残骸
長いので、暇なときにつらつら読んでください。
「残骸」
①
横断歩道を渡ろうとしたところ、隣でしゃべっていた女が急に話すのをやめた。なぜ話すのをやめたのか不思議に思い、僕は踏み出した足を戻して振り返った。その瞬間、クラクションが鳴り、僕の背中のすぐ近くで車が通り過ぎた。背中で感じた風や近くを物体が通り過ぎた感触から、かなりギリギリですれ違ったようだ。もう一度前を向くと、信号はまだ赤だった。
「大丈夫?」
女の問いかけに自分でも不自然なくらい自然に返事ができた。
「結構危なかったよ?かすったりしてない?」
問題ないことを伝えた。女との話に夢中になっていたわけではなかった。話の内容はよく覚えていない。確か最近見た映画の話だったと思う。知らない俳優の魅力を語られて、適当に相槌をうっていたはずだった。そして、信号が赤だったことも認識できていたと思う。遠くから車が迫っていることも認識していたと思う。にもかかわらず僕は彼女と話していたことを理由に横断歩道を渡ろうとした。
僕には似たようなことがよくあった。いつもなら難なく避けている、前からくる自転車をよけるのがコンマ五秒遅れたり、いつもなら左右を確認するのに、わざと何も見ないで信号が赤に変わる一瞬前に横断歩道を渡ってみたり、駅のホームの端、黄色い線の外側の危ない部分に立っていたりする。そんな時、一瞬わざと危ないことをしようとしている自分に気づくことがあるのだ。
僕は死を望んでいるのだろうか。そんなことをふと考える。しかし、少なくとも今の自分にそんな意志はなく、動機もなかった。日々の生活に不満はない。大学やバイト先には友人と呼べる人はいるし、両親との関係も良好だ。学業にも金銭面にも問題はない。今、僕は死にたさに明確な理由はつけられなかった。
その後、僕と女は大学近くの喫茶店に向かった。僕らが所属しているサークルの今後について話すつもりだった。
②
あの人には一般常識がないんだよ。人の痛みなんて一つもわからない人なんだから。あの家はトイレの扉も開きにくいし、階段だって上りにくい。僕の病気のことなんてなんにもわかってないんだ。
そんなこと言ったって始まらないじゃないですか。感情的になってもしょうがないですから歩み寄りですよ。解決のためには。
感情的になるなって方が無理ですよ。だってあの人、わたしの病気のこと何にも理解してないんですよ?私たちが我慢してることに
気づいてないんですよ。それなのに次々と条件悪くして…ほんとに許せないよ。
お気持ちはお察ししますが…
あんたはそうやっていつも口だけじゃないか。あんたのところの業者とあの人の病院に文句言ってくださいよ。
無理ですよ。私は単なる仲介役なんですから、そんな文句言ったら契約切られちゃいますよ。
何言ってんだよ、お前がなんでも相談しろって言ったんじゃないか。ご要望はすべて受けるって。
いや、それは私のできる範囲でということでして…あくまで一般論としての…
本当にふざけんな。もう金がないんだよ!病気の俺が稼げる場所と、俺でも暮らしやすい家を見つけてくれよ。今の家はやばいんだよ、そうじゃないとお前のところとあの人のところ訴えてやるからな!
いや、あの人だって大変なんですよ。いろんなお客さんの相手をしながらなんとか仕事まとめてるんですから。
ほら、だからお前もあいつらも俺のことが邪魔なんだろ?早く死んでほしいんだろ?そのうち俺の家に火とかつけるんじゃないか?
そんなわけないじゃないですか。私たちだっていっぱいいっぱいなんですよ。
そんなこと知らないよ。お前の上司とあの人に聞いてくれよ。俺に死んでほしいのか生きててほしいのかはっきりさせろって。
そんなのいえるわけないじゃないですか。すみませんがちょっとお手洗いに…
逃げる気か?ふざけんな!
