第5章
どうもこんにちは!
ペンネームを変更しました。
猫神幸正です。
冬休みが明け、学校の方がかなり忙しくなってしまい、投稿が遅れてしまいました。
楽しみにしてて下さった方々には申し訳ございません!
今回は、第5章をお送りします。
楽しんで頂ければ幸いです。
それでは、この小説が、貴方に至福のひとときをご提供できることを祈って。
第五章 恋
その夜、静まり返った研究所の夜眠室のベッドの上で、僕は中々寝付けないでいた。全く微睡みが無い訳ではないが、心の深奥に慄然としたどす黒い何かを感じ、自らの本能が昏昏たる眠りを妨げていた。
僕は何とか眠ろうと、ベッドの軋みを確かめる様に何度も寝返りを打った。然し、その度に身体に疲弊を与えて行くだけであった為、僕は遂に諦めてベッドを降りた。深夜の冷んやりとした空気は槍となり容赦無く肌を刺した。僕は裸足で冷たい床を弄り靴下とスニーカーを履くと、泥棒の様な忍び足で夜眠室を出、研究室のカーテンをシャッと開けた。
満天の星と迄は行かないが、中々良い星空である。見慣れない星座が実に堂々と空に貼り付いており、大空のキャンバスに幻想的な情景を描き上げていた。
僕は適当に近くにあった椅子を自分の方に寄せ、ゆっくりと腰掛けた。深い溜息を一つ吐くと、夜空を見上げては何の感興も覚えずに、只々状況としてそこに有った。
僕はどれ位時間が経ったのか分からなかった。研究室の時計は暗くて確認の仕様がなく、確認したところで何がどうなる訳でもない。すると——。
「誰?」
突然背後から声がして、僕は飛び上がらんばかりに驚いた。サッと本能的に視線は声の発生源を探していたが、こんな暗闇では分かる筈もない。すると声のした方から、トン、トンと足音が近付いて来た。僕の心臓は後ろ宙返りと迄は行かなかったが、何だかとんでもない方向に捻れている様だった。
直ぐ近くに来て、星明かりに照らされ漸くその姿を認められた。エリアスと同じ真っ白な短毛に、薄い桜色の上着、エメラルドのスカート。見覚えのある人(?)だ。
「あれ、君って——?」
優しい声だ。エリアスの深みのある安心感とは違い、何処までもふんわりとしたベールで包まれている様だった。
「和泉大人です。こっちの世界に迷い込んでしまった——」
「ああ、君ね!ごめんごめん、私目が悪くて」
彼女はそう言って、アンダーリムの眼鏡をクイッと正した。
「私はライラ。ライラ・レオアード。」
彼女はフワッと口角に微笑の渦を巻き、椅子を引っ張って来て腰掛けた。
「えーっと、ライラ、さん?
