その実態は拉致被害
その日は朝から大忙しだった。
明日は母の七回忌で、今日の夕方には遠方に嫁いだ姉が泊まりに来る。幸い晴天に恵まれた事もあり、ベランダに客用布団を干して姉の泊まる部屋の大掃除。日頃整理整頓を怠っているせいでどったんばったんと荷物をあっちへ運び、こっちに片付け、落ち着かない家主の様子に興奮した同居猫達に遊べ遊べと纏わりつかれるのを往なし、畳の部屋への侵入を阻止し、マタタビでご機嫌をとりつつ粗相の後始末。はい、マジ喧嘩はいけませんよ、仲良くしなされ。ワタシ今イソガシイのですよ。マジですよ。
一段落する頃には真冬だというのに汗だくになっていた。
時計を見れば正午をまわったところ。
押入れに仕舞いっ放しだった客用布団はまだ取り込むには早いし、姉が着くまでにはまだまだ時間に余裕もある。一旦お風呂に入ってしまおうか。という事でお風呂の用意をしつつ、お湯が沸くまでに簡単に昼食を済ませる。丁度いい頃合に給湯器からお風呂が沸いたというアナウンスが流れ、私はいそいそと入浴剤を選ぶ。
今日は潤い系の炭酸入浴剤でローズの香りをチョイス。この乾燥の時期に潤い大切。
お風呂の蓋をちょっぴり持ち上げて入浴剤を投入。
炭酸系の入浴剤は誤解されがちだが、お湯に入れた直後のボコボコとした泡はタブレットがお湯に溶ける際のもので炭酸成分とは関係ないらしいので、入浴は完全に入浴剤がお湯に溶けてからが正解なのだとか。
蓋は直ぐに戻したが、そこはかとなく馥郁とした香りが漂って来る。うん、癒される。
着替えとタオルも用意したし、さ、ちゃっちゃとお風呂済ましてしまいますかと服を脱ぎかけた瞬間、唐突に足元から眩い光が立ち上がった。
は?
何で脱衣場の床が発光するなんて事があるのかな?
築四十年を越す我が家の洗面所の床がである。
む。
しかも、何かこれ、私を中心に二重に円を描いた上に日本語では有り得ないにしてもどっかで見たことが有りそうな無さそうな文字らしき紋様が・・・
え。
これまさか魔法陣とかいうやつ?
え。マジか?と思った瞬間目を開けていられない程に光が強烈に輝き視界を真っ白に焼き尽くす。私は咄嗟の防衛本能で脱ぎかけた服を身に着ける。
う。
気持ち悪ぅ。
一瞬、うっすらと全身を通り抜けて行った違和感に、ぐらりと眩暈を覚える。が、それは直ぐに治まった。
気が付けば私を真っ白な世界に閉じ込めた光は徐々に落ち着き、強烈な光の残像を堪えて目を開ければ、そこに在るのは普通に昼間の明るさ。たった今私が居たはずの少し薄暗い自宅の洗面所とは明らかに違う、白い、艶やかな光沢のある石造りの床。
私の耳に届く、「おぉ」という感嘆符と「成功だ」という小さな呟きを皮切りに、細波のように広がる控えめなざわめき。
かなり広い空間に、かなりの人数に遠巻きに囲まれている気配。ヤだな~、何か顔上げたくないな~。
マジで嫌な予感しかない。
そして足元。
うん、有るね、魔法陣っぽいものが。コノヤロー。
これ、アレかな?つか、やっぱアレ?異世界とか召喚とかゆ~最近流行のアレか?
マジか~。
認めたくない現実に内心唇を噛んで舌打ちする。
まったく。よりによってこのクソ忙しい最中に何してくれてやがるのか。ぶち喰らわせたろか。面には出さないが、少々機嫌も荒れる。
これ、怒らない方がおかしいだろ。まぁ普通突然過ぎて戸惑ったり狼狽えたりするのに忙しいのかも知れないけどね。
確かに最近ライトノベルに嵌って異世界転生ものやら召喚ものやらも結構読んでいた。読んではいたが、だからといってそれは異世界召喚願望とイコールという訳ではない。断じて。
つか、どっちか言うと嵌っていたのは悪役令嬢転生もので、しかも世界観で言えば乙女ゲーム世界だ。やった事無いけどな。
何なら乙女ゲーム世界設定じゃなくてもいいし、転生ものでなくてもいい。悪役令嬢もの面白い。まぁ、主人公だけあって悪役に仕立て上げられるだけで、本人は悪人ではないから葛藤やら破滅フラグ折りが面白くはあるんだけどね。ゲームシナリオの強制力との戦いとかも。
今迄、少女漫画は読むくせに、女性向けの小説は何となく偏見から避けていたんだけど、いざ嵌って読み始めると、ラノベの、特に今流行のこの異世界転生(召喚)ものを一般向けと呼ばれる男性向けのものと女性向けのものとで読み比べると、男性と女性の性差というか、願望の違いが意外な程如実に現れていて、なかなかに興味深くてちょっと価値観変わった。
それで、勿論、乙女ゲーム世界に転生したいとかいう願望も無い。もう完璧に欠片程も無い。全然無い。
加えて、自慢ではないが私のゲーマー性はゼロだ。育成だろうがロールプレイだろうがシューティングだろうが格闘だろうが凡そゲームと呼ばれるものには食指は動かない。ボードゲームですら子供のころ友達の家でやった事があったかな~?程度のあやふやな経験しかない。悪食なくせに好き嫌いの激しい物語中毒患者なので、漫画であったり小説であったり海外ドラマであったり、映画であったり、その時々で没頭するものに違いは有れど、それらを貪る事に忙しく、趣味の域は出なくとも自分でも物語を構築したりもするのだから、凡そゲームに向ける余力も時間も皆無なのである。
子供の頃から一貫した趣味は映画ドラマ演劇小説漫画の読み書き算盤で、根付いた畑もどちらかと言えばSF+ホラーであって、ファンタジーなんてごくごく最近の親しみ始めに過ぎない。だからファンタジーゲーム世界のような異世界に渡ってチート無双すんぞーなんて面倒な事は望んでいないのだ、ド畜生め。(ちなみに、読み書き算盤の算盤は珠算の意味ではなく商売的な意味ですね。時々通じなくて吃驚する。つまり自費出版物の即売会やら通販やらを嗜みますよ的な。OK?)
