている。
(……凄まじい殺気だ。味方の陣から、これほど漏れ出してくるとは)
又兵衛は、その発生源が誰であるかを知っていた。
京の竹林で出会い、朝鮮の空の下で噂を聞いた、あの規格外の男。
「全軍、槍の穂先を下げておけ。霧が晴れた瞬間が勝負ぞ」
又兵衛の声は冷静だが、握りしめた槍の柄には、微かな汗が滲んでいた。
午前八時頃。
霧が、生き物のようにうねり始めた。白い帳が薄れ、視界が開けていく。
その瞬間、盆地の静寂は、両軍の鬨の声と、耳をつんざく鉄砲の轟音によって破られた。
天下分け目の大戦が、始まったのである。
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