10.決別と旅立ち
翌日。俺はアトリーと一緒に、街のそばにある小高い丘の上に立っていた。
眼下に見下ろしているのは、ファルたち《 聖戦士 》様ご一行のパレード。街の人たちが、《 聖女 》ファルカナの旅立ちを大歓声で見送っていた。
先頭を歩くのは、ゼルクナンバー『1』。【 正義 】の《 聖騎士 》スレイヤード・ブレイブス。
噂通りのイケメンで、町の女の人たちが黄色い声援を浴びせている。
その後ろを歩くゴツイ体の大男と、修道服に巨大なモーニングスターを担いだ女の子は、ナンバー『8』──【 教皇 】の《 聖狩人 》ハンティスと、ゼルクナンバー『9』──【 女教皇 】の《 聖闘女 》イシュタルのマクニーサス兄妹だろう。
続いて歩く黒髪の女性は、ゼルクナンバー『13』。【 塔 】の《 聖導師 》ヒナリア・エルフィールかな。たしか昨日教会で目が合った人だ。なかなかに美人だわな。
そして一行の一番最後を歩くのが、ゼルクナンバー『12』。【 恋人 】の《 聖女 》ファルカナ。
ファルは、いつもの彼女に似合わず俯いたまま歩いていた。なぜだろう、どうにも浮かない表情をしている。
「ったくあいつは、なに暗い顔してんだか。こんなときくらい笑顔で手でも振りゃいいのにな。アトリーもそう思わないか?」
「ふぇ? あ、うん、そ、そうだね」
「……なんでアトリーがキョドってるんだよ?」
「う、ううん。なんでもないよ」
「ふーん。まぁいいけど」
がんばれよ、ファル。俺は心の中であいつに声援を送る。
それにしても、幼なじみの旅立ちをこんな穏やかな気持ちで眺めることが出来るとは夢にも思わなかったな。
「ねぇ、ウタくんは本当にファルと一緒に行かなくてよかったの?」
「ん? もう何度も言っただろう。俺は教会に二度と関わりを持つ気はないって」
実は俺たちは、翌日には一緒に旅立つことを決めていた。
もちろん、アトリーには既にナンバーズになったことは告げてある。アトリーは「これで一緒に冒険できるね!」と言って諸手を挙げて大喜びしたものだ。
その際、教会への復帰についてアトリーから確認されたけど、俺はガンとして首を縦に振らなかった。ファルとの合流についても同様だ。だって、全てとっくに決着のついてる話なのだから。
「ファルはもう聖戦士になる道を歩み出している。だったら俺は俺で別の道を進むだけさ」
「でもさ、ファルカナだけでもスカウトするって手もあったんじゃない?」
「んなこと出来るわけないだろ。ほかの人たちに大迷惑をかけることになるしな。それに、あいつはもう決めたんだ。今さら俺らがとやかくいうことはないよ」
「……へぇー。そっかぁ。だったらまぁいいんだけどね」
そう答えるアトリーは、なんだか妙に嬉しそうだった。
そうして今日、二人でこうしてファルの見送りに来てるというわけだ。
幼馴染の勇姿を目に焼き付けるために。
そして、この街に最後の別れを告げるために。
今回の旅立ちを決めるにあたり、アトリーとの間で実は一悶着あった。当初俺は、アトリーを誘うかについてものすごく悩んでいた。
もちろんアトリーには付いてきてほしい。だけど俺は完全に教会と決別するつもりでいた。ナンバーズの守護神ともいえるエル・エレ教会との決別は、この先の人生が容易ならざることを意味している。おそらくはいばらの道が待ち受けているだろう。
そんな道に、幼なじみであるこいつを巻き込むことについて気が引けてたんだ。
「……というわけで、アトリー。お前はどうする?」
だから俺は、卑怯にも回答を丸投げした。
アトリーは頬をぷーっと膨らませて不満全開の反応をする。ここでようやく俺は言い方を間違ったことに気づいた。
「んもう、ウタくんってば! なんでそんなこと言うかなぁ」
「……すまん」
「どうせなら『黙って付いて来い!』くらい言ってよね?」
「いや、そ、それは──」
「ボク、前にも言ったよね? ウタくんと一緒に冒険の旅に出るって。だから付いていくに決まってるでしょ? 水臭いにも程があるよ!」
アトリーの言葉に、俺は強く胸を打たれた。やっぱり持つべきものは友達だよな。そして今後のことを相談した結果、すぐにでも旅に出ることが決まったんだ。
俺の旅は苦労の多いものになるかもしれない。だけど、アトリーが付いてきてくれるなら百人力、勇気百倍だ。
いつの間にやら、聖戦士一行は街を出ていた。見送りをしていた野次馬たちも一人二人と去り、今ではかなり人影もまばらになっている。
俺たちも引き上げようか。アトリーと相談しながら丘を降りて行こうとしていると……。
「おーい! ウタルダス!」
丘の向こう側から、大声を上げながらこちらに走り寄ってくる人の姿が目に入った。
豪華な法衣に身を包んだ、白い髭を生やした初老の人物。あれは──ユースグリット先生じゃないか。
「はぁ、はぁ、はぁ。ま、待つんじゃウタルダス!」
「やぁユースグリット先生、どうしたんですか? あ、いまは大司教だっけか」
「そんな、はぁ、ことは、はぁ、どうでもいい。ヴァーリットやエジルたちに聞いたぞ! お主、ナンバーズに覚醒したんじゃってな!」
ユースグリット大司教は興奮した様子で、息を切らせたまま充血した目で俺の両肩を掴んでくる。怖っ! 血走った目で掴みかかってくる老人怖っ!