おぉぅ。そんな自己弁護じみた現実逃避をしている場合じゃなかった。
何を目的とした召喚だか何だか知らないけれど、こちらの都合も迷惑も顧みずに強制的に実行されてしまったからには、とにかく、戻る手段を模索しなければ。
の、前に。
この誘拐犯達にどう対処するべきか。
誘拐。
そう、誘拐だよねこれ。拉致だよ拉致。犯罪だよ。
人権無視だよ。倫理観無ぇな。蛮族め。
いきなり有無を言わせず推定知らない世界に連れ込まれ、今のところ拘束はされていないにしろ、どうなるかわからない上に、帰る手段は私の手の中には無い。本当に異世界ならば、帰る手段の有無にかかわらず、先ずあちらに私を元の世界に帰してくれる意志があるかどうかもわからない。否、帰す必要があるという認識すら無い可能性すらある。
呪術だか魔法だか知らないが、異世界(推定)から強引に人を攫うような文化にどこまで倫理観を期待することが出来るだろうか。下手をすると召喚した相手には人権が有るとすら思っていない可能性だってある。
我々の世界であっても、人権が広く一般へと対象を広げられたのだって、人類の歴史から言えばつい最近の事だ。それだって、未だに差別はあちこちに残っている。
相手の意思を無視した召喚であるからにはこれは一種の奴隷召喚だ。彼等にとって術によって召喚された私は人権を配慮すべき人間である筈も無く、恐らく認識として召喚獣でしかない。まぁ、それ以前に《人権》に相当する概念の内容や範囲は文明レベルによって変動するから、こちらの期待する或いは常識とするレベルと同じということはないだろうと覚悟はすべきだ。こちらの感覚で結果を期待すると痛い目に遭う恐れの方が大きい。
そして一番恐ろしいのは、彼等が私を帰す手段を持つと主張したとして、その送還術が本当に真実私の所属する元の世界の、適切な時間、適切な場所に座標を合わせるだけの性能を有するのかという疑惑。
異世界が存在するというのなら、私の元居た世界と召喚されたこの世界の二つだけが存在すると思うのは安易に過ぎる、危険な油断だろう。
たとえ過去に送還の実績があったとして、きちんと正しく送り帰せているのか。彼等にその結果を確認する術があるとは思わない。というより、確認する必要性を果たして彼等が認識し得るのか。否、その可能性は希薄だ。
送還すると安心させられておいて更なる異世界に迷い込まされでもしたら、それこそ、招かれもしていない異邦人だ。小説にあるような渡界ボーナスの言語チートだって期待出来ないだろう。異世界と異世界を繋ぐ魔法や技術が、行った先の世界に存在しなければそこまでだ。現に、私の世界に召喚魔法は存在しない。その世界の大気が呼吸出来る成分とも限らないし、呼吸が出来たとしても体に悪影響が無いとも限らない。勿論、生存に影響する環境要素は大気成分だけではない。重力、気温、地質etc.。惑星環境の全てだ。その一つでも生存可能範囲を逸脱すれば。うわあ、地獄だ。怖過ぎる。
わかりやすく言うなら、日本の我が家に戻すと言われたのに、突然、月や火星に放り出されるみたいな感じだね。ま、即死だろうなぁ・・・。喩え世界が間違っていなくとも、そういう事も有り得るという事。世界そのものが間違っていたら、どんな困難が待っていることか。
こんな未知の事で、しかも人間がする事を無防備に信用なんてしてはならない。
さて。
犯人は、カルトか国か個人か。それによって対処も変わるが、当面は大人しく無害をアピールしつつ様子を見るべきか。まさかわざわざ大掛かりな魔方陣で異世界から召喚しておいていきなり生贄とかは無いだろうが、絶対無いとも言い切れない。迂闊な事をすれば殺されかねない。事情も目的もわからない内は慎重に行動するべきた。と思う。ま、出来るかどうかはこの際措いとくとしてもだけれども。
「今代は女性の勇者様であらせられるか」
勇者だと?
テンプレかこの野郎!
ざわめきの中に聞き取った言葉に更に気持ちがささくれ立つ。
日頃は霊的な存在に対して使用している考えだが、ここが異世界というのであれば適用させて貰う。私は、隔たれた世界には隔たれているだけの理由と意味があると思っている。故に、隔たれている世界の存在同士は、本来相互不可侵であるべきなのだ。
正式な手順を踏まず、違法な手出しを行うなら敵対的侵略行為と見做し、警戒・迎撃手段に出させてもらう。
何が言いたいのかと言えば、手前の世界の事は手前の世界の中で賄えや!という事だ。何故何の関係も無い余所の世界から人を攫って来て対処させていいとか厚顔無恥な事を思うのか。性根を問い質したい。
などと内心ムカついている内に事態は動いた。
周囲を囲む人々の中から明らかに身分や地位が高そうな身形の人間が、明らかに私に向かって三人進み出て来た。
見た感じ、何らかの宗教の高位神官っぽそうなおっさん。は、ともかく、残り二人の服装は、これも定番っぽく中世の、身分の高そうな騎士という感じだろうか。これもセオリー通りなら、この召喚儀式の責任者の王族とその副官または護衛の高位貴族。そして実行犯―――召喚術の実行責任者の高位神官―――といったところだろうか。
おっと。
推定王子を先頭に私の正面まで進み出た三人は実に洗練された仕草でその場に膝を付き、恭しく頭を垂れた。その瞬間、周囲の人々も一斉に私に向かって跪き、頭を垂れる。
うぅわ、勘弁。
もう脊髄反射的な動きで私は素早くささっと避難する。
無意味な逃避行動だとは重々承知だが、しらじらしかろうが何だろうが、取り敢えずしらっ惚けて相手のペースくらいは乱してやろう。簡単に丸め込めると思ったら大間違いだ。巫山戯んな。の意思表示である。控え目に過ぎて気付かれないかもだけどね(笑)
ふふふっ、せいぜい誰も居ない空間に口上を述べるがいいのさ。
「ようこそお越し下さいました、勇者様」
案の定私の逃亡に気付かぬまま代表者が歓迎の口上を始める。
「我等一同慶びに打ち震え勇者様を歓迎申し上げる」
頭を垂れたままそこまで言い、すっと面を上げた推定王子は、そこで、あれ?と首を傾げる。
うん、そこ、誰も居ないからね(笑)
とはいえ、目を点にしたのも束の間、慌てたように首を巡らせ、彼は直ぐにこちらに気が付いた。
まぁ、そうね。直ぐに見付かるよね。
それはそれとして、それでも白々しく誰の頭も向かない隅っこに避難した私は、わざとらしくも所在無げに両腕で我が身を抱くように身を縮こまらせ、素知らぬ表情で、きょろきょろとあらぬ方へと視線を巡らせる演技をしてみせる。高校では、演劇部に所属しておりました。えへん。指導者も居ない弱小でしたけどね。
「あの・・・」
戸惑いのまま言いかけて、思わず、彼は小さく苦笑したようだ。恐らくは最上位の歓迎の挨拶を向けた相手が、頭を下げた僅かの間に素早く自分の前から逃亡したばかりか、自分に全く注目してもいないという現状は、彼にとっては経験無いどころか想像もしない事であったのだろう。うん、一つ勉強になったんじゃない?よかったね。何事も経験だよ?
