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終末と結末



同日 午後三時二十一分 コミ○会場エントランス前〜更衣室


 私は一度本ホールから出て、西側入り口のすぐ隣に設置してある自動販売機前で音羽と待ち合わせ、合流してからクロークルームを経由して私のバッグを受け取り、二人で更衣室へと向かう。ちなみに、最終日である今日は受付でバッヂを返却しても、友人を連れて更衣室に入ることが大丈夫になっている。最終日だけ特別な理由は不明。そこは私じゃなくてコミ○のスタッフさんに聞いてほしいところ。

「このまま、帰宅?」

「ん? あ〜、今年も終わったら食事会は開きたいって。そういえば時間と集合場所はまだ聞いてなかったなぁ……松浦さんに聞いてみようか? もうすでになにかしら予定を決めているかもしれないし」

「分かった。さっさと、着替える」

 なんだ、この子……。わざわざ聞いてあげるんだよ? あなたが聞いてもいいんですよ? 分かってる? ねぇ、そこのところ分かってる? わざとらしくそっぽを向いておられますが、今から着替えに時間を割かれる私に代わって、右ポケットから携帯を取り出して竹島さんに聞いてもいいんだよ!

 ブツブツと文句を呟きつつ、私は胸ポケットから携帯を取り出してアドレス帳から松浦さんを選択し、メール画面に移行させた。ホントに見計らったようなタイミング。さぁこれから文章を打ち込もう、そう思った瞬間だった。

「私、竹島さんに、聞く。響、着替える」

 こいつぅ〜。あんまり調子に乗ってるとぶん殴っちゃうぞ♪

 呑気に携帯を操作し始めた音羽に向かって「シャーッ!」と威嚇をしながら一緒に更衣室の中に入ると、帰ってくるタイミングが良かったのか更衣室の中には奥で着替えている一人だけしか利用していなかった。

 更衣室の奥にいるその女性はちょうどシャツを脱ぐタイミングだったらしく、肩口から綺麗で白い肌が――、

「早くしろ」

「音羽ぁ、空気って読めないかな?」

「空気は読むもの違う。吸うもの」

 そういう意味じゃ、ないんだけどねぇ……。そんなことも分かっていて答えてくるあたり腹立たしいわ〜。ポーカーフェイスで堂々と言ってくるあたりも腹立たしいわ。なんだか言い負けてる気がする自分も腹立たしいわ……。

 気を取り直して私は服に手をかける。シャツを脱いで下着に手を掛けようとした瞬間、更衣室の外、コミ○会場から物々しいすごい音がしたのはちょうどこの時だった。地震かと思うほどの衝撃だったのにもかかわらず、瞬きをすれば終わるぐらいの揺れ。

「きゃっ……え、なに……?」

「地震にしては、時間、短い?」

 確かに音羽の言う通り、地震にしたら時間が短すぎる。揺れは一秒にも満たない。

 そう思った瞬間、今度は立て続けに二度、三度、轟音と共に私たちを揺れが襲った。さっきの揺れとは違って、衝撃のある少し長めの揺れ。

 更衣室全体が軋んだ音に包まれ、天井からコンクリートの破片がパラパラと落ちてくる。

 地震じゃない。

「――っ、叫び声、する」

 更衣室の外の異常にいち早く気づいたのは、デジカメを丁寧にバッグへと仕舞っていた音羽だった。そしてすぐ、

「焦げ臭い」

 焦げ臭い? ということは、なにかが燃えてるってことだよね? コミ○のイベントで花火を打ち上げるようなこともないし、そもそも会場は火気厳禁だし。

 嫌な予感がした。

 気持ちが悪くなるような、凄く嫌な予感が。

 私の予感を肯定するような、恐ろしい死への呼び鈴が再び揺れと共に小さな更衣室を揺らした。

 本ホールから更衣室までの距離はそこそこある。なので、外がどうなっているのかが分からない。嫌な予感がしているのに、外の様子が分からない。

 私は手早く着替えを済ませて、音羽と一緒に更衣室の外へ出ようとドアノブを回そうとした瞬間、抵抗もなく向こう側から扉が急に開けられたため、扉のすぐそばにいた私のおでこに角がクリティカルヒットしてしまい、私は思わずその場でうずくまってしまった。

 おでこの骨が割れるように痛い……。こんな私の姿を見ても、誰も心配されていない私の心も痛い。

「どうか、した?」

「ば、爆弾が、置いてあって、それが、誰かが爆発して――」

 私の様子を一向に気にするような雰囲気もなく更衣室に飛び込んできたのは、右腕に腕章を付けているコミ○のスタッフのお姉さんだった。焦っているのか、疲れているのか、かなり息が上がっているために言ってることがさっぱり分からない。

「あいたたた……誰も私を心配してくれない事実が悲しい……えっと、大丈夫ですか? とりあえず落ち着いて下さい。えっと、なにかあった、ということですよね?」

 スタッフのお姉さんは息を整えようと無理矢理深呼吸を繰り返すけれど、

「はぁ……はぁ……ふっ、はぁ……皆さん、逃げて下さい!」


 ――ズンッ……――


 スタッフのお姉さんが言い終わるやいなや、これまでにない重い衝撃が私たちを襲った。床がぐらりと揺れて、立っていられないほどのもの。

 この場にいるみんながそれまでにない静けさに包まれたからなのか、十数メートル離れた本ホールからたくさんの人の叫び声が、扉の向こう側からか細く聞こえてしまった。女子と男子がイチャついて、「キャー」なんていう軽さじゃなく、それこそ死が迫っているような、切羽詰まった状況の叫び声。

 ――ドクン、と心臓が高鳴る。

 これは冗談とかではなくて本当に外は切羽詰っているんじゃないの?