「まぁまぁ落ち着いて先生、じゃなかった大司教。確かに俺は覚醒しましたよ。ほら、この通り」
「おお……本当じゃ。まさかお主までナンバーズになるとは……」
ゼルクナンバー『100』が記されたカードを目の当たりにして、涙を流して大喜びするユースグリット大司教。いやいや。あんたその涙、偽物だろ? すぐ分かるよ、なにせあんたは俺を破門にした張本人だしな。
「ではウタルダス。ナンバーズになったということは、お主も《 聖戦士 》に加わるのじゃな?」
「え? 加わりませんよ俺は」
「は? な、なんでじゃ!」
「なんでって、俺は教会から破門されてるじゃないすか」
そう。俺はまだ教会から破門されたままなのだ。しかも俺を破門したのは目の前にいるユースグリット先生だっていうのに。そんなこと忘れちゃったのかな? ひどいなーもう。
「そ、そんなものは解除じゃ解除! 大司教であるわしが解除するといえば問題ない! なにせお主は双子の女神様に選ばれたのだからなっ!」
「双子の女神? あー、あのプリンとエクレアの二人ね」
「なっ! お主、どうして双子の女神様の”真名”を知っておる!」
「知ってるも何も、俺、本人に会いましたもん。チュートリアルとかいう変な空間で──」
「な、な、な、なんじゃとーっ!」
口角に泡を吹きながら大声を上げるユースグリット大司教。あのー、つばが飛んできて汚いんだけど。
「い、一応確認するが、双子の女神様の”真名”をフルネームで言ってみよ」
「フルネーム? 『プリン=アラモード』に『エクレア=シュークリーム』だろ?」
「よ、よもや本当に女神様の隠された”真名”を言えるとは……では女神様に会ったというのは事実なんじゃな」
「それより先生、先生はチュートリアルのことを知ってるの?」
「知ってるも何も、《 チュートリアル 》は双子の女神様のいらっしゃる”神の御所”ではないかっ!」
ユースグリット大司教が言うには、チュートリアルとは、かつて大英雄と呼ばれた数名だけが訪れた、双子の女神が住まう聖域であるらしい。
しかもチュートリアルの名は、双子の女神の真名ともども教会の限られた人だけしかしらない極秘事項であるとのこと。
なるほど、だから大司教は俺の話をあっさりと信じてくれたのか。
「よもやウタルダスが聖域に呼ばれることになるとはのぅ……」
「ふぅん。そんなすごい場所には思えなかったけどなぁ」
「いやー、素晴らしい! 素晴らしいぞウタルダス! ファルカナに続いてお主まで目覚めたとなれば、英雄候補を排出したわしのさらなる出世は間違いないではないか!」
さっきの涙はどこへやら、嬉々として俺の手を握りしめてくる。おいおいジイさん、欲が口から洩れてるぜ?
