なぜ下ネタは面白いのか 比較的安全版
それはある日の朝のことであった。私はいつものようにトイレにて右手高速上下運動を行っていた。
ナニとは言わぬが事を成し遂げた私はふぅとため息を吐き、そして、その刹那であった。私の脳に、神からの天啓が降りてきたのだ。
賢者のひと時とはまさにこの事である。私は浮かんだその仮説を証明するべく、机の上のTo○○V○るダー○ネスへと向かい合った。
すなわち、なぜ下ネタは面白いのか。私はその謎を解明することに性交した。故にその答えをここに汁していこうと思う。
se○tion 1 なぜ下ネタは面白いのか。
先日某ゲーム販売サイトにてとあるインディーズゲームが発売された。
それはサイコロを振り、UNKO、MANKO、OCHINCHINと言う単語を作り出すと言う画期的なゲームであった。スタイリッシュな演出も合わさり、このゲームは瞬く間に流行となった。
そう。今この日本には、OCHINCHINの波が来ているのだ。私も某元内閣総理大臣のモノマネをしながらこのゲームを配信しようと考えていたが、残念なことに私はモノマネが得意ではなかった。
しかしこの流行を受けて、とある配信者がこのようなコメントを残した。
『みんながOCHINCHINを出していたら、私がOCHINCHINを出しても面白く無いと思う』
そう。これが、『なぜ下ネタは面白いのか』と言う問いかけに対する答えである。
下ネタとは読んで字のごとく下品なネタである。外界にてOCHINCHINをボロンしようものなら、然るべく皆からの非難を買い、後に国家権力の暴力により隔離施設へと連行されていくであろう。正義とは一体なんなのか。
兎にも角にも下ネタとはそれほどまでに人々から忌避されるものである。この世に思想・言論・表現の自由はあれどOCHINCHINを出す自由は無い。人権侵害も甚だしいモノであるが、しかし他方として、我々はOCHINCHINを出す自由が無いからこそOCHINCHINには価値が生まれているのだ。
すなわち、「出してはいけないからこそ、出すと面白い」ということである。
この表現が出ると必ずと言ってもいいほど飛び出すのが大晦日の風物詩である「笑ってはいけない24時シリーズ」であるが、私はあえてより類似性が高いモノとして『政治や不謹慎ネタ(所謂ブラックジョークである)』をあげていこうと思う。
一般に世間では、「宗教・政治・野球の話はするな」と言われている。なぜこの中に野球が入っているのかはよくわからないが、しかし確かに、宗教や政治絡みの話題はどこか危険な匂いがする。私が今このようにして書き込んでいるだけで某団体がムカ着火ファイヤーの後に私を炎上させることとて十全にあり得ることである。
しかし他方で、だからこそ炎上スレスレのネタや危険なネタというのは面白い。触れてはいけない話題だという認識が無意識に我々の中にあるがために、「おいおい大丈夫かよ?」という感情が生まれ、そしてそれ故に単なるギャグよりもこのようなギャグに強く反応し笑ってしまうのである。先の私の「YouTubeで某元内閣総理大臣のモノマネをしOCHINCHINを連呼しながら税と称してスパチャをねだる配信」というのもこれに該当するであろう。やはりち〇ぽを見せろ〇〇〇三は面白いということである。
se〇tion 2 下ネタの取り扱いについて
当然であるがこれらの触れてはいけないネタは触れ方を間違えると途端に某団体により燃やされてしまうので扱いが難しい。これは地雷原でテンテンドンドンと独り踊り続けるようなものであり、感覚的且つ厳格的なライン引きが重要である。
となれば当然の如く、下ネタも取り扱い方を間違えてはその効用を一切発揮できなくなってしまう。イメージとは裏腹に繊細なネタでもあるのだ。
例えばだが、私が今ここでUNKO、MANKO、OCHINCHINを連呼したらそれは面白いであろうか。
答えは否である。ただ出しただけのOCHINCHINなど露出狂となんら変わりはない。そんな芸のないOCHINCHINはちっせぇちっせぇちっせぇわと歌われながら握り潰されて然るべきであろう。
ではその取扱い方とはいかなるものか。これには感覚的な要素が多分に含まれており、一概にこうとは言えず、また言葉で表現したところでどうしても理解し難い部分がある。この点は野球のバッティングと同じである。
それを前提に置いた上で見て欲しいのだが、下ネタの取り扱いにて最も重要なのは、実のところ基本的なギャグと相違ない部分である。
例えばだが、先の例に挙げたOCHINCHINボロンゲームは確かに下ネタゲーではあるが、同時にやたらと格好が良いカメラワークとOCHINCHINのフォント、そしてスタイリッシュな演出とが合わさりようやく面白い下ネタとして完成している。
つまりこのゲームでは、『OCHINCHINが持つ下品さ』に対して『スタイリッシュな演出』を施すことで、そこに大きなギャップを生み面白い下ネタに昇格しているのだ。
ギャップは様々な場面にて使われる手法である。先の『ち〇ぽを見せろ〇〇〇三』は某やたらと火元になりやすい青い鳩のSNSにて使われる政治系タグなのだが、これも『ち〇ぽ』という文字面と『内閣総理大臣』という極めて厳かな立ち位置にいる人間の名前とが合わさりギャップが生まれ面白い下ネタとして機能している。
他にもち〇ぽならぬテンポの良さも重要であろう。読んでいて長ったるい文章は読む気力を下げさせる。ギャグもテンポが悪いとどこか気だるくなり笑う気が失せてしまう。テンポというのは如何なる場面においても意識すべき問題なのだ。
またテンポに関連して重要なのがリズムの良さである。リズムの良さとはすなわち「どれだけ自然であるか」である。不自然な展開、文章というのはただそれだけでどこか流れをせき止められたかのような感触を覚えてしまい、結果として笑う気を失わせてしまう。
その他にも小手先の技術として「韻を踏む」「前後にしっかりと関係性を作る」などもギャグの技術として活かすことができる。こうして考えてみると、ギャグにおいて大切なことはその他の様々なことにも通ずるであろうことがうかがい知れる。基本がしっかりとできてこそ、下ネタと言うのも活きてくるというわけである。
余談だが、テンポやリズムにて使えるテクニックとして「小ネタを挟む」というものがある。
これは例として挙げるなら先のようにやたらと「section」を「se〇tion」とわざわざ隠す必要のない伏字を使っている点であろう。こうして「ひっそりと」「手間をわざわざ取らずに」ネタを混ぜることで、見た人々に笑いを巻き起こすだけでなく、もしも滑った時や気付かれなかった時に本筋の進行をあまり邪魔せずにスルーさせることができる。これらはギャグと聞いてイメージする「ツッコミとボケ」には無い利点である一方、使える場面は限られてくる。某大江戸侍漫画の言葉を借りてくるなら、「読者がツッコんでいるギャグ」と言えるだろうか。
ネタを解説すると面白みが失せてしまうという残念さがあるが、今作の趣旨はあくまで解説であり笑わせることではないのでどうか見逃していただきたい。
se〇tion fianal おわりに
いかがだっただろうか。以上で下ネタの面白さと、その取扱いについての解説を終了する。
果たしてこの作品が何日残っていられるのか、皆さまどうか見守っていただきたい。