 居ても立ってもいられずに、扉を蹴り飛ばすような勢いで更衣室の外に出て、男女の更衣室を分けている分岐点の扉を開けようと思った矢先、私の目に信じられない光景が飛び込んできた。

「なにしてるんですか!」

「んなっ――!」

 殴りかかるように私は分岐点の前の扉に突っ立っている男性の片割れの胸ぐらを掴み、そのまま勢い任せに振り上げた右腕を――男性にぶつけることなく、静かに腕を下ろした。

 あり得ない。なにをしようとしてたのよ、私は。

「すいませんでした」

 私は腕を離して頭を下げる。外の状況が分からなくて混乱していたとはいえ、私のした行動は最低だから。

「ちょっと驚いたけど、君の気持ちは分からないでもないから謝らなくてもいいよ。外の叫び声を聞いたんだろう? で、僕たちが呑気に扉の前に立っていたら、怒るのも当然と言えなくもないし」

 私の行動に対し、さほど気にしたような感じもなく、目の前のジャケット姿の男性はよれてしまった服を整えてから私を見た。

「えっと、まだ更衣室には誰か残ってる? できればこの場にいる全員が集合してから話を始めたいんだけどね」

「あ……私の友人とちょうど着替えていた女の子が一人、それとスタッフのお姉さんがいます」

「スタッフがいるのか……なら、外の状況を少しは知っていることになるのかな。それだと話が前に進みそうな気がするんだけど。どうする? 行動は彼女たちが来て話を聞いてからでいいかな?」

「あぁ、こっちで勝手に行動するよりはマシだろ。俺も外の状況を知りたいしな」

 壁にもたれかかっていた短髪の男性は、苛立たしげに言ってそっぽを向いてしまった。なんで壁にもたれてカッコつけてるんだろうと思ってしまったことは内緒にしておこう。

 私に遅れてすぐに音羽とスタッフのお姉さん、そしてもう一人の女性が一緒に分岐点前の扉へとやって来る。そこでスタッフのお姉さんが言った衝撃の事実に、私は動揺を隠せないまま高鳴る鼓動に言葉も発せられなくなってしまった。

「――なるほど、先ほどの衝撃は爆弾の爆発によるものだったのですか。どうりで地震にしては短いし、衝撃もあると思いました」

「……はい。爆発が起きてから、私も逃げようと思ったんですけど、更衣室を今使っている人は外の様子が分からないと思いまして……伝えに、来ようと思ったんです」

「爆発事故かよ。現実だと思いたくないぐらい洒落にならないな。スタッフは不審者の監視ぐらいはしてるんだろ? どういうことだよ」

「……すいません」

「彼女を責めたってしょうがないだろう。挙動不審な行動を起こしてなければ、不審者だなんて思うはずもない。しかも、これだけ人が多いイベント、集団に混じっていれば行動しやすい気もするがね」

 ジャケットさんの言うことがごもっともだったのか、短髪さんは「はんっ!」と鼻を鳴らしてまたそっぽを向いてしまった。このスタッフさんが悪くないのは誰が見ても明らかなのに、責めるのは確かにお門違いってやつかな。

「そして先ほどの爆発の衝撃で、おそらく地面が歪んでしまい、僕たちはここに閉じ込められてしまった、というわけですね」

「すいません」

「ですから、貴女が悪いわけではありません。こんなことを引き起こした犯人が悪いんですよ。しかし……このままここに居続けても仕方ないでしょう。もしかすると、ここに犯人がやってくる可能性も否定できませんから」

 あぁ、私たちは閉じ込められてたんだ。呑気に扉の前に突っ立っていたわけではないんですね。良かった、ジャケットさんを殴らなくて。

「とりあえずそこの扉をぶっ壊せばいいんだろ? なら、さっさとしようぜ。あとお前ら、口元をハンカチかなにかでふさいどけ。たぶん、地下道はもう煙が充満してる。その証拠にこっちまで漏れてきてるからな」

 そう言って短髪さんが指差した先の扉と壁の隙間から、まだわずかではあるけれど確かに白い煙がこちら側へ流れこんできていた。このままだと、ぼやっとここに留まっている理由もなくなる。