「さぁウタルダス、お主も教会の洗礼を受けて新たな聖戦士になるがいい。そして、先にダンジョンへと向かったファルカナたちと合流し、さらなる栄光を──」
「いや、だから俺は教会の世話にはなりませんってば」
「……な、なにを言っておる? もう破門は解いたんだぞ。であれば」
「そういう問題じゃないですよ。ねぇ大司教、俺はね、一年前に一度あなたたちに見捨てられたんですよ? 自分を一度切り捨てたところに、なんでわざわざ戻らなきゃいけないんです?」
「む、むむぅ……」
俺の切り返しがよほど予想外だったのか、ユースグリット大司教は間抜けな顔をしてモゴモゴと言葉にならない声を発している。
教会との絶縁。これは、俺なりのささやかな復讐だ。
先生たちに対して、これ以上何かしようとは思わない。だけど俺の人生において、教会に力を貸すことは──もう二度と無いだろう。
もはや教会に義理はない。これからはもう、俺の好きなように歩いていく。
「ということで、さようならユースグリット大司教。お達者でね」
「ま、待てウタルダス! わしはまだ」
「んじゃボクも。ばいばーい」
「あ、アトリーまで! ま、待て! 待ってくれー! わ、わしの出世があぁああぁ」
俺に必死にすがりつこうとするユースグリット大司教の両手をさらっと躱し、そのまま振り返りもせず一気に丘を駆け下りていく。
背後からは、大司教の絶叫が聞こえてきたけど──ガン無視だ。
じゃあな、じいさん。いい歳なんだから達者に暮らせよ。
大司教の姿が完全に見えなくなるところまで走ってきて、俺とアトリーは堪えられずに屈み込む。
そのまま、大爆笑した。
こんなに笑ったのは本当に久しぶりだった。
一通り笑ったあと、俺はゆっくりと伸びをする。
「あー、すっきりした!」
「すっきりしたね! でもウタくんはあれでよかったの?」
「ん? なにが?」
「んー、もっと復讐しようとすればできたんじゃないかって思ってさ」
たしかに、今の俺が力を出せばもっと色々と復讐できたかもしれない。
でも、1年前までお世話になってたことは事実なんだ。そこまで酷いことをしたいとは思わなかったんだ。
「そっかぁ。ま、ウタくんがそう決めたんならボクは構わないけどね。それはそうと、ウタくんってばチュートリアルに行ったんだね」
「ん? アトリーはチュートリアルの存在を知ってるのか?」
もしかしてアトリーもあの白い空間に行ってたのか?
たしかユースグリット大司教は『聖域の存在が確認されたのは久しぶりだー』とかなんとか言ってたけど、実は結構みんな双子の女神様に会ってたりするんだろうか。
「んあっ、い、いや、ぼ、ボクは行ってないよ。ただそう……そういう場所があるってことを、知識として知ってただけだよ」
「へー、そっか。俺は聞いたこともなかったんだけどなぁ」
なんだかアトリーは焦ったような表情を浮かべているけど、まぁ俺の知ったこっちゃない。
とりあえすユースグリット大司教のおかげでチュートリアルについての情報は判明した。だけど、なんで俺があそこに呼ばれたのか、その理由は未だにわからない。
「ったく、神様の考えることは俺にはさっぱりわかんないぜ。プリンにエクレアとかいう、なんとなく甘ったるそうな名前しやがって」
「甘ったるそうって……もしかしてウタくんはプリンとエクレアがスイーツの名前だってこと知ってるの?」
「スイーツ? なんのことだ?」
「あれ、知らない? 知らないならなんでもないよ」
慌てた様子で首を振るアトリー。なんだこいつ。まあ別に構わないけどさ。
「それよりもさ、双子の女神様に対してそんな不敬な発言していいわけ?」
「あー、んー、なんというのかな。俺はさ、実際に直接会ってみて、正直俺にはあれが”神”のような存在だとはあんまり感じられなかったんだ」
たしかに双子の女神様はすごいマギナカードを使用していたし、俺のネクストの本当の力を開放してくれた。
でも、俺にはあいつらが神のように絶対的な存在とは思えなかった。与えられた仕事だけをこなす人形のように感じられたんだ。
「なんというか、自分の意思がないというか、機械的というのか……」
「ふーん、そっか。まぁでも女神様がなんだってボクは構わないんだけどね。こうして無事にウタくんも”ナンバーズ”になれたわけだし」
そうなのだ。俺はナンバーズになっちまったんだ。
ということは、これから先、俺がやるべきことは──ただひとつだ。
「ウタくん、これからどうするの?」
「決まってる。俺は《 最強 》を目指す」
かつての俺は、父親や教会から″騎士″やら″聖戦士″やらと色々な夢を押し付けられてた。
だけど、そういった障害が全て取り除かれたときに、俺の中に残っていたのは──ただ単純に『強くなりたい』という想いだった。
俺は、【 愚者 】というネクストがどこまで強くなるのかを見極めたい。
その時に、俺がどんな場所に立っているのか。行き着く果ての景色を見てみたい。
極めたい。強くなりたい。
俺はもう誰にも遠慮はしない。
自分の力でどこまで行けるのか、この目で、この腕で、この足で確かめたいんだ。