何か御用ですか?」
僕の声調は何処と無く不自然で、相手に不信感を抱かせるには十分だっただろう。然し、ライラは再びニコッと笑うと、明朗快活に口を開いた。
「ライラでいいわ。貴方のことは何て?」
「ああ、僕はヒロでいいです。」
僕はライラの微笑みに何か暖かなものを感じ、警戒を解き乍らそう言った。
彼女はふわっと柔らかに笑い、僕の真正面に椅子を持って来た。
「此処、良いかしら?」
常時笑顔を絶やさぬ人である。混じりっ気の無いストレートな笑顔は、突然彩月郷に迷い込み、未だ混乱が収まり切っていない高校生の警戒心を解すには充分である。
「ええ、どうぞ。」
僕は自然と口角に微笑みを浮かべていた。
ライラはストン、と腰掛けると、窓枠に体重を預けて優しく微笑んだ。大気の揺らぎに合わせてポツポツとした星々はゆらりと煌めき、蝋燭の灯の如く事実として唯存在していた。
「綺麗ね……私、こんな風にしっかり夜空を見上げたのなんて初めてよ。こんなに暖かな気持ち、何年ぶりだろう……」
ライラの声に先程の様な快活さは微塵も無く、深い優しさと慈愛、哀愁と後悔が折られ畳まれ混ぜ合わせられ、何処かどんよりとした渦を作り出していた。僕はそうした物の断片を単語と単語の間隙から感じ取り、口角から微笑が波の様に引いて行った。
「何か……あったんですか?」
僕は少し昏い口調で尋ね、瞼を軽く閉じた。
「私ね、元々は貴方達と同じ様に、別のパラレルワールドから迷い込んで来たのよ。それも、二十年も前の話」
衝撃と畏怖の戦慄が迸った。サラサラと流れる様に、過去を懐かしむ様に語るライラであったが、その口調には諦めと後悔の色が織り交ぜられていた。
「話してもいい?」
ライラは星空から視線を動かさず、小さく尋ねた。
「僕で良ければ、聴きますよ。」
僕の声は、静謐な夜に溶けて消えた。ライラは「有難う」の代わりに寂し気に微笑むと、ゆったりと語り始めた。
——当時の私は、未だ迚も幼くて、何も知らなかったの。今はこんな風に猫と人の中間の姿をしてるけど、元はと言えば人間だったのよ。
或る休日の朝、私は一人で、然も両親に無断で、町の中へ遊びに行ったの。たった一つの小さな町ではあったけど、当時の私にとっては広い世界だったわ。商店街には一杯人が居てね、野菜や洋服、お惣菜とか、沢山のお店が軒を連ねていた。今でもはっきり覚えてるわ。
私はお店の間の細い路地に入ったの。一番奥迄来て、もう戻ろうって思って、引き返した瞬間、気が付いたら彩月郷に居たわ。
其処からは、戻る手段も分からなくて、数日間細い路地を彷徨い続けた。ずっと怖くて、震えが止まらなかったわ。路地は変に寒くて、夜は凍え乍ら、壁に凭れ掛かって寝たの。
飲まず食わずで丸三日経った日のことよ。私はもう限界で、仄かに暗い路地の隅に身を潜めたわ。幼い乍らに、死を覚悟したのでしょうね。するとね、ある男の人が私を見つけてくれたの。一瞬天国の人かな、なんて思ったわ。それからはその人の家に御厄介になった訳だけど、決して良い所ではなかったわ。
元々その家にいた人達からは迚も辛く当たられた。考えてみれば当然よね。一人だけ人間の姿をしてるんだから。私を見つけてくれた人も、結局は私の身体だけが目的だった。ある夜、私はとうとう耐え切れなくて逃げ出したわ。
それからは、色んな所を盥回しにされて生きてきた。そして、そんな生活が何年か続いた後、この研究所に拾って貰ったのよ。
口を噤んだライラの瞳は、微かに潤んでいた。
正に衝撃、驚嘆そのものである。然し、疑問が残る。先ず一つ、何故ライラは人間の姿をしていないのか。そして、何故帰ろうとしないのか。
僕は尋ねてみたい何とも言えぬ衝動に駆られたが、ライラの心傷を些か本能的に察し、訊かないでおこうと思う気持ちが渦巻いた。相反する心情は激しい決闘を繰り広げ、結果的に痛い程の沈黙を招いたのだった。
二人のシルエットは群青に凝り、インクの様に真っ黒な夜に良く似合った。