③
僕と女はチェーン店の喫茶店に入った。席に座ると
「あ、電源あるじゃん。ラッキー」
と言ってカバンから充電器を取り出して自分のスマートフォンの充電を始めた。充電器はいくつもケーブルが刺さるような大きいもので、小さいコンセントの入り口にはやや不釣り合いだった。真っ白で大きな充電器が電源に接続され、そこから延びる白いコードが女の携帯につながっている様子は、何か大きな力が地球から無理やりエネルギーを吸い取っているような強引さを感じた。
女は道中話していた俳優についての話をつづけた。いつものことだが内容はまるで頭に入ってこなかった。僕は相槌を打ち、相手が求めている反応を丁寧に追った。話の内容は二転三転し、女のバイトの愚痴や僕たちが所属するサークルの人間関係についての話になっていた。話の内容よりもどれだけ相手の求める反応を返すかということの方が重要だった。
「ねえ、あの席の人たち声大きくない?」
女が急に話を変え、店の少し奥にあるテーブル席を指さした。僕は指さされた方向を確認して、耳を傾けてみた。確かに聞こえてくる声は大きく、どこかとげとげしい印象だった。
席には二十代後半から三十代の小太りの男とその母親ぐらいの年齢に見える細い女、その向かい側に背広姿の男が座っていた。
聞こえてくる話の内容から察するに、背広姿の男は不動産関係の仕事をしているらしく、残りの二人は彼のクライアントのようだ。そしてクライアントの小太りの男は何らかの病気らしい。背広男の紹介した物件は病気の彼にとっては問題だらけの物件だったようだ。またその物件選びは彼の治療担当者も一枚かんでいる様子で、男の言葉はほとんどが目の前の背広男とその担当者への批判であった。男の不満は相当のものらしく、糾弾は徐々にエスカレートし、人格否定や被害妄想、不合理ともいえる要求まで行っている様子だった。
小太りの男の横に座る女の人はストローでアイスコーヒーをかき混ぜながら、無表情に二人の応酬をみつめていた。
「あーいうのってさ。なんか気分悪いよね」
僕の目の前の女はそういった。
「なんか被害者ヅラっていうの?そりゃ病気なのは気の毒だし、生活すんの大変そうだけどさ、あそこまで言うことないじゃん」
僕は適当な相槌を打った。
「しかもさ、あの太った方仕事してないっぽいじゃん?それなのにあんなにごちゃごちゃ言ってさ、つらいのは自分だけー見たいな顔して言いたい放題言って、無茶な要求してさ。もうあれは被害者じゃないよ。加害者側だよ」
僕は適当に相槌を打った。
「結局さ、声の大きい方が自分の意見と押せちゃうんだよね。スーツのおじさんだってきっと頑張ってるのに。そっちは全部無視しちゃってさ。あーいうの気分悪いよ。うちのサークルでも平岩とかそんな感じじゃん?」
僕は適当に相槌を打った。
④
(Twitterにて)
「無人爆撃機」2019年6月8日18時23分46秒
そういうお前だって、サークルの男の態度が気に食わないとか、女を馬鹿にしてるとかいうじゃないか
「無人爆撃機」2019年6月8日18時24分32秒
そのくせ自分は仕事サボったり、遅刻した り普通にするじゃんか。
「無人爆撃機」2019年6月8日18時24分55秒
自分だって悪いところあるのに。被害者ヅラはどっちだよ。
⑤
女とひとしきり話した後、僕は一人で家に帰った。時間は夕方になっていた。電車に乗ると早いのだが、今日は人込みに耐えられそうになくて、歩いて帰ることにした。歩きながらツイッターをのぞくと、僕と同じサークルの男の裏垢が女をたたくツイートをしていた。文面の女とさっきまで僕が一緒にいた女が同一人物かはわからなかった。それぞれのツイートにはハートが五つくらいついていた。多分同じサークルの男たちだろう。
新着のツイートを確認していると、十メートル先に交差点が見えた。僕はもう見るものがなくなってホーム画面に戻ったスマートフォンの液晶を見ながらその歩道を渡ろうとした。信号は見なかった。歩道の白い線に足をかけた時、僕は背中が少しだけぞくぞくしたのを感じた。
「おい、あんた危ないぞ」
背中から声をかけられた。振り返ると警察官だった。中年の男で、ひげが印象的だった。「まだ信号赤じゃないか。歩きスマホなんかしてると大怪我するぞ。」
これだから最近の若者は、とでも続きそうな剣幕であった。きっと彼の頭の中では、いつもケータイばかり弄って、友達とのつながりが常にないと生きていけない、軟弱な学生像が僕と結びついているのだろう。そんなことを感じさせる目だった。
「今、僕が見ていたのはホーム画面で、友達と交流を図っていたわけではありませんよ」
「あなただって子供の時からこういう機械があったら軟弱な生き方をしていたと思いますよ」
なんて言葉が頭の中に浮かんだ。助けてもらった恩人にこんな失礼な反論をしようとするなんて、僕はどうかしていると思った。同時に、僕は命を助けてもらったことに何の感謝もしていないことに気づいた。
僕は小さい声でお詫びとお礼を言った。それを言う自分に違和感があった。僕は別に大怪我をしてもいいと、場合によっては死んでもいいと思っていたのかもしれない。そんなことをふと思った。
家に帰ると僕はすぐに寝た。
⑥
(夢の中で)
…では、最後にご契約内容を確認させていただきます。あなたの臓器は第三者に提供されます。摘出された臓器の利用や販売の権利の一切は我々の団体に移譲されます。発生する利益等は我々のものとなります。お客様のご契約予定の臓器は心臓を含む全臓器となりますので摘出後、あなた自身は安楽死という形で命を落とされる形になりますがよろしいでしょうか?