「ふふっ、なんだか昔のウタくんが戻ってきたみたいだね。じゃあさ、これからどこに向かう?」
「もちろん目指すは″八魔迷宮都市″ オクトケイオスだ。そして俺たちは、《 魔王のダンジョン 》に挑む」
《 魔王のダンジョン 》は、俺たちナンバーズたちが挑むことになる迷宮だ。幼い頃から俺が憧れていた場所であり、数多くの英雄譚や伝承でも、すべてナンバーたちが挑んだ修行場。
己を鍛えるにはうってつけの場所だ。
「さーて。そうと決まれば、早く準備しないとね。あーでも、その前にご両親にお別れの挨拶を済ませないと。ウタくん、ちゃんと話してないんでしょ?」
「半ば勘当みたいな感じで出てきたから俺の方はどうにでもなるさ。それよりもアトリーの方が大変なんじゃないか?」
「うーん、そうなんだよねぇ……」
「あんまりエミールおばさんに心配かけるなよ? あの人マジで心配性だからさ」
「そんなの分かってるってば」
俺たちはお互いに小突き合いながら、明日には去ることになる街へと戻っていく。
もう、この街に戻ることはないかも知れないな。そんな思いが脳裏を掠める。
でも、それでももう構わない。
俺は、前に進み続けると心に決めたのだから。
◆◆◆
聖戦士たちやウタルダスたちが旅立った数日後の夜。
二人の神官兵がエル・エレ教会の入り口の警備を担当しながら話をしていた。
頬にガーゼを当てた筋肉質の男性と、頭に包帯を巻いた背の高い男性。エジルとパーリーの二人だ。
「……ウタルダスに断られたユースグリット大司教は、ショックでそれ以来寝込んだままだよ」
「まさか教会の加護をむげにするなんて、ウタルダスのやつもバカだよねぇ。信じられない!」
二人はウタルダスにかなり手ひどくやられたあと、翌朝になってようやく意識を取り戻した。
慌ててすぐにユースグリット大司教に状況を伝えに行ったところ、ちょうど同じように目を覚ましたウタルダスの父ヴァーリットが大司教に話をしているところだった。
三人からの話を聞いて事実だと考えたユースグリット大司教は、ウタルダスを探しに行ったものの、きっぱりと断られたのだという。
ちなみにユースグリット大司教が寝込んでいるのは、ウタルダスをまんまと取り逃がしたことで出世の道が断たれたショックからだろうとエジルは考えていた。
なにせ自分が破門にした人物がナンバーズに覚醒してしまったのだから、教会での彼の立場はかなり厳しいものになるだろう。おそらくこのまま引退するのではなかろうか。エジルは恩師の窮状をそのように分析していた。
「それにしてもウタルダスのやつめ……絶対に許さない。俺たちのことをコケにしやがって!」
「うんうん! 許せないよ!」
「だが、まさかあいつがナンバーズに、しかも未確認に目覚めるとはなぁ。しかもあの凄まじい力」
「た、たしかにあの力はすごかったね……」
エジルはフォースネクスト、パーリーもサードネクストのネクストホルダーだ。一般的には優秀な人材といっても過言ではない。
その二人が、覚醒したウタルダスの前では完全に子ども扱いだった。手も足も出ずに、徹底的に打ちのめされた。そのときのウタルダスは笑ってさえいたのだ。
「しかもあいつのナンバーは未発見だ。これからどんな成長を遂げるのか計り知れない」
「そ、そうだね。もしかして、あの英雄スレイヤードよりも強くなったりするのかな?」
二人が傷をなめあうように会話を交わしていた、そのとき。
「ほほぅ、なかなか面白そうな話をしているな。その話、もう少し詳しく教えてもらおうか」
不意に聞こえてきた声に、エジルとパーリーは持っていた槍を構える。
「だ、誰だっ!」
「何者!」
二人の前に現れたのは、マントとフードで身を包んだ大柄な男だった。顔は見えないものの、只ならぬ気配を感じる。
「スレイヤードを追いかけてきてみれば、もう旅立ったあと。またもや入れ違いで味見できないのかと思ったら──未発見ナンバーズとはな。実に面白いじゃないか」
「何一人でブツブツ呟いてやがる、この不審者めっ! このエジルが成敗してやる!」
「そうだそうだ!」
「ほう? このオレを相手にやる気か?」
不審な男に凄まれ、不気味なオーラにたじろぐエジルとパーリー。
ふぁさり、と不審者のフードが取れる。月明かりの中、姿を現したのは──獅子の頭。
「なっ! お、お前、獣人なのかっ!」
獣人とは、体の一部が獣の姿をした人のことを指す。
目の前の人物は、なんと頭の部分が全て獅子の姿をした獣人の男性だったのだ。
「ケダモノがこの教会に何の用だ!」
「獣人なんて神聖なる教会に近づけるわけにはいかないよ!」
「別に教会なんぞに近づく気なんぞないが……やる気なら相手してやろう」
「ざけんなっ! 俺は【 肉体強化 】のフォースネクストだぞ!」
「僕はサードネクストの【 槍術 】だ! さっきはウタルダスに遅れを取ったけど、けもの臭い獣人なんか目じゃないよ!」
「ほほぅ、フォースネクストの【 肉体強化 】か。このオレの力にどれ位対抗できるか楽しみじゃないか」
WoooooooooWW!
