一人ぼっちの夏
夏の匂いが、風に溶けていた。
その日は不思議なほどに静かで、世界が誰かに見放されたようでもあり、誰にも見つかっていないようでもあった。
蝉の声も少し控えめで、ひときわ澄んだヒグラシの鳴き声だけが、奥のほうでぽつりぽつりと響いていた。
アスファルトの上に落ちた葉が風に転がっていく。
まだ青々としたままのそれは、どこか間違えてここにやってきてしまったようで、足元に影を落とすたび、少し申し訳なさそうだった。
団地の間を抜ける坂道を下り、住宅街の裏手にある神社へ向かう。
この道を通るのは久しぶりだったけれど、景色はほとんど変わっていなかった。
ただ、どの家も窓を閉ざしていて、人の気配がまるでなかった。
神社の鳥居は、赤い色を保ったまま、少しだけ苔と蔦を纏っていた。
崩れてはいないけれど、もう何年も手入れされていないことがわかる。
それでも、神聖な空気は残っていた。
誰にも見られていない場所に、ひっそりと佇んでいる何か。
それを見つけてしまったような、少し背筋が伸びるような感覚。
境内の奥にある石段に腰を下ろすと、川のせせらぎがかすかに聞こえてきた。
すぐ近くを流れているはずなのに、音が遠く感じるのは、風が弱かったからかもしれない。
草の間を歩く音、鳥の羽ばたき、虫の鳴く声。
それらがすべて、遠くに押しやられているような気がした。
まるで、夏をひとり占めしてしまったかのようだった。
誰もいない世界に、ぽつりと自分だけが置かれている。
けれど、それは不安ではなく、不思議な満足感とでも呼ぶべきものだった。
大切なものを、他人に知られることなく守っているような、そんな感じ。
目を閉じれば、草の匂いが鼻先をくすぐる。
空気はまだ温かく、でもほんの少しだけ、夏の終わりを予感させるような冷たさがあった。
季節が移ろい始める、ほんのわずかな前触れ。
それを、誰よりも先に感じ取ったような気がして、胸の奥が少しだけざわついた。
時間の感覚が曖昧になっていく。
このまま日が暮れてもいい、と思った。
誰にも邪魔されず、名前もついていない時間の中で、何もせずにただ呼吸をする。
それだけで満たされるような気がした。
石段の端に、アリが列をなして歩いていた。
小さな身体で何かを運んでいて、そのひたむきさに胸が痛くなる。
自分は今日、何かを成し遂げただろうか。
いや、何かを成し遂げる必要があっただろうか。
そう問うたところで、答えは風にさらわれていった。
ふと見上げた空には、うっすらと雲がたなびいていた。
夏の空にしては、どこか秋の気配を含んだ白さだった。
それでも太陽は健在で、木々の間から降り注ぐ光が、落ち葉を淡く照らしていた。
その光景をぼんやりと眺めているうちに、時間が少しだけ巻き戻ったような気がした。
子どものころに見た風景に、どこか似ていたからかもしれない。
そうしてまた、ヒグラシが鳴いた。
まるで、忘れかけていた記憶を優しく呼び起こすかのように。
誰もいないその場所で、確かに私は、夏の儚さに触れた気がした。