…そうですか。それではこちらにサインをお願いいたします。
…ご迷惑でなければアンケートにご協力いただきたいのですが、よろしいでしょうか?
…ありがとうございます。それでは、こちらの用紙にご記入ください。
Ⅰあなたはどうやってこのサービスを知りましたか?
・公式ウェブサイト
・TVコマーシャル
・街頭チラシ
・ご友人の紹介
・その他
Ⅱあなたはどうしてこのサービスを利用しようと考えましたか?
・自分の命で誰かを救いたいと思ったから
・病気等で自分自身が長い命ではないから
・家族に補助金が出るから
・その他
Ⅲこのサービスに対して、ご意見がありましたらお書きください。
…はい?Ⅱの質問ですか?そうですね。一番多いのは自分の命で人が救いたいから、ですね。
…本当ですよ。皆さん自分の命で誰かを救いたいという思いがあるようです。
…え、あなたもそれにするんですか?
…失礼ながら、なぜそれを選ばれたかお教えいただけませんか?
…みんなと同じものにしておく、ですか。
…そうですか、あなたもですか。
…ご協力ありがとうございました。それではこちらの注射にてあなたの意識を薄く致します。あなたの善意にこころから感謝いたします。よい来世があることをお祈りいたします。
⑦
目を覚ました。おかしな夢を見た。内容はほとんど忘れてしまったが、最後に打たれた注射針の鋭さと鈍い光沢は印象に残っていた。
僕は死にたいのだろうか。ただ、自分を振り返ってもやはり死ななければならない理由は見つからなかった。
約束があったので同じサークルの男に会いに行った。サークルで行う小旅行の計画を練るためだった。
男とは例の喫茶店で待ち合わせた。僕は約束の十一時の十分前に着いた。男は約束の時間になっても来なかった。
僕は基本的に人を待つのが好きだった。約束を守った自分は正しく、遅れてくる相手が確実に悪い。そして私は遅れた相手を許すことができる。マウントをとれるというか、上位に立てるというか、とにかく心に余裕をもって話すことができる。
逆に人を待たせることは極端に嫌いだった。待たせる一分一秒が僕をどんどん悪人にしていくように感じられて、気が気でなくなる。許してもらえるためならばどんな苦しい要求でも呑んでしまいたくなるような、苦しさが僕の胸の内を占める。
男は二十分遅れてやってきた。男はほとんど悪びれる様子もなかった。私のように少しの遅刻で内臓がひっくり返るような罪悪感にさいなまれる人間と、遅れてきても平然としていられる人間の違いは何なのだろう。そんなことを考えながら彼の話に相槌を打った。
彼とは小旅行の行先と宿泊場所を決めた。事前にサークルのメンバーからとったアンケートをもとに、行きたい場所をピックアップした。僕たちのサークルは名目上テニスをすることになっているため、近くに運動場などがあることが条件となった。
「ぶっちゃけさー、向こういってテニスとかめんどくさくね?普通に遊んで終わりでよくね?」
僕は相槌を打った。
「でも遠藤とかがうるさそうだよな…マジうぜえわあいつ」
遠藤は昨日僕がこの喫茶店で話した相手だった。僕は相槌を打った。
「あいつちょっと可愛いからってめちゃくちゃだよな。テニスしないなら行かないとかわけわかんないこと言ってんじゃん?このサークルでテニスしたがってんのあいつだけだろ。まじめアピールだかなんだか知らないけど、だったら別のサークルか部に入れよな」
僕は相槌を打った。
「でもあいつの顔目当てで入った一年多いからなー。あいつ来ないのは問題なんだよな。結局あいつ中心で話進んでんじゃん。マジむかつく」
僕は相槌を打った。
「そのくせあいつ授業とか就活とかで練習サボったりすんじゃん?マジで一貫性なくてむかつくわ」
