8.ビストロマカド
もう関わりたくないのに、津田がビストロマカドに現れた。
時鶏で働き始めた津田は、一週間ともたずに音をあげた。
『働くのは無理です』
とだけ涙声で杉さんに電話を寄越し自宅にも戻らなかった。行方不明。でもそれからまた一週間と経たず、津田は何を思ったかマカドに現れた。
俺は試験が終わって友人たちと飲みにでも行こうかと思っていたのだが、そこへ通朗叔父さんから連絡がきた。
昼の部が終わった頃のマカドの前にぼんやりと立っている女の子がいて、不審に思い声をかけたらその子は津田と名乗った。そこ何をしているのか聞いたら泣き出して、慎に会って話したいと言っていた。今彼女は店にいるので来てもらえないか。
俺は眩暈がした。ここ四、五日行方不明だった津田がなんでまたマカドにいるのか。俺は友人たちに飲み会に遅れるかもと言って、一人マカドに向かった。
マカドに着くと店はまだ夜の部の開店前で、津田は隅の方の座席にポツンと心細そうに座っていた。津田を見てまず俺は外見が変わったなとびっくりした。あの白い女だった頃の面影は微塵もない。髪は黒く染められ化粧は薄い。印象は感じのいい、かわいい顔立ちの女の子だ。清楚と言ってしまってもいいかもしれない。
ストレートの黒髪がサラツヤで揺れる度に天使の輪も動く。あんなに綺麗なら染めない方がいいのに。カラコン外した虹彩も濃い茶色で、室内灯の光を反射してキラキラ輝く魅力的な瞳だった。
ジャラジャラつけていたアクセサリーもない。ただあの白いコートだけは隣の座席の背凭れにかけていたので、それは今でも着ているのだろう。この時間忙しいだろうに叔母さんが厚意で紅茶を出してくれたようだが、津田が手をつけた様子はなかった。
とはいえ津田を甘やかしてはいけない。俺は不機嫌そうにガタンと音を立てて椅子を引いて、津田の真ん前にどっかりと座った。そして睨む。
津田は俺を見て笑うでもなく何か言うでもなく、ただポツンと座っている。顔も無表情だった。
「お前今までどこにいたんだ」
「友達の所転々と。でもお金尽きちゃって。ウロウロしてたらここに来ちゃった」
悪びれずにヘラヘラ笑う。ムッときた。
「それで、俺に話があるんだって? さっさと話して帰ってくれ。迷惑なんだ」
俺はできるだけ冷たく突き放して聞こえるように、不機嫌そうな声で言った。津田は怯えるように肩をびくつかせ少し身を縮める。男性のあからさまに不機嫌な声は怖かったのかなとも思ったが、ここで津田を甘やかす気はない。こいつは俺に多大な迷惑をかけたし、バイトから逃げて杉さんにも迷惑をかけたのだから。津田は視線を紅茶カップの方に向けて俺と目を合わせずもじもじしている。
「お願いがあって」
やっと聞こえるような小声だった。
「断る」
速攻で返した。
「話くらい……聞いてよ」
か細い声で言って上目遣いで俺を見た。
「あのね、図々しいお願いだとはわかっているんだけど、お金返して欲しいの」
「はぁ?」
津田の両親が出したのか津田がどこかから借金したのかわからないが、お金は一括で俺に渡された。それを返せとはどういうことなのか。
「あのお金を全額出してくれたのは私の兄なの」
津田にはお兄さんがいたようだ。その人が出してくれたのか。
「そして地鶏のバイト代から少しずつ返すって約束したんだけど」
なんとなく次に津田が言うであろう言葉がわかった。
「時鶏で働くのは無理!」
やっぱりな。
「杉さんうるさいんだもん。髪の色を戻せって言われてゴムで一つに結べって言われて、化粧もネイルもアクセサリーも禁止で、地味な色の作務衣にエプロンで、煙で全身焼鳥臭くなって、重たい酒運んで、酔ったおじさんたちに愛想振りまいて、もういや!」
津田は泣きそうな顔でまくし立てる。
「だから俺に金返せか!」
俺は怒鳴りつけた。津田はビクっと体を震わせた。
カウンターの向こうから叔母さんが顔を覗かせた。俺の声に驚いたのかもしれない。しかしこいつの非常識発言は酷過ぎる。俺が怒鳴っても仕方ないだろう。だがここは狭い店の中。場所を提供してくれている叔父叔母に迷惑だ。少し声のトーンを落とさねば。
「その代わり、私が棚原の彼女になるよ」
「はい?」
津田は真顔で言う。俺は津田の話が理解できない。一体彼女はなんの話をしているのか。
「津田は正太とつき合ってんだろう?」
「最低だから別れた」
正太は今お祖父さんに連行されて山ごもりのはずだ。お祖父さんの所有する山荘で精神修業中とか。そんな状況で一体いつ津田は正太と別れ話をしたのだろう。
「正太はこっちに戻って来てる。ていうか脱走したんだって。修業が嫌で。雪の日にこっそり、一番近い駅まで十キロ以上必死に山を下ったって」
雪の日にって、道間違えて遭難でもしたらどうするつもりだったのか。正太はそこまでして祖父から逃げたかったのか。
「こっち戻って来て会ったら私に、『棚原から金を返してもらおう』って声かけてきた」
正太の方はそのお祖父さんが一括で、正太に代わり俺にお金を渡してくれていた。
「『慎とつき合う女なんていないだろうから、有紗がつき合ってやれ。体でご奉仕しますって言って、金を返してもらえ。慎を喜ばせろよ、それで俺の分も返してもらおう。なんたって俺は気前よく自分の彼女を貸し出すんだから』って言われて、カッとなって別れた。でもよく考えてみたらその方法使えば、私だけでもお金返してもらえそうだから」
「だからこうしてやって来たのか」
津田は頷く。そして困ったように笑う。
「駄目かな」
「駄目に決まってるだろう! 真面目に働け!」
津田は俺を睨み、頬を膨らませる。
「働け働けって皆なんなの! 私これまで一度も働いたことないのに!」
「はぁ?」
思わずそんな声が出た。この声、今日何度目だ?
「お前、高校卒業したあと何やってたんだ? 進学したのか?」
津田は首を振った。
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