「お前らは後ろに下がっとけ。破片が飛んだら危ないからな――あぁ、その前に」

 ジャケットさん共に助走をつけていた短髪さんは急に走り出すのを止めて、カッコつけるような爽やかな笑顔になったあと、

「自己紹介をしとかないとな。名前も分かんないで今生の別れっつーのはキツイだろ? 俺の名前は冰山(ひやま)だ。で、お前は?」

「僕? 僕は出水孝太郎。普段はしがないサラリーマンをやっているよ」

「そこまで聞いてねーよ。はい、次はあんた」

「ふぇっ? わた、私ですか?」

 急に話を振られて、挙句に自己紹介をしろなんて言われたからなのか、見た目も気弱そうだった、先ほどまで同じ更衣室で着替えていた女性はうろたえてしまい「あわ、あわわ」なんて軽くパニック状態だった。

「じゃあ先に私から自己紹介をしましょう。私は河島由加奈。今日はここでコミ○のスタッフとして来ています」

「私は葉月響。普段は学生をしています。はい」

「如月音羽。同じく、学生」

「私は……えっと、山鹿(やまが)です」

「よし! 各自名前は覚えただろ? ま、ここから抜け出すまでの短い時間の運命共同体ってやつだ。よろしく頼むぜ?」

 冰山さんの言葉にみんな、少しは落ち着きを取り戻したのか(私が一番取り乱してたけど)、それぞれ一様にうなずき合って、一時的な運命共同体を結成する。ここの抜け出すまでの短い時間の、運命共同体。


 ――誰もがきっと、ここから簡単に抜け出せると楽観視していた訳ではないと思う。目の前に迫っている恐怖をこの場にいる誰もが理解していたからこそ、運命共同体なんていう綺麗な言葉にすがっていたかっただけだと。

 うすうす感じ取ってはいた。あそこまでの衝撃があって、スタッフのお姉さんも爆弾が爆発したと言ったのだから、私たちはこうして助かっているだけでもラッキーなことぐらいは理解していた。

 ただ、その理解をも超える出来事が、外で起こっているなんて分からなかっただけ――


「じゃあ、せーので蹴り飛ばすぞ?」

「分かった」

 息を合わせ、冰山さんと出水さんが「せーの」の掛け声と共に助走をつけて一気に分岐点の扉を蹴り飛ばす……けれど、鈍い音が響いただけで扉が壊れそうな雰囲気は感じられなかった。

 それでも諦めず、何度も二人はトライを試みる。

 二人の体力が限界に近づきつつ、さすがにキレた冰山さんが怒りに任せて扉を正面から蹴り飛ばす。

「そろそろ壊れろよ、オラァ!」

 その怒りに扉が反応したのか、今までとは比べ物にならないぐらいの激しい音を立てて、根本から地下道へと扉が吹き飛んだ。

 その瞬間、向こう側に溜まっていた煙が一気に流れこんできて、私たちの視界が奪われていく。目の痛さと一緒に。悲しくないのに涙が出ちゃう。だって、煙だもん。

「響、冗談を言って、燻製になるヒマあれば、さっさと出る」

 視界が開けた目の前には音羽以外の人はいなくて、なんとも切ない気持ちにさせる音羽の顔が目に焼き付く。それにしても燻製って……やけにリアリティありすぎだよね。

 ポケットから取り出したハンカチで口を覆って、目の痛さをこらえながら、十数メートルある地下道を走って抜ける。

「この地下道を抜けたら、帰れる……」その一心で私は走った。何事もなく、本ホールを抜けて外に出られる。

 そう、思っていた。

 そうなってくれると、望んでいた。

「なに……これ……?」

 地下道を抜けた私の目に飛び込んできたのは、業火に塗られた想像もつかない本ホールの姿だった。

 阿鼻叫喚。

 人生で一度も使われるとは思っていなかった風景がそこには広がっていた。

 炎に塗られ、炎に染められて逃げ遅れた人たちが「助けて」と叫んでいる。避けられない火だるまに追われた人間の姿がそこかしこにあり、声にならない声を叫んでは消えていく。天井から降り注いだ石の塊にその身を潰された人もいたるところにいる……想像も絶する風景が、そこには広がっていた。マンガでも見たことがない凄惨(せいさん)で悲惨な風景。

 手遅れ。なにを持ってしても、手遅れの風景。

 私の知っている本ホールの姿はそこにはなく、爆発によって開けられた穴が無数にあり、そこかしこから毒々しい黒煙と白煙が立ち上っていく。この日のために描かれた原稿が燃え、用意された長机とイスが燃え、苦労を重ねて作った衣装が燃えながら空に舞っているのが見える。床と壁のコンクリートが吹き飛び、そこから会場を支えている鋼鉄製の柱が曲がりながらはみ出し、一部はあらぬ方向へと突き刺さっている。

 信じることのできない、変わり果てた姿。

 ものの十分。私たちが更衣室を利用していた十分程度で、私たちが見慣れていた世界はガラリとその姿を変えていた。

 地下道の出入り口前で立ち止まった私たちは、言葉も出さずに立ち尽くす。圧倒的に押し寄せる情報量に脳みその処理が追いつかない。目に止まる全てのことに対して答えを求めていたら、それこそ状況を理解するのに一日はかかる。