「私が今でも此処にいるのはね——」
ライラは目に入った砂を払う様に素早く瞬きすると、沈み込んでいた言の葉を継いだ。
「私を助けてくれた、ルンさんへの恩返しのため。私が帰ろうとしないのも、そういうことよ。ま、正確には、帰れなくなった、が正しいわね。」
「えっ——」
他の疑問など、この刹那に思考の内から消え去ってしまった。ライラの話が本当だとすれば、これは他人事で済まされる話ではない。
すると僕の苦々しい表情を察したのか、ライラは慌てて付け加えた。
「帰れなくなったって言うのは、もう余りにも長い時間が経ったからよ。自分の吸い込まれた次元の渦が消滅したの」
「消滅……?」
僕は眉間に皺を刻み、怪訝に尋ねた。
「そうよ。次元の渦はいつか消えてしまうの。短ければ七日、長ければ五年位、この世界に存在してる。エリアスが七日以内に帰すって言ってたのは、そういう事よ」
ライラは安心させる様にニコッと笑うと、夜空に視線を戻した。
僕の思考は氷の様に冷たい畏怖に凍えていたが、心配しても仕方がない、と割り切り、心の奥底へと追いやった。
それから暫く、夜は死んだ様な静寂に支配された。その佗しさたるや、まるで薄っすら雪の積もった日本庭園である。星々の瞬きさえも音として感知出来そうだ。
「ねぇ、ヒロ君はさ——」
どれ程時間が経ったろう。十分も経った様に感じた。ライラは物言わぬ水面に水滴を落とす様にポトンと呟いた。風に吹かれる様な波紋は一定の弾力を保った凪ぎ方を見せている。
「——彼女とか、居るの?」
ライラの口調からは言い知れぬ感情が、薄いベールの様な物を介して、僕の心の間隙へと導かれた。
「いえ、居ませんよ。
それがどうかしました?」
僕は拭い切れない明日への不安を振り払う様に、不自然に明るく言ってみせた。
「へぇ、意外。
私がヒロ君のクラスメイトなら、直ぐ立候補するけどね。」
ライラの声からはあの深み、重みは綺麗に消え、悪戯っぽい、意味深長な響きがあった。
「えっ——」
僕は反射的にライラの顔を見た。
チュッ——
何かを考える隙も無い、余りにも突然のキスだった。ライラの唇は驚くほど柔らかく、ふわふわした短い毛の感触が心地良い。羽毛の様な軽いキスだと言うのに、ライラの華奢な肩はピクンと跳ね、それは恋愛とは殆ど無縁だった男子高校生一人の感情の昂りを誘うには充分だった。
時間がやけに長く感じた。互いの唇を漸と離した時には、東の空が群青に明るみ始めていた。
「ごめん」
ライラは淋しげな表情を浮かべて呟いた。驚く程透明なライラの瞳は、仄かな恋心と慈愛に満ちていた。
「私、貴方のこと好きよ。
だからこそ、早く元の世界に戻って欲しい。
頑張ってね」
ライラはそれだけ囁いて席を立ち、研究室を後にした。
其処には唯、僕のシルエットだけが、捕らわれた獣の様に縛られていた。
軈て太陽はその決められたセルリアンブルーのキャンバスをゆっくりと滑り始め、町にも研究所内にも、あの賑やかな喧騒が戻って来た。
僕は昨晩殆ど一睡も出来ておらず確実に眠い筈だが、妙に脳は冴えていた。と言ってもすっきりと冴えていると言うよりかは、強い衝撃によって半ば強制的に醒めさせられた、と言う方が適当である。
僕はあれから、窓際でずっと朝日が昇る様を放心状態で眺めていた。
柔らかなキスの感覚が脳を締め上げて離さない。まるで鎖にでも拘束されているかの様だ。今朝のライラは何事も無かったかの様にけろっとして、いつもの様に明るく笑っていた。
気にしていないのだろうか?それとも、あれは唯彼女が弄した諧謔の一種だったのだろうか?しかしあの表情……もしあれが彼女のそれと判断するならば、彼女はかなり役者だ。考えれば考える程、僕の思考回路は 複雑に絡まり合い、所々でショートを引き起こす。
結局、僕は記憶の片隅に留めるだけにしておくことにした。彩月郷に放り込まれただけでも面倒なのに、これ以上の面倒事は御免だ。
