予感
雨の匂いが漂い始めた。隣り合った花屋と中華料理屋のちょうど真ん中に立った時の匂い。いや、違うか。とにかく、灰色の雲が重なり合って、空気が粘着質になった。
「…お兄ちゃん。雨だよ。」
「…おう。」
弟も同じことを感じ取ったのだろう。まだ、鼻先に水滴がぶつかったわけでも、地面も黒ずみ始めていない。雨だよ、というのは、雨が降りそうだよ、の意味だろう。
「早く帰ろ。」
「…そうだな。」
弟の右手には、俺が弟のために持っていった黄色い傘。反対の手は、俺の右手を握っている。その俺の反対の手はポケットに突っ込んだまま。だから、俺たちの手元には、小さな幼稚園児用の傘が一本あるだけ。これだけでは、弟しか雨を凌げないだろう。それで、構わないのだけれど。
「…今日ね、お絵描きしたよ。」
「…何、描いたんだ?」
「お母さんとお父さん。それとね…。」
俺の右手から小さい手が離れて、肩から提げたカバンの中に入っていく。出てきたのは、折りたたまれた画用紙一枚。単に二つ折りになってるだけでなく、八分の一のサイズにまで、小さくたたんである。それを一生懸命に広げようとするのだが、右手が傘でふさがっているから、弟は悪戦苦闘している。
「…ほら、傘。」
小さな黄色い傘を受け取る。その湾曲した持ち手の小ささに慣れない。
広がった画用紙には、クレヨンで描かれた一つの顔。
「これは、お兄ちゃん。」
顔は似てない。ただ、短髪という特徴は捉えている。
すると、ポツリと黒いシミが滲み出した。ちょうど左目の下に。泣いているみたいに。
「あ、雨。濡れちゃった。」
「…早く帰るぞ。」
「うん。」
似てない似顔絵を、俺のポケットにしまう。そして、手を繋いで歩き始める。小さい方の歩幅に合わせているから、大きい方は苦労しない。
こうなることを見越して、家から持ってきた弟の傘もささず、俺たちは濡れながら歩いていく。
そうならないようにと思って、早く帰ろ、と言った弟は、結局我慢できなくて似顔絵を濡らしてしまった。
予感はいつも、頼りない。