 ここにいる誰もが悲鳴を上げたいと思っていたかもしれない。けれど、死が迫っている人間の叫び声に比べれば、この風景を目の前にした人間の叫び声なんてたかが知れてる。

 異様に鼻につくこの匂いは、人が燃えてる匂い? 人が死んでいる匂いなの……? こんなことが、現実に起きていいの? 私の、私たちの眼の前で人が燃えて死んでる、死にかけてる。圧死して内臓が床に飛び散って……。

「なんなんだよ、この状況……」

 沈黙の均衡を破るように呟いたのは冰山さんだった。

 そして、冰山さんの言葉に反応するように、ガサガサとしたノイズ音が壊れた本ホールに響き渡り始める。

『れ、レディース、アンド、ジェントルメン。これ、一度言ってみたかったんだよね……に、逃げ遅れてしまったそこの人たちに、告げ、告げるよ。大体の人の、処分、処分は終わったからね。あぁ、だんだん二時間ドラマみたいになってきた。テンション上がるね、ね。やってみたかった、こんなの、やってみたかった』

 たどたどしい口調でスピーカーから本ホール全体に響く声。炎で回線が乱れているせいなのか、声がこもって聞き取りにくい。しかも、一方的に話しているだけで内容が掴めないのでこちらをなんだかイライラさせる。

『君、君たちの姿は、ここから、ここからね、見えてる。今からね、君たちにはゲームをしてもらおうかなって思ってるよ? 一度、一度しか言わないから、よく聞いていてね。苦情は一切受け付けないよ? ま、まあ、文句を言ったところで、僕のところには声、届かないけど……へへっ』

 ゲーム? 今、スピーカーから発せられた声の主はゲームをすると言ったの? それは、この人は私たちと遊ぶってこと? わけが、わけが分からない。人が目の前で焼かれているのに、潰されて死んでいるこの状況で、遊びをするということ? いや、ちょっと待って……さっき言った大体の人の処分が終わったって、ゲームをするためだけに処分、殺されてしまったということ? というよりも、この状況を作り出したのが今話している声の主。

『ルールは簡単、とっても簡単。子どもでも、わ、分かるから、安心してね。君たちは僕と僕の仕掛けた爆弾をかいくぐり、ひたすら助けが来るまで逃げるだけ。鬼ごっこに近い感じだから簡単だよね、ね? じゃあ、始めようか――』

 犯人と思われる人は一方的に言うだけ言い、ブツリとスピーカーから音がして、それ以降はなにも聞こえなくなる。

 捕まったら死ぬ鬼ごっこ。しかも、鬼の変更はなく、いつ来るかも分からない外からの助けだけを待って逃げる。さらには、どこに仕掛けられているのかも分からない爆弾をかいくぐりながら。人が焼かれながら死んでいるこの、地獄絵図のような空間をひたすら逃げるだけのゲーム。遊び。ただの、遊び。

 道徳的に云々だの倫理に反するなんて言葉が見つからない、私たちという生きている()()を使った死から逃げるゲーム。

 こんなことが……あり得ていいはずがないよ。

 みんな口を閉ざしたまま、山鹿さんは震える肩を河島さんに抱きかかえられながら、冰山さんは苦虫を噛み潰したような顔、出水さんも動揺が隠しきれていない表情で、音羽は……いつもと変わらない表情のままだった。少しは動揺しているだろうけど、それを全く周囲に感じさせない音羽も凄い。

 私は……現実をまだ受け止めきれずに、震える足にムチを打ってなんとか立てている状態。今の状況はあまりにも理解の範ちゅうを超え過ぎているから。

「ゲーム? あいつはこの状況を楽しんでるってことかよ」

「ふざけるな!」と叫びながら冰山さんは近くで燃えていた長机を蹴り飛ばす。

 蹴飛ばされた衝撃で飛んできた火の粉を避けながら、あくまでも冷静を装って出水さんがみんなに提案を出す。 震えた腕を隠しながら、みんなの前では冷静に。

「だが、助かるには彼の遊びに付き合うしかないだろ? 犯人は僕たちの場所が分かっていると言っていたし、スピーカーから声がし出したのも僕たちが地下道を抜けてからだ。このままみすみす殺されるのを待つよりも、逃げたほうが得策だと思うが?」

「逃げると言っても、どこにですか?」

 そう聞いたのは河島さん。

「逃げられる場所なんて、どこにも……」

「犯人はこの会場の北側にある放送室から、今の放送をしたのだろう? あそこ以外にスピーカーを使える場所が無いから。なら、犯人と遭遇してしまいそうな北側へと向かうルートは使えないとして、ダメ元で西側の搬入口まで行ってみましょうか。エントランスのドアが閉じられているのは当然としても、搬入口のシャッターは開いているかもしれない。もしくはこの爆発で壊れていることを祈ろう」

 異論はない。言えるはずもない。とにかく私たちがするべきことは、犯人の死の宣告から逃れることなのだから。こんな地獄絵図のような場所から抜けだして、助けがいる外の世界へと行かなくてはならないのだから。

