霧の道明寺
湿った空気が、肌にまとわりつくようだった。
慶長二十年五月六日、河内国、道明寺。
夜明け前から立ち込めていた濃霧は、未だ晴れる気配を見せない。だが、その乳白色の帳の向こうから響いてくる地鳴りのような轟音は、刻一刻と大きくなっていた。
蹄の音だ。それも、百や二百ではない。数万という鉄の塊が、この一点を目指して押し寄せてくる音だった。
「……来るな」
白い霧の中で、低い声が響いた。
声の主は、ひとりの老武者である。豪奢な具足を身につけてはいるが、その兜には歴戦の傷が無数に刻まれている。
後藤又兵衛基次。かつて「黒田の二十四騎」と謳われ、今は大坂五人衆の一角として、徳川の天下に牙を剥く男である。
「ああ、来るな。ありゃあ伊達の騎馬隊だ。派手好きのあの男にしては、随分と足並みが揃ってやがる」
答えたのは、又兵衛の背中を守るように立つ、もうひとりの男だった。
こちらは一風変わっていた。
身につけているのは、古めかしい実戦本位の甲冑。そして何より異様なのは、腰にぶら下げた古びた瓢箪と、兜の縁に無造作に突き刺した一枚の「笹の葉」である。
可児才蔵吉長。
本来ならば、今頃は遠く安芸の国で、安穏とした隠居生活を送っているはずの男だった。歴史の記録には残らぬはずの槍が、今、ここにある。
「なあ、才蔵」
又兵衛は、迫りくる敵の気配から目を逸らさずに言った。
「貴殿、本当にこれでよかったのか。広島にいれば、畳の上で孫の顔でも見られたであろうに」
「はん、馬鹿を言え」
背中合わせの才蔵が、鼻で笑う気配がした。
「畳の上だと? そんな窮屈な場所で死ねるかよ。……それに、お前ひとりを行かせたとあっては、あの世で官兵衛殿に顔向けができん」
「ふっ……。減らず口を」
二人の間に、言葉はいらなかった。
若い頃、京の竹林で一度だけ刃を交えたあの日から、四十年近い歳月が流れていた。
主君に噛みつき、野良犬のように戦場を渡り歩いた才蔵。
主君に尽くし、それゆえに裏切られ、誇りだけを抱いて堕ちた又兵衛。
決して交わるはずのなかった二本の槍が、乱世の終わる最期の瞬間に、こうして一つの「点」で重なり合っている。
ヒュウッ、と風が鳴いた。
霧が、裂けるように動く。
視界の先、灰色の靄の中から、無数の「赤」が浮かび上がった。伊達政宗が誇る騎馬鉄砲隊の、朱色の甲冑である。
その数は、およそ一万。対するこちらは、手負いの兵を含めても二千に満たない。
絶望的な数字だ。だが、二人の老将の唇には、不思議と童のような笑みが浮かんでいた。
「行くぞ、又兵衛」
才蔵が、愛用の十文字槍を音もなく構えた。
「ああ。参ろうか、才蔵殿」
又兵衛もまた、白銀に輝く槍の石突きを、地面に強く打ち付けた。
死ぬには、良い日だ。
二人の伝説が、霧の中に溶けていく。
これは、歴史の奔流に抗い、己の「死に場所」を求めて駆け抜けた、二振りの槍の物語である。
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