雪だるま
毎年、冬になると雪だるまを作る。
雪を見ると、ふとその冷たさに戯れてみたくなって、作るのだ。
ハンドボールくらいのを2つ重ねた、ちいさなやつだ。
石ころと棒を持ってきて、目と、両手、あとは口をつける。
いくつも作って、ならべて、かわいらしいなぁ、なんて思う。
よっつ、いつつ作って、写真なんか撮ってみたりもする。
そうして、ちっぽけな創作欲と寂しさを満たすのだ。
そんなちいさくてかわいらしいやつらは、次の日の朝にはちょっとだけの痕跡をのこして、みんないなくなっている。
そうでなくとも、たいていは崩れて元の形は失っている。
それを見るたびに、儚いかれらに悲しくなって、もう作らない、なんて思う。
だというのに、かけらも学習せず、毎年毎年雪だるまをつくるのだ。
人とかかわることと、似ているなと思う。
人ごみに群れていると、その温かさに触れたくなって、誰かを探すのだ。
温かい人を見ていると、自分の寒さが浮き彫りになって見える。
だから、手のひらで抱えられる、誰かを探すのだ。
伝わってくるのは温かさでも冷たさでも、たぶん関係ないのだ。
どちらにせよ、多くの場合、私のこころの冷たさは和らぐことが多い。
温まった自分を未来の自分に残したくて、写真なんか撮ってみる。
そういう温度も、いつかは冷めていく。
せっかく集めたつながりも、温度も、ほんのすこしを残して消えていく。
誰かがいなくなると、悲しくなって、誰かと関わるしんどさも、ちょっと感じる。
でも、温かいことがふつうになっているから、誰かがいない寒さに耐えられない。
そうして、また寒さを埋めてくれる誰かを探すのだろう。
去年の写真を見返して、ふとそんなことを考えていたことを思い出した。
思い出したからといって、それが学習につながるとは限らない。
現に今も愚か者は、今年も雪だるまを作りたい、なんて思っている。