 みんなが西側の搬入口へと走りだしてから、私もそれに続く。

 進行方向が炎によって遮られ、右へ左へ迂回しつつ、搬入口へと急ぐ。

 うすうすここにいる全員は気づいているはず。山鹿さんは今だに混乱状態が続いているので、山鹿さんは除いて。

 搬入口なんて開いているわけがない、と。

 開いていれば、私たちの目の前にある景色は変わっているはずだし、犯人もわざわざ「助けが来るまで」なんて言い方はしないはず。逃げられないからこそ、犯人はあんなゲームの提案を出したに決まってる。私たちをどこかであざ笑いながら徐々に追い詰めていこうという魂胆が見え見えだ。

「手の平で、転がされている、分かっていても、進むしかない」

「……分かっているからこそ、なおさら腹が立つんだよ」

 犯人の出鼻をくじくために裏をかこうとしてもきっと、現実はドラマや映画みたいに作られていないからね。失敗するに決まってる。やってみなくても、私にもそれぐらいは分かる。やってみなきゃ分からないから試すのは、自分の命が賭けられていない時だけだよ。

 私の目の前にあるこの状況がウソだと言うのなら、耳に入ってくる断末魔に近い叫び声がウソだと言うのなら、奇想天外な策を考えて実行に移しても良い。どこからともなく監督みたいな人が出てきて「実は撮影でした」と最後に言ってくれるのなら、ね。

「なら、逃げ切れば、いい」

「えっ?」

「相手の、思う通り動いて、最後まで、逃げ切ればいい。たぶん、彼が想定している、シナリオは私たちの全滅。追いつめられて、苦しい顔を見せて、絶望しながら死んでいくこと。逆に最悪のシナリオは、私たちが、全員生還すること。なら、最悪のシナリオ、私たちが描かせてみせる。でしょう?」

 うん、自信満々な音羽の言葉を聞いたらなんだかできそうな気がする。いいじゃない、やってやろうじゃない。私たちが犯人に最悪なシナリオ、描かせてあげる。

 この現実を打ち破るような強い意思でね。

「行こう」

「うん」

 私たちは頷き合って走る足に力を込める。たとえこの先に、希望を打ち砕く絶望が待っていたとしても。


「やっぱり、シャッターが閉まってる……」

 みんなで支え合いながら一縷(いちる)の望みを持ちつつ、炎が立ち上る大ホールを走り抜けて搬入口の近くまで来た時、私たちの目の前にあったのは閉ざされた鋼鉄のシャッターだった。

 分かっていたことなのに、絶望を目の前にすると希望は簡単に壊されるよね……。ただやっぱり、この状況も犯人が作り出したシナリオの一部なのかもって考えたら、なおさら生きて帰る気持ちが強くなったかも。

「仕方ねぇ、別の搬入口に急ぐぞ。迷ってるヒマはないぞ?」

 冰山さんの提案に私たちは一様に頷き走りだそうとした瞬間、道を塞ぐように現れた意外な人の意外な言葉に私は一瞬だけ耳を疑ってしまった。

「他の搬入口に向かっても無駄よ、全ての防火シャッターが強制的に閉じられているみたいだから。犯人があらかじめ閉まるように設定していたのか、爆破で誤作動を起こしたのか……それまでは分からないわ」

 近くの大きな柱に背を預けて、片方がひび割れているメガネをかけた女性、松浦さんはため息を吐きながら私たちに向かって言った。

 松浦さんは爆発に巻き込まれてしまったのか、上着とスカートが少しだけ燃えて、中から白い肌が見えている。こんな状況じゃなければ、非常にセクシーでエロティックな服装に見えてしょうがない。

「……ふーん? 色々聞きたいことがあるが、その前にどうして知ってるんだ? 全てのシャッターが閉まってるってよ」

「どうして? 野暮なことを聞くのね。理由はたった一つだけ。ここが最後に閉まったシャッターだからよ」

 ここが最後に閉まったシャッター? ということは、私たちには逃げ出す箇所はなくなってしまった、ってこと? 少なくとも搬入口からは。

「そ、それじゃあ私たちはどうするんですか? このままここに残って犯人に殺されるのを待つなんて……私は嫌ですよ!」

「そりゃ、そうだな」「僕も嫌だね」「怖いですし」「一体、どうするの?」

 山鹿さんが口に出した言葉に共鳴するように、周囲の人たちから一気に不安と否定の言葉が飛び交う。そんなこと、今この場にいる人間なら誰にだって思っていたことなのに、口に出さずにはいられなかったのかもしれない。私だって不安でしょうがないんだから。

「ところで、松浦さんはどうしてここに? 先に逃げ出したんじゃないんですか?」

「もちろん逃げ出せる予定だったわ。途中で転んだりしなければ、ね」

 そう言って松浦さんは左足に付いた痛々しい擦り傷を私たちに見せた。この会場は床がコンクリートだから、なおさら傷が酷く見える。これだと走るどころかまともに歩けすらしないかもしれない。

