第1話 雨の日の傘、晴れの日の槍
天正十二年(一五八四年)、小牧・長久手の戦い。
三河の湿った土が、敗走する兵たちの足音を吸い込んでいく。羽柴秀吉の甥・羽柴秀次が率いる軍勢は、徳川家康の巧みな奇襲を受け、総崩れとなっていた。
「ええい、馬は来ぬか! 予の馬はどうした!」
泥まみれになって喚く若き総大将・秀次の姿は、見るも無惨だった。輿は打ち捨てられ、周囲を守る旗本たちも散り散りになっている。
その混乱の中を、一人の男が悠然と歩いていた。
可児才蔵である。
三十路を迎えた彼は、既に「槍の才蔵」としてその名を轟かせていたが、今は徒歩で、長い十文字槍を杖代わりにしながら、泥濘を踏みしめていた。
その背中には、敵の返り血がべっとりと付着しているが、表情は至って涼しい。
「おお、才蔵! そこにいたか!」
秀次が才蔵を見つけ、すがりつくように叫んだ。
「予は疲れた! その方の馬を貸せ! これは命令じゃ!」
才蔵は足を止め、主君を見下ろした。その目には、侮蔑の色が隠そうともせず浮かんでいた。
彼は、手綱を引いていた自分の馬の首をポンと叩くと、静かに言った。
「殿。……雨の日に、傘をささぬ者がおりましょうか?」
「な、何を言うておる! 今は戦の最中ぞ!」
「左様。戦という名の土砂降りでございます」
才蔵は、鼻を鳴らした。
「この馬は、俺という『槍』を万全に働かせるための『傘』にございます。俺が馬を降りれば、俺の槍は鈍る。俺が死ねば、誰が敵を食い止めるのです?」
「き、貴様……主の命が聞けぬと言うのか!」
「雨の日に傘を貸せば、自分が濡れる。……簡単な理屈でしょう」
言い捨てると、才蔵は馬に飛び乗り、呆気にとられる秀次を置き去りにして駆け出した。
背後で喚く主君の声など、もう耳には入らない。
(くだらねえ)
才蔵は雨空を見上げた。
京の竹林で会った、あの「亀」のような男の顔がふと過ぎる。
(あいつなら、黙って馬を差し出しただろうな。……だが、俺は違う。俺は道具じゃねえ。俺自身が、意思を持った凶器なんだ)
この日、才蔵は単騎で徳川の追撃部隊を蹴散らし、悠々と撤退に成功した。
当然のごとく秀次からは追放されたが、その武名はかえって高まり、彼を求める大名は後を絶たなかった。
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