が。
まぁ、それで終わる訳もないとは私もわかっていますよ。流石にね。
「あの、勇者様?」
改めて呼び掛けて来るけど、スルーです。返事なんてしませんよ、私は《勇者》なんて恥ずかしい称号の者ではありませんからね?当然欠片も反応すらしませんよ。人違いですから!えぇ!
すると推定王子は困ったようにチラリと傍らの副官らしい男と顔を見合わせた。
とにかくこのままでは話は進まない。仕切り直す為にすっと立ち上がりこちらへ足を向けた男達に、こちらも演技続行です。精々戸惑い脅えてみせましょう。実際怒ってますからね。
「改めまして、ご挨拶申し上げる、勇者様」
「えっ?や、あのっ」
貴女の事ですよと念を押すように真っ直ぐに目を見据えたまま殊更に最後の言葉を強調して来るのに、目を丸くして小さく慌てて挙動不審に振舞う。実際、普通に挙動不審になる場面だと思うし。
でも、勇者呼ばわりだけは断固拒否ですよ。冗談ではありません。
「人違いです」
断固ね。
「いえ、・・・」
「あの、それより、お取り込み中のところ大変申し訳ないのですが」
間違いではないのだと訂正しようとしたところ逆に喰い気味に話しかけると、気圧されたのか、思わず話を聞く態勢になる推定王子に、「お人好しか」と内心ツッコミを入れる。素直か。つか、そこは育ちの良さなのかな?
「此処、何処でしょうか?あの、部外者であることは重々承知しておりますので、直ぐに失礼したいのですが、此処、もしかして日本ではないですよね?なのに言葉が日本語に聞こえるって・・・」
どうして?と先ずは此方の戸惑いと不安を強調する。実際、言葉通じるって、普通に不思議現象。助かりますが。大いに助かりますが。
「映画のセットとか、ドローン撮影とかでもないですよね?」
映画のセットとかドローン撮影とか通じないよね?でもそれらしい事は述べておく。
「あの、おかしな事言うようですが、さっきまで私、日本の自宅に居て、今、靴も履いてないですし、一体何がどうなっているのか・・・」
そわそわと、不安そうに少し早口になりながら、丁寧な言葉遣いで捲くし立てるように喋りながら、気の弱そうな性格を演出する。いや、気の弱い大人しい人間ですよ、私。
そして事情!こちらにも事情があるのですよ事情が!さあ思い知れ!
「私、明日両親の葬儀で、この後遠方に嫁いだ姉が訪ねて来る事に成っていて、・・・故人と同居していたのは私だけなので喪主は私が勤めなければならいんです。葬儀社やお寺さんとの打ち合わせや親戚への連絡もあって、直ぐ戻らなければならないんです。うちには自分で自分の面倒を見られない扶養家族達も大勢居て私の世話を待っていますし・・・」
正しくは法事だが。しかも両親ではなく、母の。ちなみに父は、母が亡くなる十二年前に既にこの世の人ではなくなっている。
古くから慣習の根付く日本ならともかく、異世界でなくとも宗教が違えば年回忌とか言われても通じる訳がないので、ここは嘘も方便です。ま、葬儀社は今回関係無いけどね。ちなみにメッチャ言葉を濁した扶養家族は猫達の事ですが何か?
心底困っているのだというように眉尻を下げて縋るように見詰めてみせる。
さあ、貴様に人間の心が有ると言うならば罪悪感を抱いてみせるがいい。そして今直ぐ私を家に帰す決定をするがいい。まぁ、そう上手く行くくらいならこいつら最初から人攫いなんかしないんだろうが。
「申し訳ありませんが、暫し、お心を鎮めては下さいませぬか勇者殿」
術中にはまり、うっと言葉を詰まらせた素直な推定王子に代わり、高位神官もどきが割って入って来た。
まだ勇者言うかこの野郎!人違い言うとるやろが!
「勇者って・・・」
そろそろ本気で怒りますよ?