「さっきの放送、私も聞いていたからね。犯人と貴方達、どちらが先に来るかとヒヤヒヤしたけど……貴方達で良かったわ。本来なら無事にここから抜けだして、良かったなんて言葉を使うのでしょうけど。ともかく、私たちの目の前にあるシャッターが最後に閉められた。それだけは確かね」

 松浦さんの言葉に全員の顔が一気に不安そうなものへと変わる。逃げ出す術を絶たれて、ホントにこのまま全員犯人に……いやいや、弱気になってどうするの、響。こんな状況だからこそ、気持ちを前に持っておかないと。雰囲気に飲まれたらダメ。分かってる、こういう時にこそ私は道化を演じなくては。

「ほらほら、みんな俯いていないで早く逃げ道を探さないと。向こうがゲームだって言っているのなら、相手をゲームオーバーにできるのは私たちなんだよ? 怖いなら、悔しいなら、私たちでご自慢の長い鼻を折ってやろう? ね?」

 これが、私のできること。精一杯笑顔を振りまいてみんなをできる限り弱気にさせない。たとえその結果、

「そんな気楽に言えるような状況じゃないだろ。バカじゃないのか?」

 なんて、言われたとしても。弱気になっているよりも、私をバカにして和やかな空気になってくれればいいと思うから。私がここで嫌われる程度で、この沈んだ空気が変わるのなら私は喜んで嫌われ役になる。喜んで道化を演じる。

 だけど、そんな私の気持ちが粉砕されてしまうような言葉が聞こえたのは、このすぐ後だった。

「……でも、この人は逃げようとしていたんでしょう?」

 か細いけれど、全員にはっきりと聞こえた言葉。抱いていた不安を煽るのには、とても簡単で重い言葉。

バカでも理解できる。彼女が言ったのは松浦さんが逃げられたという事実があった、ということ。私たちとは違って逃げられる状況にあったこと。通路に閉じ込められていたわけでもなく、単純に自分のミスで逃げるのが遅れた、結果逃げられなかっただけ。

「転んでなければ、見殺しにされてたってわけか?」

 先ほどの人とは違う男の人の声が、さらに先ほどの言葉を後押しさせる。溜まっていた気持ちを吐露するように、彼は残酷な言葉を松浦さんへと放った。

「もしかするとあんたは、シャッターの向こう側から俺たちを見ていたかもしれないんだろ? 自分一人だけ助かってさ、俺たちのことなんて知らずに、そのままのうのうと確実に生きていける道を選択できていたってことだよな? で、あの時は悲しかったね、なんて言うんだろうなぁ。取り残された人間の気持ちも知らずに」

「…………っ」

 松浦さんの顔が悲しさと悔しさを入り交えたような表情になる。彼の言葉を、否定できないから。

 でもそれは違う! 松浦さんだってこの不幸な事故に巻き込まれた一人だったんだよ? 私たちを残して自分だけ助かりたかった、助かれば良かったなんて思っている訳ない。それに、こんな混乱の中、一人でも多く生き残っていたほうが良いに決まってるじゃない! むしろ助かっていてほしかったよ……。

 私の言葉はきっと、少しざわめき出したこの人たちに届くことはない。みんな口には出さないけれど一様に同じ気持ちだから。裏切り者だという、気持ちだから。

「だいたい、ここに来たのが俺たちで良かった? 随分上から目線だな。あんたの年齢なんて分かんねぇけどよ、このメンツの中では比較的お姉さんだから、裏切り者でもリーダーシップだけは失いたくないってか? 俺たちがどんな気持ちでここまで辿り着いたのか分かってんのかよ」

「ヤメて! 松浦さんだって被害者なの。それに――」

「うるせぇ!」

 バシンッ――と乾いた重い音が周囲へ広がる。

 私が自分は叩かれたのだと気づくのは、口の中が血の味に染まってからだった。ヒリヒリと痛む右頬に手を当てて、呆然となってしまった私の目に涙が溜まる。頬が痛いわけじゃない。松浦さんの立場を少しでも理解してくれない、理解させてあげられない私自身が悔しかったから。

 冰山さんの怒りの矛先はすでに私へと向けられていた。怒りを煽ってしまうような先ほどの発言も、原因の一端だったと思う。

「松浦さんだぁ? お前はこいつと知り合いってわけか。なるほどな、そりゃあ知人なら庇うのもうなずけるわ。それとな、さっきからお前ウザいんだよ。ヘラヘラ笑っていられるほど、状況はよくないんだよ!」

「知り合いだからとか、そんなの関係なくて……」

 私のか細い声の弁明も虚しく、冰山さんの言葉はどんどんエスカレートしていく。

「こいつが逃げられたのは紛れも無い事実だろうが! 俺たちは取り残されて、クズみたいな犯人のゲームに強制参加させられているんだぞ? それにな、私たちが犯人をゲームオーバーにできるだぁ? お前もこの状況をゲームだと思ってんのかよ。一方的に命を狩り取られる側の俺たちの立場が、お前はゲームだと思えんのかよ!」