突如、獣人が雄叫びをあげる。その声を聞いた途端、全身が硬直して身動きが取れなくなる二人。
ばかな、なぜ体が動かない? エジルは全身の震えを抑えることができない。そのことが信じられなかった。
それが、本能からくる恐怖であるということに気付くのは、もう少し先のことだ。
ばさり、と男がマントを脱ぎ捨てた。
びきびきっ。なにか不気味な音が聞こえる。それは、獅子頭の獣人の筋肉が蠢く音だった。
まるで風船のように男の筋肉が盛り上がっていく。その姿はまさに──「ば、化け物っ!」エジルは思わず叫んでしまう。
このときになって、エジルはようやく一つの噂を思い出す。
獅子頭の獣人。圧倒的な肉体。そのような容姿を持つ人物の、破壊的な逸話を。
「た、たしか聞いたことがある。どこかに獅子の頭を持った獣人の″ナンバーズ″がいると……」
「え? そ、それってもしかして、たった一人で国王軍の騎士100人を打ち破ったという噂の?」
「あ、ああ。そ、そいつのゼルクナンバーは『2』。持ってるカードは……【 力 】。その獣人の名は──」
「ほほう、オレのことを知ってるのか? 光栄だな。では実際に手合せして、ウタルダスとかいう未発見との実力差を教えてもらおうじゃないか──」
── この《 獣王 》になっ!
その夜、街の人たちは獣の雄たけびを聞いた。
だがその声にかき消され、男たちの悲鳴を聞いたものは少なかった。
──惨劇はあっという間だった。
獅子頭の男の目の前には、意識を失って倒れたエジルとパーリー。二人は手足を折られ、反対を向くような酷い有様だった。
そんな二人を冷たい目で見下ろす獅子頭の男。
「……つまらん。ちとやりすぎたか」
頭をかきながらため息をつくと、誰もいないはずの暗闇に向かって声をかける。
「おい、ノビル。いるか?」
「はーい、いますよぉ」
呼びかけに応えて闇の中から出てきたのは、頭に猫のような耳が生えた小柄な少女だった。彼女もまた、獣人のようだ。
「あちゃー。獣王様、こりゃまたずいぶんと派手にやっちゃいましたねぇ」
「……ふん。いつものように頼む」
「はいはい、ちゃーんと治しちゃいますよぉ。でもノビルも疲れますからほどほどにお願いしますね」
──〈 魔術発動:Magina Rank S 【 大回復 】 〉──
エジルとパーリーの全身が光に包まれ、手足の折れていた箇所がキラキラと輝き始める。ノビルと呼ばれた少女の魔術で癒されているのだ。
「彼ら程度の体力でしたら、きっと明日の朝には骨も繋がってると思いますよ。お大事に」
だが優しく呼びかける猫耳獣人ノビルの声は、残念ながら失神したエジルたちの耳には届いていないようだった。
治療が行われたことを確認したところで、獅子頭の獣人はマントを拾い上げる。羽織るあいだに、ノビルがすり寄って話しかけてきた。
「それで、獣王様。これからどうします? 予定通り正義を追うんですか?」
「そうだな……やはり未発見のほうだな。なにせアンノウンは未知の味だ。どんな味がするか味見したくなるのが人情ってもんだろう?」
「ノビルは草食だから肉食の気持ちはよくわかんないです。それじゃあ次はオクトケイオスの街に向かうんですね?」
「うむ。ウタルダスといったか。楽しみにしているぞ。多少は噛み応えがあるといいがな」
ペロリ。獅子頭の男は牙の生えた口元を舐める。
その仕草はまさに、血肉に飢えた野生の獣そのものであった。
── 第1部 完 ──