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双璧の槍 ―笹と亀―  作者: beens
序章 

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1/5

霧の道明寺

 湿った空気が、肌にまとわりつくようだった。

 慶長二十年五月六日、河内国、道明寺。

 夜明け前から立ち込めていた濃霧は、未だ晴れる気配を見せない。だが、その乳白色のとばりの向こうから響いてくる地鳴りのような轟音は、刻一刻と大きくなっていた。

 ひづめの音だ。それも、百や二百ではない。数万という鉄の塊が、この一点を目指して押し寄せてくる音だった。

「……来るな」

 白い霧の中で、低い声が響いた。

 声の主は、ひとりの老武者である。豪奢な具足を身につけてはいるが、その兜には歴戦の傷が無数に刻まれている。

 後藤又兵衛基次もとつぐ。かつて「黒田の二十四騎」と謳われ、今は大坂五人衆の一角として、徳川の天下に牙を剥く男である。

「ああ、来るな。ありゃあ伊達だての騎馬隊だ。派手好きのあの男にしては、随分と足並みが揃ってやがる」

 答えたのは、又兵衛の背中を守るように立つ、もうひとりの男だった。

 こちらは一風変わっていた。

 身につけているのは、古めかしい実戦本位の甲冑。そして何より異様なのは、腰にぶら下げた古びた瓢箪ひょうたんと、兜の縁に無造作に突き刺した一枚の「笹の葉」である。

 可児才蔵吉長よしなが

 本来ならば、今頃は遠く安芸の国で、安穏とした隠居生活を送っているはずの男だった。歴史の記録には残らぬはずの槍が、今、ここにある。

「なあ、才蔵」

 又兵衛は、迫りくる敵の気配から目を逸らさずに言った。

「貴殿、本当にこれでよかったのか。広島にいれば、畳の上で孫の顔でも見られたであろうに」

「はん、馬鹿を言え」

 背中合わせの才蔵が、鼻で笑う気配がした。

「畳の上だと? そんな窮屈な場所で死ねるかよ。……それに、お前ひとりを行かせたとあっては、あの世で官兵衛殿に顔向けができん」

「ふっ……。減らず口を」

 二人の間に、言葉はいらなかった。

 若い頃、京の竹林で一度だけ刃を交えたあの日から、四十年近い歳月が流れていた。

 主君に噛みつき、野良犬のように戦場を渡り歩いた才蔵。

 主君に尽くし、それゆえに裏切られ、誇りだけを抱いて堕ちた又兵衛。

 決して交わるはずのなかった二本の槍が、乱世の終わる最期の瞬間に、こうして一つの「点」で重なり合っている。

 ヒュウッ、と風が鳴いた。

 霧が、裂けるように動く。

 視界の先、灰色のもやの中から、無数の「赤」が浮かび上がった。伊達政宗が誇る騎馬鉄砲隊の、朱色の甲冑である。

 その数は、およそ一万。対するこちらは、手負いの兵を含めても二千に満たない。

 絶望的な数字だ。だが、二人の老将の唇には、不思議とわらべのような笑みが浮かんでいた。

「行くぞ、又兵衛」

 才蔵が、愛用の十文字槍を音もなく構えた。

「ああ。参ろうか、才蔵殿」

 又兵衛もまた、白銀に輝く槍の石突きを、地面に強く打ち付けた。

 死ぬには、良い日だ。

 二人の伝説が、霧の中に溶けていく。

 これは、歴史の奔流に抗い、己の「死に場所」を求めて駆け抜けた、二振りの槍の物語である。

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