「――れ」

「なぁ、お前らもそう思うだろ?」

「お前、黙れ」

 溢れ出す彼の罵倒を止めたのは意外にも音羽の言葉だった。トーンの低い、本当に怒った時にしか出さない口調。正面から彼を睨みつけ、瞬きもせずに、顔も動かさずに彼を真っ直ぐに鋭い眼光を飛ばす。怒りに満ちていた冰山さんの視線を物ともせず、さらにそれの上をいくほどの怒りを込めて。

 彼はまさか小柄な音羽からそんなことを言われると思っていなかったせいか、驚いた顔になってかなり反応に困ってる。

「あん? なんだ? お前も向こうの肩を持つつも――」

 冰山さんの言葉を潰して、音羽が言葉を紡ぐ。

「そう思う? 勝手なこと、言うな。誰もがこの状況、理解してるなら、周りを煽るような言葉、ヤメろ。大声を出されたら、声の大きいあんたに分、ある。大きい分、周りを煽る力にも、なってしまう。この状況、一人でも多く、助かるのが理想。人間、集団で行動している時、パニックになるのが一番危険。不安を口にして、感化されて周囲も不安になる。争うことより、抜けだして生きて帰る、みんなで。それが、一番大切。それに、最初、ゲームに便乗しよう、そう言ったのは出水さん。みんなそれに、反対してない。私たちはコマ。ゲームのコマ。GMに反逆できるのも、コマ。悔しいと思うなら、生きて帰る、それだけ」

「うん、音羽の言う通りだよ。こんな状況だからこそ、みんなで生きて帰らなくちゃ。私だって不安だし、 ここで一人取り残された松浦さんだってずっと不安だったんだよ? 私たちよりも先に犯人と出くわしたらと思うとゾッとするでしょ? ここに一人生存者がいた。それだけでも良いことじゃない」

 私は音羽に便乗するような形で、身体を起こしてからみんなに話しかける。空気が変わった今だからこそ、少しでもいい方向へ向かわせないと。

 先ほど怒った冰山さんも、音羽の睨みと周囲の気持ちを読んだのかバツの悪い顔をしたあと、小さな声で「すまん」と謝った。その言葉に音羽は「謝るの、私じゃない」と反論しそうになっていたのを私が止めて、とりあえずみんなが冷静さを取り戻すのを待つ。

「うん、もうみんな落ち着いたかな? まずは逃げる先を決めて、場所を確保しないことにはどうしようもない、よね?」

「それなら私に案があるわ。そこの搬入口のシャッターの隣に管理者以外立ち入り禁止と書かれた扉があるでしょう? その先の階段を上れば北側に抜けられる通路があるわ。ここに留まっているより遥かに安全な場所じゃないかしら」

「通路?」

「そう。ここからは少し見にくいけれど鉄の扉があるわ。その扉の奥には天井の通路に続く階段が伸びているのよ。おそらく、換気扇の管理や掃除をする時に使っているものでしょうね。その通路は南側から北側へと抜けられたはず。会場内だし、こんな犯行をしてきた犯人が知らないとは思えない……一か八かね。確か放送で犯人は貴方達が見えていると言っていたし、こちら側に来ていることも知っているはず。しかもここは出入り口。爆弾が設置されていても不思議じゃないわ」

 確かに松浦さんの指差す天井スレスレには、鉄網で出来た通路が北の方へと伸びている。構造を考えるなら、行った先もこっちと同じように搬入口の前に繋がっているのかな。

 天井の通路は見た感じは一本道。その途中に爆弾でも仕掛けられていたら私たちはそこで終わり。気づかれて犯人が行動を起こすよりも先に、私たちが向こう側へと着かなければならない、まさに一か八か。

 私たちに用意された選択肢は三つ。

 一つは松浦さんの言った天井に設置してある通路を使って、この南側から北側へと抜けるルート。

 もう一つは、あり得ないけどこの場に残ること。

 最後はダメ元で本ホールを縦横無尽に突っ切って、犯人の目を撹乱すること。地雷原の上を走りながら、運が良ければ助けが来るまで逃げることができる現実味もない考え。

「選択肢なんて必要ないぐらい、意味のない選択項目だわな。それにな、逃げられる可能性があるとしたら最初の項目以外ないだろ。そいつの言う通り天井に通路があることはある。そんで、犯人があの通路を知らないなんてこともない。だが、関係者以外立ち入り禁止の場所に人が入れば相当目立つだろ? イベントやってる最中に機械の点検なんて今まで一度もない。なら、上の通路に爆弾が仕掛けられている可能性はないってことだ」

 確かに冰山さんの言う通りだよね。選択肢なんて逃げ道を作っているだけ、虚しい行動なんだから。

 全員が意を決して扉へと近づき、冰山さんが先導で扉を開けて階段を駆けていく。近くに来ているかもしれない犯人にはできるだけ気づかれないよう、足音を可能な限り細心の注意で消しながら。

 私も音羽の後に続こうと思ったのだけど、壁際に寄りかかったままの松浦さんが目に入り、動こうとしない松浦さんに声を掛けた。

「松浦さんは行かないんですか?」

「私は動けないからこのままでいいのよ。葉月さん、ほら、早く行きなさい。みんなについていかないと心配されるわよ?」

「でも、松浦さんは……」

「バカね。こんな足で貴方達の後ろを付いて行ったところで、置いて行かれるのは明白だし、それに、足を引っ張って邪魔になるだけじゃない。だから、私はいいからさっさと行きなさい。生きて、帰りなさい」

「それだと松浦さんを――」

 見捨てる、ことになる……。そんなこと、できるはずない!