「いっそ、あほみたいに練習入れてさ、あいつがもうテニスしたくありませんって言うまで練習しね?あいつの望み通りにさ」
「なあ、お前どう思う?」
男が僕の意見を求めていないことはすぐに分かった。男は自分の意見が僕によって補強されることを望んでいた。だから僕は相槌を打った。
「やっぱお前もムカつくよな。お前もかわいそうだよな、あんな女に付きまとわれて。昨日もなんか愚痴られてたんでしょ?」
男のいった「かわいそう」という単語が耳に残った。おそらく、僕は嬉しいと思ったのだと思う。同情されることは僕にとっては快感だったのだと思う。なぜだかはわからない。うまく説明できないが、被害者でいることに喜びを覚えている。
「まあ、練習ばっかだと俺らもしんどいから、適当な感じでいいか。あの女の言う通りになるのはちょっと癪だけど」
僕は相槌を打った。
男とはその後、行先と宿泊場所を決める打ち合わせをした。スマートフォンでいろいろ調べながら案を出していき、とりあえずいくつか候補が決まった。男は女の悪口をひとしきりいい、僕はずっと相槌だけを打ち続けた。できるだけ肯定に聞こえるような、そんなセリフを心掛けた。
男が席を立とうとした時、僕はこの男と一緒に駅まで歩き、相槌を続けることを想像し、疲労を感じた。
僕は適当な理由をつけて、男とは喫茶店で別れた。僕は男と話した小旅行の行先などが書かれたメモを写真に撮り、グループラインに張り付けた。もちろん、女の悪口が話し合われた話し合いであることは一切わからない、事務的なメモだった。
特にすることもなく、ぼんやりと席に座っていた。女が僕の席の前に急に座った。僕は驚いた。女は涙をこらえるような、怒りを隠しきれないようなそんな表情だった。
「ねえ、いつも平岩とあんな話してるの?」
僕は何の話か分からないと言った。
「とぼけないでよ、さっきから私ここにいたんだよ?全部聞いてたんだよ?」
僕は動揺した。
「ねえ。ほんとに。あんなにでっかい声で悪口言ってたら丸聞こえだよ。平岩がクソなのは前から知ってたけど、あんたまで同じこと思ってたの?ねえほんとあり得ない」
僕は、相槌をうっていただけだと弁明した。しかし、言った瞬間に後悔した。
「は?一緒にいて話してるだけで同罪だろ。否定もしないし、私がビッチとか言われてるときあんた笑ってたじゃん。」
「ねえ、あんたさ、昨日私と話してるときどんなこと考えてたの?やっぱりクソ女だなみたいに思いながら私の話に相槌打ってたの?マジ最悪。そういう態度がむかつくんだよ」
僕は弁明するだけ無駄だと思い、口を閉じた。彼女が収まるまで黙っていようと思った。女は声を荒立てるようなことはしなかった。
「さっきあんたラインに今の話し合いのメモ上げたよね?見てこれ」
女がスマートフォンを取り出した。僕が数分前に投稿した写真と、その内容を説明する文章が表示されている。そこには事務的な連絡と、「旅行、楽しみましょう!!」というメッセージと、陽気なクマがこぶしを突き上げるスタンプが添えられていた。
「ねえ、あんたあんだけ私の悪口で盛り上がった後、よく平然とこういうライン遅れるよね。なんとも思ってないわけ?さっきまでの平岩との会話のこととかさ」
僕は何も言わなかった。昨日、自分だってあの男のことを悪く言っていたじゃないかというセリフが頭をよぎったが、そんなこと言っても何にもならないことはわかりきっていた。
「ねえ、なんで何も言わないの?」
それは何を言っても無駄だと思っているからだ。でもそれを言っても逆効果であることはわかっていた。だから僕は黙っていた。
「なにその目。あんた何考えてるか全然わかんない。ほんとに気持ち悪い」
