第1話 広島の師、空虚な平穏
慶長十八年(一六一三年)。
関ヶ原の戦いから十余年。世は徳川の治世となり、戦国の気風は急速に薄れつつあった。
安芸、広島城下。
福島正則の治めるこの地で、可児才蔵は五百石という厚遇を受け、隠居同然の日々を送っていた。
「違う! 腰が高い! それでは槍の重みに振り回されるぞ!」
才蔵の怒号が道場に響く。
白髪の増えた頭に、深く刻まれた皺。六十路を迎えた才蔵だったが、その眼光の鋭さは衰えるどころか、老練な輝きを帯びていた。
若き藩士たちは、伝説の「笹の才蔵」に教えを乞おうと必死だが、彼らの槍はあまりに軽く、形ばかりにこだわっているように見えた。
「先生。……やはり、実践では笹を携帯すべきでしょうか」
一人の若者が真顔で尋ねてきた時、才蔵は大きく溜息をついた。
「馬鹿者が。笹など、ただの飾りだ。お前たちは形ばかり真似ようとする。大事なのは、いつ死んでも良いという『覚悟』だ」
稽古の後、才蔵は一人、愛宕権現の社へ向かった。
彼は晩年、仏門に深く帰依していた。かつて戦場で殺めた数多の命を弔うためか、それとも自身の死期を悟ったためか。
(……平和だな)
才蔵は空を見上げた。
金はある。名誉もある。主君・正則も自分を大切にしてくれる。
だが、心にはぽっかりと穴が空いていた。
毎夜、夢を見るのだ。あの霧深い関ヶ原で、血と泥にまみれて槍を振るう夢を。そして、その夢の向こう側にはいつも、銀色の甲冑を纏った「亀」のような男が立っている。
「……あいつは今頃、どうしているんだろうか」
風の噂では、黒田家を出奔したと聞く。
「頑固な亀め。甲羅が重すぎて、歩けなくなったか」
才蔵は懐から一枚の笹の葉を取り出し、指でくるくると回した。
彼自身、すでに自分の死期を予言していた。「わしは来年の愛宕様の縁日に死ぬ」と。
だが、その死に場所が「ここ(広島)」で良いのかという迷いが、彼の魂を揺さぶり続けていた。
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