思わず眉間に皺を寄せ、剣呑に声が低くなる。
「あの、・・・それ、まさか私の事ですか?」
「御意にございます、勇者殿」
赦すまじ。
推定王子とは違い高位神官もどきは随分と空気を読まないようだ。さもさも当然というようににこやかに傍迷惑な呼称を押し付けて来る。禿げればいいんじゃないかなこの男。
「はぁ?っや、人違いだと思います。って言うか断固人違いです。心外です」
「はて?」
飛び上がるようにして拒否っても通じないのか、高位神官もどきはぽかんとする。否、凡そその場に居た者達は全員内心ぽかんと口を開いて目を丸くしているではないか。え?もうこの国だか世界だか知らないけど、滅びればいいんじゃないかな。
「心外と申されますのは少々お言葉が過ぎるようですが」
ぽかんとするどころか首を捻りやがるかこの野郎。
だけど、召喚陣で人を拉致るような事を是とする倫理観の持ち主なら、こちらの迷惑とか想像もしないのかも知れない。そう思うと知らず溜息も零れる。もう、常識(良識?)を期待するだけ無駄かも知れない。
「って言うか、《勇者》って何?って話なんですけど、まさか私に魔王討伐でもしろとか言わないですよね?(笑)」
まさかまさかそんな、おほほほほ。って―――
「おぉ、ご理解が早くていらっしゃる。まさにその通りにございます」
「はぁっ?」
皮肉通じません!吃驚だよ!つか魔王討伐マジか!どんだけだ?思わず頭を抱えてしまう。大体魔王って何だよ。
「どうしよう、バカにされてるような気しかしない」
もうホントにね。
「それでは、何とお呼びすればよろしいでしょうか?差し支えなければお名前をお聞かせ下さいませんか?」
私の呟きが聞こえなかったのか、それとも不毛な遣り取りで私を苛立たせていては話が進まないと気付いただけなのか、推定王子が軌道修正を図って来る。
名前か。
私はチラリと床に描かれた魔法陣に視線を走らせる。
「あの、これ、魔法陣・・・ですよね?」
「は?ぁ、えぇ、異世界より勇者様をお招きする為に、我等が慈悲深き女神アルカナ様より賜りました魔法陣でございます。この魔法陣を用いた儀式によりまして、貴女様をこの地へお招き致しました次第」
唐突な私の確認に応えたのは高位神官もどきだ。
「そう・・・」
やっぱりか。と、半ば無意識に小さく呟く。舌打ちを堪えた私を誰か褒めて欲しい。つか、女神から賜った魔法陣て何だよ!主犯女神か!さもなきゃ女神を名乗る低俗霊でも信仰してんのか、こいつら。まぁ、《神》の定義もピンからキリまでの幅がとんでもなくえげつないから何とも言えないが。
それはともかく。
魔法のある世界。魔法や呪術の類が恐らく生きた現実として存在する世界。名前というのは、あるいは慎重に扱わなければ危険な世界なのではないのかという考えが頭を過ぎる。何故なら、魔法や呪術の世界では名前は普通の世界より確実に相手の意思や行動、果ては命まで縛る重要アイテムに成りかねないものだからだ。勿論、映画やら小説やらからの想像上の知識に過ぎないけれど、我々の世界にだって、呪術は実在しない訳ではないのだ。
「あの、申し訳ないのですが、個人情報ですので、お教えしかねます」
取り敢えず言ってみる。
「は?ど、どういう事でございましょうか?」
ですよね。通じる訳ないですよね。
「済みません、私の国では、今、個人情報の取り扱いに関しては大変に規制が厳しくて、不用意に初対面の方に漏らす危険は極力冒したくないんです」
それでも往生際悪く小さな抵抗を試みる。
知らない人に不用意に名前名乗りたくないんです。
て言うか、個人情報保護法導入のあたりで手続きやら何やらごっさり仕事量が増えた嫌な思い出が・・・
個人情報取得の際には、明確な使用目的とそれ以外の目的では使用しない等、悪用しない旨の提示が必要不可欠ですよ。プライバシーマークは登録されていますか?ま、無いだろうけど。
「貴女様のご懸念の種は、先程魔法陣かと問われた事と関係がございますでしょうか?」
おっと、さすが、術式の実行責任者―――なのかな?私の抵抗の意味に気付いたもよう。私は小さく唇に苦笑を浮かべ、小首を傾げて見せた。まぁ好きに解釈してください。ご想像にお任せです。
「成る程」
通じたようです。
多分。
・・・かな?
「失礼ながら、貴女様のお国には魔法は存在しないものと聞き及んでございますが、貴女様におかれましては、魔法に対する造詣が深くていらっしゃるようにお見受け致します」
え?何?私の所属する世界の事情を幾らかでも把握しているという事は、少なくとも、私は初めての召喚被害者ではないという事?同じ世界から最低一人は先に攫われて来ているという事だ。
常習犯か。
いよいよ赦せない。
「いえ、現実としての魔法は、私の世界には存在しませんが、物語りやゲーム等のフィクション―――空想上のものとしては存在しますので、正しい知識があるという訳ではありません。ただ、魔法は存在しなくても、魔術や呪術といったものは一応存在しますので。と言っても、一般的な話ではなく、殆ど迷信や都市伝説に近いレベルなんですけど」
それでも私は何食わぬ顔で話を合わせる。
一応、ブゥードゥーの呪術が実在しているのは知っていますよ。
日本の宗教も大概呪術だと思っているしね。全てとは言わないけど。
「それでは、貴女様の事を何とお呼びしたらよろしいですかな?」
「・・・まぁ、そうですよね・・・」
何れにしろ、勇者と呼ばれたくなければ代わりの名前は必要か。そりゃそうだ。仕方なし。
「個人名では有り得ませんが、今の私の立場なら名乗る事は出来ます」
「お立場・・・、で、ございますか」
「えぇ」
私はニッコリと微笑んでみせる。
「ぱっと見、あなた方は私を《賓客》、つまり《まろうど》として遇して下さろうとしているように見えます。けれど、私の立場から名乗るなら、私は《拉致被害者》です」
「それでは、ラチ様とお呼びしても?」
おっと皮肉が通じませんよ?内心の苦笑も含め、私はニコリと真意の見えない笑みで応える。
「では、ラチ様。あちらに部屋を用意してございます。このような場所で立ち話でもございません。まずはお茶など差し上げましょう。詳しいお話はごゆるりとされた後に日を改めてご説明させて頂くのがよろしいかと」
わあ、ホントに流された。凄いな。
でも待てや。待て待て。日を改めてって何だ。冗談も休み休み言えや。
「いえ、現状をある程度正しく理解出来ないままでは落ち着きようもありませんし、先にも申し上げた通り、私には時間に猶予がありません。布団もベランダに干したままです。出来得る限り迅速で詳細な説明を求めます」
そっちに時間が有るかどうか知らんが此方には無い。魔王討伐とかざっくりした巫山戯た目的とかはともかく、ろくな情報も無いまま監禁放置とかされて堪るか。きりきり説明して貰おうか!