女はそう言い残して店から出ていった。僕はしばらく席に座っていた。
⑧
空き缶を握りつぶす。一気に力を入れるのではなく、缶の存在を確かめるように、徐々に力を入れていく。力がちゃんと伝わるように手の形を微調整する。怪物なんて名前の空き缶は名前の割に抵抗なく形を変えた。缶の表面に記載された成分表示も、ご機嫌な煽り文も折れ目がついて見えなくなった。僕は缶から手を離して机に立たせた。くの字型に折れ曲がった空き缶はまっすぐ立ててもバランスをとることができず、横倒しになった。
机の上のつぶれた空き缶は、僕の手の形やかけた力の大きさを正確に表現していた。私が今、何を考えていたのか。その缶を皺やへこみの一つ一つが記録してくれているように感じられた。
もう一度缶を握ってみる。どうやって握ればいいかはすぐわかった。さっきの私がやったみたいに、右手で、薬指と中指を缶の中心あたりに添え、そこから小指と人差し指の方向に徐々に力を加える。親指の付け根あたりで手前にくの字に曲がった部分を支える。この空き缶は、もうそういう握り方をするしかない形になっている。
空き缶を握りなおすと、自分がそれを握ったときの感情までも蘇るような気がした。アルミがつぶれるときの抵抗感に、確かな存在を感じられることに、ほんの少しだけ快感のようなものがあって、缶が私の力をうまく吸収できる形に徐々に変形していく中で、缶が手に馴染んでいく安心を得た。そして完全に僕の手の形に馴染んだ時、もうどんなに私が力を入れても形が変わらなくなった時、僕は言い知れぬ寂しさを覚えた。もう僕がいくら力を加えても、この空き缶はこれ以上変わらない。握りなおす度に、握ったときの自分を思い出させてくれるが、これ以上この空き缶から新しい感情が生まれることはない。缶の変化を終わらせてしまったという意味で、私はこの空き缶を絞め殺したといえる。空き缶は完全なる被害者となった。その姿は健気にさえ見えた。
⑨
「死にたい」
検索結果:約63500000件
相談先のご案内
日本:****―***―***
こころの健康相談統一ダイヤル
自殺の前にチャット―死にたい方へ
自殺防止ヘルプライン
死にたい人、鬱な人が見るべき七項目
死にたいと打ち明けられた時の対応
いま「死にたい」ほどつらいあなたへ
……
「死にたい 人間関係」
検索結果:約19800000件
「死にたい」と思うほど仕事でストレスを抱えた時に――最も大切なのは
人間関係に恵まれない人生。疲れた…
職場で一回でも「死にたい」と考えてしまった人は、今すぐ読んでください
……
「死にたい 大学 人間関係」
もういやだ。死にたい。今人間関係で本当にすごくすごく辛いです…Yahoo知恵袋
「対人関係が辛くて死にたい・消えたい」を解消!ここを変えれば人生が…
……
⑩
家に帰って、女に謝罪のラインを送った。できるだけ丁寧に言葉を選んだ。僕は彼女に対して何も悪い感情をもっていないこと、あの時に平岩に合わせていたのは、話の流れで仕方がなかったこと、仲が悪いまま旅行に行くのは他のメンバーに申し訳ないこと。様々な内容を考えたが、長文で正論など語っても女は聞く耳を持たないだろうという予想はできた。結局僕は、「今日はごめん」とシンプルに謝罪のみを行った。
その後、小旅行の要綱の作成に移った。誰に頼まれたわけではないが、できるだけサークルに貢献している姿を見せておいた方が、今後あの女が僕のことをサークル内で悪く言ったとき、心証が少しでも良くなる。そんなことを考えながら資料を作る自分はなんだかひどくみじめな気がした。
僕は誰にも迷惑をかけずに生きていたかった。明確なきっかけなどなかったが、人並みに小さいころから親や教師に「人に迷惑をかけてはいけない」と教わってきたからだと思う。しかし、年齢を重ねるにつれて、その難しさを実感してきた。
