第1話 京の茶屋、酔いどれと若武者
天正年間の京、鴨川の河原は、いつの世も変わらぬ熱気と腐臭、そして生命力に満ちていた。
天下布武を掲げる織田信長の威光が日増しに強まる中、都には武功を夢見る若者や、主家を失ったあぶれ者たちが、濁流のように流れ込んでいたのである。
五月の強い日差しが照りつける昼下がり。河原に設けられた仮設の茶屋で、一人の若武者が顔をしかめていた。
男の名は、後藤又兵衛基次。
まだ二十歳にもならぬ若さだが、その背筋は槍の柄のように真っ直ぐで、目には不釣り合いなほどの理知的な光が宿っている。彼が大切そうに抱えているのは、主君・黒田官兵衛から託された、黒塗りの文箱であった。
(京とは、なんと騒がしい街だ……)
播磨の田舎から出てきた又兵衛にとって、この喧騒は頭痛の種だった。一刻も早く用事を済ませて帰国したい。そう思いながら、茶代の銅銭を置こうとした時だった。
「おい、姉ちゃん。酒だ、酒を持ってこい!」
耳障りな怒声が響いた。
視線をやると、派手な着物を着崩した三人の男たち――いわゆる「かぶき者」が、茶屋の老婆に絡んでいる。腰には長すぎる太刀をぶら下げ、見るからに質の悪い連中だ。
「へ、へえ……ただいま……」
「遅えんだよ! 俺たちを誰だと思ってやがる!」
男の一人が、老婆の運んできた盆を蹴り上げた。安酒の入った徳利が宙を舞い、地面で砕け散る。
又兵衛の眉がピクリと動いた。
彼は文箱を卓に置き、鯉口に親指をかける。無益な争いは好まないが、黒田の武士として、眼前の非道を見過ごすわけにはいかない。
――斬るか。
又兵衛が腰を浮かせかけた、その瞬間である。
「ああーあ。もったいねえ」
気の抜けた、しわがれ声が割って入った。
声の主は、店の隅にある床几で寝転がっていた男だ。
ボロボロの小袖に、伸び放題の髭。酒臭い息を吐きながら、男はあくびを噛み殺して起き上がった。歳は又兵衛と同じくらいか。だが、その目は死んだ魚のように濁っている。
「あんたたち、酒を地面に飲ませてどうするんだい。鴨川の魚でも酔わせる気か?」
「ああん? なんだ貴様、乞食か?」
かぶき者たちが、ぎろりと男を睨む。
「乞食じゃねえよ。……ただの、通りすがりだ」
男はへらりと笑うと、足元に落ちていた長い竹の棒――日除けのすだれを支えていた棒だ――を拾い上げた。
「やるか、こら!」
かぶき者の一人が太刀を抜き、男に斬りかかる。
又兵衛は息を呑んだ。間に合わない。
だが、次の瞬間、奇妙なことが起きた。
ヒュンッ。
風を切る音と共に、男の手元の竹棒が、まるで生き物のようにしなった。
切っ先が男の鼻先に届くよりも早く、竹の先端が、かぶき者の向こう脛を強打していたのだ。
「ぐげっ!?」
男が前のめりに倒れる。その勢いを利用し、酔いどれ男は竹棒をくるりと回転させると、残る二人の顎を、下から正確に弾き上げた。
カッ、カッ。
乾いた音が二つ。男たちは白目を剥き、何が起きたのかもわからぬまま、その場に崩れ落ちた。
一瞬の出来事だった。
抜刀すらせず、ただの竹切れ一本で、三人を無力化したのだ。
「……ふあ。酒が醒めちまった」
男はつまらなそうに竹棒を放り投げると、懐から小銭を取り出し、震える老婆に握らせた。
「釣りはいらねえよ」
そう言い残し、男はふらふらと雑踏の中へ消えていこうとする。
又兵衛は、文箱を掴んで立ち上がった。
ただの酔っ払いではない。あの足運び、あの竹の扱い。
(槍だ……。それも、相当な手練れの)
血が騒いだ。播磨で「神童」と呼ばれた己の自尊心が、あの背中を追えと叫んでいた。
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