「起きたか。昨日は眠れたかい?」
僕が思考に整理をつけた時、エリアスが部屋に入って来た。相変わらずキリッとした印象が格好良い。
「ええ、お陰様で。」
僕は少し考えたが、結局そう答えて微笑むだけにした。
「そうか。あれ、後の二人は?」
エリアスは爽やかに笑みを返すと、部屋を見渡してそう尋ねた。
「僕が最初に起きたみたいで。じきに起きてくると思いますよ」
噂をすれば影とは正にこのこと、僕が立ち上がり乍らそう答えた瞬間、さーやんが大欠伸をし乍ら部屋に入って来た。
「お、おはよー」
僕は学校で聞く、あの調子と全く同じで少しほっとする様な、肩の力が抜ける感覚を覚えた。
「おはよう、朝食はパンでいいかな?」
エリアスは自然に微笑むと、いつの間に淹れたのか珈琲を手に立っていた。
「あ、有難う御座います」
僕がそう言った時には、もう普段の落ち着きを殆ど取り戻していた。
「扨、皆んな集まったね。」
あれから凡そ五分程でシゲもいそいそと起きてきて、朝食を済ませた。その後昨日行ったあの会議室へまた来た、と言う訳だ。だがそこには、昨日居なかった人が一人。
「昨日も説明したと思うが、君達の世界に直接的影響を与え、次元の狭間を作り出す。そのコネってのが、彼女、フィンクだ。」
狐と猫を足して二で割った様な見た目だ。スレンダーな身体に深紅のワンピースが良く似合っている。身体の滑らかな砥粉色の毛とは対照的に、フサフサした長い尻尾を持っていた。
「へぇ……この子達が次元の狭間に巻き込まれちゃった子達?」
「そうだ。君には昨日伝えた通りだ。宜しく頼む」
エリアスはキリリと言い放った。
「オッケー任せといて。ところで貴方、昨日寝てないでしょ」
フィンクさんはティールグリーンの細い目を更に細めて僕を覗き込むと、探偵の様な口調で言った。
「わかります?」
やっぱりな、と思うのが半分、些か驚いたのも半分。
「ええ、すぐに分かるわ。その顔からすると……昨夜何かあったみたいね。迚も動揺しているけど、今はそれどころじゃないから塞ぎ込んでるってとこかしら?」
フィンクさんは顎に手を当てて、鋭く指摘した。
まさか見られていたのか?でもあの時人の気配は無かった……然しあれ程強い衝撃を受けていた……普段通りの思考が働いていたとは考えにくい……
僕が色々と勘繰っていると、それを遮る様にエリアスが口を開いた。
「それくらいにしとけフィンク。今は本当にそれどころじゃない」
フィンクさんは悪戯っぽく微笑を浮かべると、「あら、ごめんなさい」と白々しくも言った。
「とにかく準備は整った。じゃあフィンク、呉々も慎重にな。」
エリアスは大真面目に言った。
「オッケーでーす」
フィンクさんは真面目さの欠片も見せず、煙草を咥えて出て行った。
「君達も、これからはなるべく慎重に行動してほしい。呉々もこのことをあの研究室以外で喋ることのないよう、宜しく」
エリアスの口調からは、只ならぬ危険な香りが漂っていた。少年心を擽る様な、冒険心に満ちている、と言い換えることも出来るだろう。
一方その頃——
「その情報に間違い無いな?」
男は脅す様に問うた。
「はい。外界より迷い込んだと思しき小鼠共が、この彩月郷を抜け出そうとしているそうです。しかも、オリンディア調査団、エリアス・クロスナイドもこれに関わっているとか」
低い声で唸る様に、小柄な者が報告している。
「分かった。なれば、成すべきことは一つだ。分かるな?」
男の言葉はどこまでも冷徹で、迷いが無かった。
「委細承知」
報告をしていた小柄な者は深々と頭を垂れると、そのまま立ち去った。
そこには、男の賤しい、暗い笑みだけが残っていた。
如何でしたでしょうか。
漢字が難しい、という御指摘を受け、難易度の高い漢字はなるべく抑えました。
楽しんで頂けましたら、評価の方是非是非よろしくお願いします!
ご感想などもお寄せくださいませ。
それでは、また次のお話で。