強い主張は相手を不快にさせる。かといって自分の意見を持たないのは優柔不断で相手をイライラさせる。自分のキャラクターを持たなければ相手が話題を提供しにくい。そのキャラクターから外れた言動をとると相手が困惑する。批判されると相手が嫌がる。空気が読めないのは論外。でも見透かしたような態度は不愉快。無責任な本音は相手を傷つけるし、考えなしのゴマすりはいらだたせる。
今日の僕は、久しぶりの失敗だった。女と話したのと同じ場所であの男と話しをするリスクを考慮しなかったことは僕のミスだった。女を傷つけたことも、男と関係が悪化することもどうでもいいが、その結果サークル内の自分の立場が悪くなることは避けたかった。女が僕の悪口を、男が流したみたいにツイッターで流しているかもしれないと思うと気が気でなかった。僕はこのサークルを抜けなければならないかもしれない。そうなれば今まで構築してきた人間関係をもう一度作り直さなければならない。また誰かの好きなものを理解し、主義や思想を覚え、それに対応する相槌を考案しなければならない。それはあまりにも面倒だった。しかし、面倒なだけで最悪そうなっても仕方がないとも思っていた。
⑪
(今回の通り魔事件の被害者の遺族・ご友人の方々にインタビューです。つらいとは思いますがお話お聞かせいただければ幸いです。)
…正直気持ちの整理がついていないです。どうして息子があんな目に合わなければならなかったのかわかりません。
(お子さんの近況について教えてください)
…大学に通いながら一人暮らしをしていました。連絡はあまりくれませんでしたが、お盆休みとお正月には帰ってきてくれていました。
(事件当日の様子は?)
…私は家にいて、テレビをつけながら夕飯の支度をしていました。そうしたらニュースが流れてきて、息子が住んでいる場所の近くで通り魔事件が起きたっていうじゃないですか。なんだか嫌な予感がしていたんですが、その時インターフォンが鳴って、警察官が二人家に来ました。そこで事件の概要を伺いました。
(概要というのは、お子さんが亡くなったというものですか?)
…そうです。息子が通り魔に刺されたと。通り魔はすぐにつかまって、今取り調べ中だと伺いました。私は何が何だかわからなくて、質の悪い冗談だろうと思いました。しかし、お話を聞くうちに段々と現実なんだって実感がわきました。そしたら、そしたら…(涙)
(つらいことを聞いて申し訳ありませんでした。最後に犯人に伝えたいことがあれば)
…許せませんが、なぜそんなことをしたのか聞かないと納得できません。なぜ息子が死ななければならなかったのか納得は絶対にできませんが、知りたいと思っています。そのあとは法による適正な裁きを期待します。
(ありがとうございました)
(続きまして被害者のご友人のお二人にお話しを伺いたいと思います)
(被害者の方との関係を教えてください)
男:同じテニスサークルの友人でした。
女:私もそうです。
(お二人から見て、被害者の方はどんな方でしたか?)
男:本当に優しいやつでした。俺の話はなんでも聞いてくれて、サークルの仕事とかも率先してやってくれたんですよ。サークル内の問題とかも真剣に考えてくれていて…もうすぐあいつと計画した小旅行にみんなで行く予定だったんです。本当に残念です。
(遠藤さんはどうですか?)
…私もたくさん相談に乗ってもらいました。好きな俳優の話とか、彼は興味なかったかもしれないんですけどちゃんと聞いてくれていて、サークル内のバランサーになってくれていました。
(今のお気持ちをお聞かせ願えますか?)