「ラチ・・・では外聞も悪いので」
別室へと場を改めたところで、私は自らの名乗りをラチヒ・ガイシャと改めた。明らかな偽名であると丸わかりだし何も改まってはいないが、しれっと押し通す。どうせ便宜上の名だ。本名である必要性は感じない。感じないったら感じないのだ。区切る場所を変えただけでも人の名前のように聞こえればそれでいいじゃないか。私が構わないのであれば余人に文句を言われる筋合いではないですよ。
私のこの仮の名を口にする度、耳にする度、己等の愚行に胸を抉られればよいのだ。通じてないみたいだけどね。いつか気が付け。
で、結局今この部屋には私の他に、先程私の前に進み出た三人だけが居て、私の前の椅子に先程と同じ配置で座っていらっしゃる。
って言うか、神官の人、要らなくね?思い込み激しくて自分を疑わないタイプの予感。ハッキリ苦手なタイプです。というか、そもそも宗教系の人には個人的に思うところがあるので出来れば視界から消えて欲しい。
が。
召喚魔術関係に一番詳しそうなのがこの人とか、ちょっと厄介だな。
そして結論から言えば、推定王子様は王子様で正解でした。この国の第三王子なんだって。まぁ、何人か兄弟がいるのであれば、得体の知れない召喚被害者とのファーストコンタクトの場に、重要な立場にある王太子とかは出て来ないよね。
ちなみにお名前はフリードリヒト・エル・ラグナ・アログナール。長いな。
フルネーム覚えられる気がしません。そしてこの国の偉い人総じてフルネーム長いみたいです。もう一人の副官かな?護衛かな?と思っていた人はグレンロイズ・ダイザンロード・トドロキという名前で、公爵子息様。フリードリヒト王子と幼馴染で、二人とも魔王討伐の随行騎士なんだって。やんごとない身分の方々なのに大変だね。
それで、普通魔王討伐に同行する場合、王子様とか王家の人は戦いには直接参加せず、見届け人として護衛の騎士達に囲まれて少し離れて付いて来るのが慣例なんだけど、フリードリヒト君はきっちり戦いに参加して共に戦いお守り致しますって、そんなキラキラした笑顔で宣言されても、あぁそうですか嬉しそうでよかったですねという感じなんですが。
って言うか、護衛一杯引き連れたやんごとないお方にお守りされちゃう程度の人員わざわざ異世界から攫って来てくれやがったんですかね。とか、ギギギと旋毛が捻じ曲がる幻聴が聞こえて来ますよ。唸りを上げたがる拳を抑えつけるの大変なのでその辺でやめておいてくださいね?自制心との闘いです。帰る手段が見付からないうちはお世話にならざるを得ないのだから、あまり邪険にも出来なくてストレス溜まります。
ところで、グレンロイズさんのラストネーム、トドロキって、日本人っぽい苗字ですね。って、そういえばここの人達、私の世界からの誘拐の常習犯疑惑があったんだった!もしかして、過去の拉致被害者の子孫さんですかね?一応黒髪ではあっても、あまり日本人っぽい顔立ちには見えないけれど、一応機会があれば探りを入れたい。要確認です。とか内心悶々としていたらあっさりと情報開示がありました。先代勇者の曾孫さんだそうですよ。
先代勇者・・・
轟さん、かな?それとも等々力さん?え?漢字はよくわからない?ま、曾孫ともなればそんなものかな?え?一文字だったような気がするって、フリードリヒト君、何で直系の子孫より王子様の方が詳しいのかな?え?先代勇者の大ファンで第二の父親みたいな憧れの存在なの?・・・あ、うん、あぁ、そうなの。幸せそうだね、うん、良かったね。
じゃあ轟さんかな?
何れにしろ、先代勇者はこっちの世界に根付いている模様。
やはり帰る手段は無いんだろうか。
そんな感じであちら側の人達の自己紹介をして貰っていたところで、侍女さんらしき人がお茶とお菓子を運んで来てくれましたよ。
何だか、紅茶に似た飲み物のようです。
魔法が当たり前に存在する異世界とはいえ、人類の生物学的な肉体の進化はあまり大差は無いように見えるし、食文化というか食用の植物等も味や栄養成分に然程違いは無いのだろうか。とはいえ、こちらの人にとって無害で栄養豊富でも、私にとっても同じとは限らない。よね?と、慎重に成ってしまうのは、実はそんな理由からだけではない。
つい、自分の前にサーブされた紅茶っぽいものを見詰め、沈黙してしまう。
一つ、気に成る事があるのだ。
異世界と一口に言っても、果たして、これはどういった類の異世界なのか。
RPG系のゲームからファンタジーに親しんだ人は恐らく知らないだろう。純粋なファンタジーの、ディープ目なファンや、ホラー系のファンタジーに親しんでいる人間であれば多分その可能性に思い当たる人も居ると思うが―――
異世界、というよりどちらかと言うと同じ世界の中でありながら奇妙に位相をずらして重なり合うように存在する、異界と呼ぶに相応しい―――死者や妖精などの怪異の棲家となる―――場に迷い込んだ際、無事に元居た人間の世界に戻れるか否かを決定付ける、とある条件が存在する。
一番わかり易い例を挙げるなら、「黄泉平坂」だろうか。誰しも一度くらいは聞いた事があるだろう。死んだ妻を黄泉の世界まで連れ戻しに行く話。
詰まりは、飲み物にしろ食べ物にしろ、異界のそれを一度体内に入れてしまえば、忽ち肉体は異界に馴染み、人の世に戻る事は叶わなくなる。
誘惑に打ち勝ち、それらを口にしなかった者のみ再び生きた人の世界に戻る事が出来る。あぁ、そういえば、異界の菓子の魅力に負け、食べこそしなかったものの、こっそりポケットに一つだけ隠し持って戻った子供のもとに異界が忍び寄るなんて話もあった。怖。
肉体が異界に馴染む。詰まり、それが死者の国であれば、知らぬ間に死者に、妖精や怪異の棲家であれば、自覚する間も無く人に非ざる存在に変質してしまうということで、人であった時には偶然にでも越えられた人の世界と隔てている境界線を、その存在の変質によって二度と越えられなくなるのだ。
異界の怖さは、まさにそこにある。
召喚によって呼び出されたこの世界に、その法則が当て嵌まらないという保証があるだろうか。
異世界という概念や仮説は、それこそ及びもつかない程多種多様に存在する。
先程から話題に出している死者や怪異の世界である異界と呼ばれるもの。
小さなものでは、結界や、神籬の内側も異世界の一つに成り得る。
メジャーなところで、少しづつ選択や変化の仕方が違う事によって異なる運命を辿る、もう一人の自分や身近な人々が存在する、とても近い並行世界とか多元宇宙とか呼ばれる世界。
例えばおおっぴらに妖精が存在し、魔法が存在するファンタジー世界のような、全く異なる進化や要素を持った世界。
流行のライトノベルの転生ものによく見るような、ゲームや小説のような虚構の世界と酷似した、物語の元となった世界のようなもの。
生き物の深層心理の底で繋がる精神世界の中に存在する世界。
雲から落ちる雨粒の中に生まれ、地上に落ちるまでに成長と繁栄を謳歌し、やがて地に落ちるまでに終焉を迎える世界。
同じ世界の中で遠く離れただけの違う惑星に築かれた文明を、異世界と呼んでしまっているという可能性だってある。その場合、異世界に渡るという方法が魔術によるワープに過ぎなくても、誰がそれを証明出来ると言うのか。
同じ世界に存在する違う惑星だとしたら・・・
まぁ、同じ世界の中と言えど、自力で帰る手段は、無いよな~。
同じ世界同じ時間軸の遥か昔に失われた名も知らぬ文明の時代とかだったり。大気や重力が同じっぽいならそっちの方が有り得るかも。尤も、月の数とか違えばその可能性も費えるが。
あと、自分の所属する世界の名前なんて聞かれたってわからない。つか、異世界の存在が公に認められ、周知でもされない限り、世界に名前なんかつかない。よく、ライトノベルの異世界召喚とかで行った先の世界の世界名を説明されたりしてると、ちょっぴりもやっとするけど、世界に名がついているのは、その世界では異世界の存在が明確に認知されているからこそなんだよね?