男:本当に呆然としています。つい先日まで一緒に酒飲んで遊んでた相手がいなくなるなんて…。殺された当日も俺、あいつとしゃべってたんですよ?ほんとにしょうもない冗談とか、今後のサークルのこととか。そんな相手が急にこの世からいなくなるなんて…まだ整理ができてません。すぐまたひょっこりサークルに現れるんじゃないかって思っちゃってます。
女:私、実は事件の当日、彼とちょっと喧嘩しちゃったんです。本当に些細な事で。ひどいことも沢山言っちゃったんです。私にも悪いところいっぱいあったのに、彼、何にも反論しないからすごいひどいこと沢山…それなのに彼、その後にラインで謝ってくれたんです。言い訳とか一切しないで、自分が悪かったって。私も誤ればよかったんですけど、変に意地になっちゃって、言えなかったんです。そうしたらこんなことになって…こんなことならちゃんと謝ればよかったってほんとに後悔してます。
(本当につらいことを聞いて申し訳ありませんでした。こちらからは以上です)
僕は目を覚ました。今回の夢ははっきりと覚えていた。そして、僕は目を覚ましたことを残念に思った。多分、僕はこういう死に方を望んでいたのだ。自分の死に自分の責任が一切ない死。誰にも責められない死。誰にも迷惑をかけない死。そんな被害者としての死を僕はずっと望んでいたのだと気づいた。自殺ではだめだ。それは結局自分の弱さをひけらかすことになるし、家族にも迷惑がかかってしまう。外部からの力で、仕方なく死ななければならない。交通事故にあったり、ホームで背中を押されたり、完全に相手が悪い状況でなければならない。僕が横断歩道やホームで急に不注意になるのも、そんな死に方を心の底では求めていたからだった。
被害者として死んだ僕を、皆は驚くほどやさしく取り扱ってくれた。僕のしてきた努力を認めてくれた。でも、死んでいる僕は実際に彼らの優しい言葉を聞くことはできない。その事実は僕にとって絶望だった。
⑫
外に出て、缶コーヒーを買った。一口だけ飲んで、自分が今コーヒーなど求めていないことに気づいた。捨てるのももったいないので、リュックサックの脇のホルダーに差し込んでおく。
時折自分がどこに向かっているかわからなくなって立ちすくむ瞬間がある。小旅行の要綱づくりの途中で寝てしまったので、続きをしようと思ったのだが、家ではいろんなことを考えすぎてしまうので外に出ようと思った、図書館で要綱づくりの続きをするつもりだった。ただ図書館ではパソコンの音がほかの人の迷惑になると思い、途中で喫茶店にて作業をすることにした。しかし、喫茶店は昨日のように女に会うことを考えると使えなかった。そのため近くのファミリーレストランに行くことに決めた。しかし、昼時のファミリーレストランには人が多く、居座るのは迷惑に思えた。よって家に戻ろうと決意する。しかし、そもそも私は家では集中できないから外に出たのだ。
何かしら理由をつなげ、ぐるぐると街の中を歩き、作業をする場所を探す。頭のどこかで、今自分が無駄な時間を過ごしていることは理解している。どこかに腰を据えることを拒んでいる自分に嫌気もさしている。とりあえずどこかの席に着けば作業が始められるというのに、誰かの迷惑そうな顔がちらつき、どこにも腰を置けない。自分ではどうすればいいかわからなくなってしまっている。必死に自分に合った環境を選ぼうとするが、結局どこにもたどり着けず、途方に暮れた。
三回目にファミリーレストランの前を通りすぎた時、車道に缶が落ちていることに気づいた。ポイ捨てだろうかと近くに寄ってみると、缶は車によって潰された後のようだった。まだ缶には中身の飲料が残っていたらしく、タイヤ痕の残った缶の周りのアスファルトには、黒い染みができていた。大きな力でつぶれた缶は汚い昆虫の死骸を思わせ、噴出した中身は体液を思わせた。本来液体が漏れ出ないはずの部分から液体を滴らせるその様子は、理不尽な大きさの力で、無理やり途絶えさせられた生命を感じさせた。
飛び散った中身はコーヒーだった。
僕はリュックサックの脇に手を当てた。そこには何もなかった。
僕は缶を拾い上げ(滴る液体が気色悪かったため、摘まみ上げという方が適切だった)、近くのゴミ箱に運んだ。缶はスチール缶で、タイヤの跡がくっきりついていた。僕の力ではスチール缶の形を変えることはできなかったし、もとよりもう形を変えることができない缶に僕がしてやれることは何もなかった。もうこの缶はあの車につぶされるためだけの形に変わってしまっていた。
僕はその死骸をゴミ箱に捨てた。僕がなりたかった被害者はこんなにも無残で、見るに堪えないものだった。