だから。
敢えて自分の居た世界の名前を名乗るとするなら、国名か、惑星名だろうか。即ち、「日本」或いは「地球」。でもこれ、並行世界では通用しないよね。何しろ並行世界には、同じく地球の同じく日本にもう一人の自分が存在するのだ。その場合、何を以って差別化を図れと言うんだろう?並行世界怖い。
もしも召喚に使用された魔法陣が元の世界と魔力でパイプを繋げたまま安定して往復出来る性質のものではなく、既に繋がりが断たれていたとしたら、新たに帰還の魔法を構築する際に定める座標として怖いのがこの並行世界だと思う。うっかりズレた世界に座標を繋げてしまえば、同じようでいて何かが違う世界でもう一人の自分とバッタリなんて事に成りかねない。その上、一つの世界に同じ人間が同時に二人存在する事は出来なくて、弾き飛ばされた片方によって一斉に他の並行世界の無数の自分が本来の世界から弾き飛ばされて、違う世界へとズレてしまうなんて怖い話もあるのだ。怖すぎる。
それに同じ世界の同じ場所に座標を繋げられたとしても、彼我の時間の流れが違えば、然るべき時間に戻れるとも限らず、下手をすれば今浦島だ。到着するのがとんでもない未来かもしれないし、とんでもない過去という事だって有り得ない訳ではない。
そもそも、魔法陣の構築に失敗があれば、元の世界どころか時空の狭間で永遠の迷子なんて結末だってあるかも知れない。
何でラノベの登場人物達って、普通に安全に元の世界に帰れるって思えるんだろうね?魔法ってそんな万能?その魔法陣を構築する人、そんな信頼性の高いチート級の人なの?疑ったらキリが無いかもしれないけど、だからといって無防備に構えていられるものでもない。知識が無いって、ある意味羨ましい。
オタクの薀蓄うざしと言う無かれ、喩え一見状況をややこしくしているだけだとしても、知識が有ればこそ出来る用心というものもあるのだ。備え有れば憂い無しと言うでしょ?備える前に多過ぎる憂いに押し潰されそうだけどな。
あぁ、ガックリする。
知識は多い方が武器になるけど、分類や整頓が苦手な者にはちょっと害に成る。無駄に混沌として不安が増しただけかも。今ここ。苦っ。
詰まり、サーブされたお茶やお菓子を口にしても大丈夫か?という。
まあ、異界と異世界は理が違うだろうけど。
取り敢えず、一先ずは手を付けない方が安心か。
「どうぞ、紅茶です。多分、貴女の世界にあるものと遜色はないかと」
そんな風に私が思考をグルグルさせているのをどう思ったか、フリードリヒト君がお茶を勧めて来る。
「我々のこの世界には貴女のいらした世界から過去に何人もの人が勇者として招かれています。それに伴い、幾らか食文化も伝わっています。この紅茶もその内の一つです」
あ、そうなんだ。
これまでに何度も勇者召喚という名の誘拐を繰り返していれば、副産物として文化の融合的な恩恵もあっても不思議は無いよね。全員じゃなくても日本人が多いなら味噌や醤油や米食文化も根付いているかも。
ではなくて。
「あ、いえ・・・、そういう心配とかではなくて・・・・・・」
いや、そういう心配も無いけではないんだけれどもと、恐らく言外に匂わせたであろう未知の飲み物であることや、毒に対する警戒をやんわりと否定する。
「私猫舌なので・・・」
ちょっと苦笑してみせる。
これは本当。
熱い物に対しては正しく猫舌で舌が無理だけど、冷たい物は舌というより喉がダメで、吃驚する程喉が瞬間冷却されて咳が出る。お陰でカキ氷を食べても頭痛に苦しめられた覚えが無い。先に喉が冷えて咳が止まらなくなるからね。(涙)ついでに香辛料等の刺激物にも耐性が低くて、初めてのものは体が受付け辛くて、特に唐辛子は胃に来やすい。以前勤め先の近くに美味しい坦々麺の専門店があって、あまりの美味しさとゴマの風味が強かった事に油断して普段は呑まないお汁に少し手を出して、それでも最後までは呑まなかったのに、店を出て十メートルも行かないところで、胃痛に脂汗が出るくらい苦しんだという哀しい思い出がある。自分でも、手放しに健康な人間だとは言えないと思う。
明太子やキムチが食べられるのは、発酵食品だからじゃないかな?油断して食べ過ぎると漏れなく胃に来るけどね。(涙)
何でこんな人間攫った。
どうせ攫うなら健康に問題の無い人間だろう。
と言うか、出されたものに手を付けないのは、どの文化でも礼儀に反するか。
ちょっと観念する。
「あ~、やっぱり正直に言います」
紅茶、軽いアレルギーがあるみたいで、体調によっては喉がイガイガする事が。
じゃなくて。
「過去に何度か私の世界から同じように《勇者》?ですか?人をさら・・・、招いた事があるとのことですが、無事に元の世界に帰った人は存在しますか?」
私の質問に、彼等は一様に虚を突かれた表情をした。
「いえ、それは・・・」
「居ない、という事でしょうか?そもそも、送り返す手段は存在しないという事でしょうか?」
言葉を濁すフリードリヒト君に、鋭く突っ込む。
「それは、申し訳ないのですが・・・」
「慈悲の女神アルカナ様のお導きによる《勇者》の存在はこの世界の福音。故に、魔王討伐の後も引き続き国賓として厚遇致し、皆様心安らかに生涯をお過ごし頂いております」
やはり帰る手段は用意されていないのだろう。
正直に謝意を示そうとするフリードリヒト君を遮るように、流石の空気を読めない高位神官もどき(名前を呼ぶ気もありませんよ)が割って入り、これまた当然とばかりに胸を張って空気を読まない発言を。って言うか、お前、王子の言葉を遮るって不敬なんじゃ?もうお前ムカつくだけだから話しに加わって来るなよ。そして禿げるがいい。
「帰す気は無いから、初めから送還の魔法陣も存在しないと?」
「左様でございます」
念を押すような私の確認にも明るく肯定するのは高位神官もどきだ。フリードリヒト君と、自己紹介以外は口を噤んだままのグレンロイズ君は少しは私の怒りを察しているのか、はたまた一端の人の心が有るのか、神妙に押し黙っている。
奴隷召喚で無いと言うのなら、招いた人間に帰る手段を問われて「無い」と言う事に罪悪感を抱かない方がおかしい。そういう普通の心理に神の福音という名の目隠しを掛け倫理観を歪めるのは宗教関係者の神様依存心理にはよくあることだ。まさに、この高位神官もどきのように。
「異世界より渡られ、色々とご不安もございましょうが、ご不便はお掛けしませんし、何もご心配される必要などございません。先ずは我等の事情をご理解頂き、女神様の祝福をお受け頂ければ、ラチヒ様のご懸念も解消致しましょう」
「・・・・・・」
もうお前黙れよ。私に殴られる前に。
私は眉を寄せて目を閉じる。思わず苦い溜息も吐く。
ちょっと整理しようか。
此処は異世界。魔王討伐を目的に勇者(ぅおいっ!巫山戯んな!)として誘拐された。テンプレか。そして誘拐犯達は手に入れた勇者とやらを元の世界に帰す気は無いから最初から送還の手段は無い。何だとこの野郎。
まぁ、送還の実績が信用出来ない中途半端な送還魔法が存在しないだけマシか?そうか?そうなのか?・・・そうかも知んない。そういう事にしとこう。私の心の平穏の―――報復衝動に火を点けない―――為に。
あと、人の心皆無なこの高位神官もどき死ねや。つか俺の目の前から消え失せろ!おっと気を抜くと心の中の一人称が輩に。日頃ガラの悪いヤンチャなお兄さんばかりが登場する話を手がけている弊害でメインの脳内言語パターンがそんな感じなので、つい俺とか言ってしまう。嘘です。子供の頃から男言葉で、中学までは人前では《私》でも友達や親しい人の前では《僕》、でも心の中と姉の前では《俺》で、使い分けてました。高校入学と共に女言葉を名実共に身につけても、心の中の一人称はずっと《俺》のままでした~っ!(恥)なので、ちょいちょいガラの悪い男言葉出ます。きっと姓名判断で《長男の名前》と断言された本名のせい。「男だったらよかったのにね~」って、3回くらい言われました(怒)そんで、生年月日しか渡してない別の占いでも「こんなに男性的な要素が多いと~」って言葉濁らせられて、「男性的要素が多いってどれくらいの割合ですか?」と突っ込んでも言い難そうにはぐらかされましたけど何か?「八割くらい?」って訊いても否定されませんでしたが何か?
まぁ、言われなくとも本人は自覚あるし。今は自分の性別に折り合い付いてるけど「男だったら~」は子供の頃とか何度も思ったし。性別を間違われるのは、思春期を終えた辺りからの方が多いが。謎だ。髪を伸ばして、だから「もう間違えられまい」と主張した途端母と姉に声を揃えて「お前の場合、そういう事じゃない」と指摘されたが、未だにどういうことかわからない。あ、そこ、可哀想なもの見る目でこっち見るのはやめようか?
とにかく。
今のところ飲食に関する安全保障の確認は出来ず。という事だね。
「あの、失礼ですが、私が状況を飲み込むまで、飲食物は遠慮させて頂きたいのですが」
「え・・・?」
高位神官もどきの言葉を無視して口にした私の言葉に、彼等はキョトンと目を丸くする。そりゃ、意味わからないよね。
「勿論此方の事情はご説明致しますが、その・・・」
「理由はありますが、今は」
言い淀む彼に、私の事情の詳細は説明する気は無いと言外に匂わせば、フリードリヒト君は疑問に思いながらも「そうですか」と一旦この場は退いてくれる。ええ子や。
それから、異世界から《勇者》を召喚せざるを得ないというこの世界の事情を聞いた。
何でも百年周期で《魔王》という脅威が誕生し、その《魔王》はこの世界の人間では太刀打ち出来ないらしく、見かねた、なんちゃらいう女神が異世界から《勇者》を呼び寄せる為の魔法陣を授けてくれたんだって。わあ、ベタな設定だね。RPG系のゲームのむっちゃ手抜きの設定みたい~。馬鹿なの?
で、《魔王》って何なの?って話なんだけど。
生き物から生じる陰の気が世界に馴染まず長い年月漂い集ったものが瘴気と成って、その、ある意味毒性の強い瘴気に侵された生き物が魔物へと変化し始めたのだけど、魔王というのは、更に長い年月で濃く成り過ぎた瘴気から直接生まれて来る存在らしい。で、その魔王を倒せば、魔王の消滅に伴い、世界に満ちた瘴気は自動的に浄化される。という事らしい。ホントかよ。人が勝手に思い描いている都合いいストーリーなのではないかと疑わしい。表情には出さないけど。
それで、魔王って生まれて何をするの?って話なんだけど、何かあんまり納得出来る話は無かった。取り敢えず、魔王が生まれると、とにかく魔物が増えて凶暴化するらしい。え?そもそも魔物って凶暴性が高いんじゃないの?更にですか、そうですか。
じゃあ、魔王とやらはそんな魔物達を束ねて人間の国に宣戦布告したり攻めて来たりするの?っていう疑問には、何かはっきりした答えは無かったかな。どゆこと?お姉さんは納得しませんよ?無知から生じた偏見と疑心暗鬼の恐怖から取り敢えず殺してしまえとかいうんじゃないだろうな?だとしたら女神と人間側にお仕置きが必要な気はするが。まぁ、斃せば瘴気が浄化されるっていう事だけどさ。
因みに魔王の姿はその時々で獣だったり竜だったり人型だったりするらしい。決まった姿は無いんだね。じゃあ、何がその姿を決定づけるんだろう?
霊的な存在は、見る者の心に在る姿をうつすとも言うから、じゃあ、最初に遭遇した人のイメージがその姿に投影されるのだろうか?
で、何でこの世界の人間では斃せないのかというと、そういう理の世界だからだと。おい待て巫山戯んな!女神の判断おかしくないか?
まぁ、でも、生き物から生じた陰の気が瘴気となり、育ちきった瘴気から生まれる魔王がこの世界の生き物の脅威となり、また生き物から陰の気―――負の感情―――が。
そのサイクルの中の存在に、サイクルを壊す事が出来ないという事なら、何となく、理解出来ない、事も、無い。・・・のかな?理屈ではある気もするけど。違う気もする。
でも、個人的には、百年も準備期間があるのに対策を講じないのは、この世界の怠慢としか思えないのだが。少なくとも、私の世界なら、百年もあれば相当科学も進歩する。戦争があれば兵器文明が飛躍的に進化するから、魔法と科学技術が融合すれば、それなりに対抗し得る何かが出来上がるのではないだろうか。若しくは、魔王を誕生させないだけの瘴気のコントロール技術とか。死力を尽くして研究すれば、少なくとも後者は何とかなりそうな気はする。災いの芽は小さいうちに摘めだ。
地球温暖化対策だって、CO2削減とか、一発解決出来ないまでも、小さな事からこつこつと頑張っている。企業得も故人も様々なアプローチを模索し、編み出している。
だけどこの世界は随分と神との距離が近いのか、なまじ女神から直接魔法陣を授けられて異世界から助っ人呼びなさいと指示されているものだから、その図式に甘えて文明が進んでいないのではないだろうか。何しろ、努力して文明や技術を進歩させなくても、余所から助っ人を呼べばいいのだから。凄くお手軽。しかもそれを女神が推奨しているのだから。必死になる必要がない。
女神。
元凶じゃね?
そしてその女神。
異世界から呼び寄せられた人間は女神から直接祝福を授けられて、魔法を使えるようになるらしい。そして、その時同時に魔王を斃せる聖剣みたいな武器も授けられるんだって。
って。
直接って何よ?
「え?女神に直接会えるって事ですか?」
「はい」
「その通りにございます」
私の質問に彼等はニコニコと答える。
マジか!
「異世界からお招きする《勇者》様は、最初から女神様の魔法陣によって女神様の神性と非常に親和性の高い方が選定されているのです。それ故、《勇者》様におかれましては、女神様の神域に入る事を許されております。代々の《勇者》様はそこで女神様に直接お会いになり、祝福と聖剣を授かられております」
俄かに信じられない話来た。
う~ん、そゆトコ異世界なのかな。
「その神域という所に入れるのは、異世界から招かれた者だけなんですか?」
嬉々として、水を得た魚のように説明を始める高位神官もどきの言い方に引っ掛かりを覚えて質問する私に、高位神官もどきは躊躇い無く「はい」と肯定する。
勇者という名称は意地でも使いませんよ。ムカつきますらね。また、私は認めていないと言う意思表示でもあります。地味ですが。気が付けよ、約一名。お前だけ未だに理解してねぇ。あなた方、余所の世界に迷惑かけてますよ。個人的にも大迷惑ですよ。一体どれだけの人に被害を与えていると思っているのか。当たり前な訳、ありませんよね?その辺どう責任を取るおつもりで?キリキリ答えてみせろや。取り敢えず今は言及しないけど。
「我等は神域に足を踏み入れる事は叶いませんが、われ等の中でも女神様の神性と親和性の高い者は薄っすらとではありますが、神殿にてお姿を拝し、そのお声を聞く事もございます」
マジか。
さっきから私、マジか!しか言ってない気が。
って言うか、それでいいのかこの世界の人!
でもアレか、理の中の存在とかいうアレか。異世界から来る人はその縛りの外という事なのかも知れない。
どうやら、この世界のある種のヒエラルキーは、神>異世界からの召喚者>この世界の住人という事になっているようだ。
「魔王討伐に随行する者達は、代々夫々の分野での実力はもとより、女神様の神性との親和性も高い者達が選ばれております」
へぇ、そうなんだ。どうでもいいけど。
まぁ、神性との親和性が高ければ、それだけ女神の加護が期待出来るとかそんなところだろうとは解釈する。
誘拐犯達への敵意と反発心が先立つ上に、設定がテンプレ過ぎて感心する要素が無さ過ぎるな。可愛気が無くて申し訳ない。今、被害者意識半端無いからね。キレないように只管頑張ってます。
ただ、今重要なのは随行者の持つ女神との親和性の高低ではない。女神と直接会えるという一事だ。
「女神には直ぐに会えますか?」
女神には尊称は付けない。私は信者じゃないし、誘拐の被害者だしね!恥ずかしげも無く卑劣な誘拐手段を構築した犯人なら、キリキリ責任は取って貰わなくちゃいけないしね。
「直ぐに・・・、ですか?」
「はい、今直ぐにでも」
戸惑いを見せる彼等に、キッパリと希望を告げる。
何?何をもったいぶる必要が有る訳?
「一応、陛下への謁見の後に予定しておりますが」
「いえ、今直ぐに」
陛下への謁見とか面倒な事は要りません。これ以上ムカつき増やされたら自分を抑えられる自信がありませんよ。
帰還への光明が見えたからには、とにかく悠長にそちらの予定に合わせている暇は無いのです。何だかんだで結構時間を取られているので、そろそろベランダに干している客用布団を取り込まなければ海風に曝されてしけってしまうからね。それに最寄り駅に到着した姉から電話も来そうな頃合だし。お迎えついでに地元のお気に入りの寿司屋でちょっと贅沢する予定なのだ。なので妥協は出来ません。帰る気満々です。
取り敢えず女神には一発ブチ喰らわす。
「今直ぐに」
大事な事なので、胆に力を込めて二度言いました。
念押しです。
「は、で、では、ご案内致します。此方へ・・・」
多少順序が違ったところで、あなた方には大した問題でも無い事でしょう。
戸惑いながらも、彼等は私の要求を呑む事にしたようで、席を立って女神の謁見の場へと私を先導し始める。
そうそう、よろしくお願いしますよ。
彼等は、私が何を考えているかなんて、想像も付かないんだろうな。