 じゃあ、どうするの? 私もここに残って、犯人が来るよりも先に助かることを祈るの?

 それがいい。それがきっと最善だよ。少ない可能性でも助かれば万々歳で私も嬉しいし、きっと松浦さんも嬉しいはず。それに、私たちが来るまでここに一人っきり。寂しかったはずなんだから。


 ――分かってる。松浦さんがそんなことを望んでいなかったことぐらいは。一年経った今だからこそ、日記でこんな形で思い出しているからこそ客観視できるのであって、当日の私にそこまで頭は働くはずもなかった。純粋に、単純に、一緒に逃げ出したかったから。

 端から見て、このまま私たちが助かれば美しい友情劇とも言えた。イベントでしか会わない間柄と言っても、少なからずお互いに友だちの感覚は芽生えていたのだから。それこそ、助かればの話だけど。私の一途な願いが叶い、誰一人として犠牲者も出さず、かつ、途中で出会った一人の生存者と共に助かる。それが実話だったなら、ハッピーエンドのシナリオに間違いはない。実話なら、ね。

 その場しのぎの願いなんてものは、叶うはずもないのだから――


 松浦さんにそのことを提案しようとした瞬間、爆音と共に私と松浦さんがいるすぐそばの床が空高く吹き飛んだ。明らかに私たちをあえて避けた、そんな位置での爆発に松浦さんが私を向いて叫ぶ。

「――っ! 早く行きなさい!」

 私は無理矢理背中を押され、フラフラとした足取りで階段へと向かう。

「振り返ってはダメよ、葉月さん……」

 自然と足は走り出していた。後ろを振り返らずに、ただみんなの待つ階段へと向かって。

 犯人は私たちがいる場所に気づいていた。だからあれは警告だ。場所が分かっているから、次はお前らのいる場所を爆発させるぞ。という犯人からの警告。そしてなによりも、仕掛けられた爆弾の数と爆発によって会場の壁を破壊しないギリギリの位置まで計算されている威力が恐ろしかった。

 グチャグチャになっているようで冷静な思考回路で私は考える。

 さっきの爆発は確かに私たちを避けた位置で爆発した。まるで私たちを追い立てるように、そして、私たちには爆音、爆風だけで爆発自体には巻き込まれないように。計算され尽くされている? 私たちが上の通路を使うことすら想定通りなら、次に犯人はなにを仕掛けてくる? 逃げ場のない、地上二〇メートルの通路で、犯人はどんなことを仕掛けてくる可能性が高いの?

 最悪の結果が頭をよぎる。

 早く伝えないと。進路も退路も塞がれる前に、みんなに伝えないと。これは犯人の罠だ。私たちは下手したら、一番選択してはいけなかったルートを選択していることになる。犯人にまんまとしてやられてる。

 私は息を切らしながら階段を駆け上がって、上で待っていたみんなのところへと急ぐ。幸い、すぐに下りれば間に合うかもしれない位置にいるんだから。

「みんな待っ――」

 言い終わる前だった。

 あざ笑うようなタイミングで私の後方から爆発音が聞こえ、熱せられた一迅の爆風が私を追い越していく。 熱風で髪の毛先がチリリと燃えて、私の周囲に独特な臭いを発する。

 どの位置で爆発したのかは分からない。けれど、ハッキリと分かることは、私がさっきまで上ってきていた階段は途中からグニャグニャに曲がり、退路を完全に絶たれてしまったということ。それと、鋼鉄製の階段をここまで曲げる爆弾の威力があったということは、その近くにいた松浦さんも確実に巻き込まれてしまった……という、ことになる……。そう、巻き込まれてしまったんだ。

「そん、な……」

 こんなことって、あんまりだよ。これがゲームって、ひどすぎるよ……。

「響! 早く立つ。ここ、危険」

「……ぁ。おとはぁ……松浦さんが、松浦さんがぁ……」

「なら、生きて帰る。それだけ」

 いつものポーカーフェイスとは違って、必死の形相になっている音羽に腕を引かれながら私は立ち上がり走りだす。

 何度も、何度も何度も、心の中で悔み、後ろを振り返りながら。

 もう二度と、会うことのできない人の顔を浮かべながら。

 ごめんなさい。ごめんなさい、松浦さん……。無理矢理でも連れていけば良かったのに、助けることができなくて、本当にごめんなさい。恨んで下さい、私を。その手を引けなかった私を、恨んで下さい……。

「響? なにか、言うことがあった?」

「…………」

 私は、みんなになにを伝えようと思っていたんだっけ?

「大丈夫? 私が後ろにつくから、貴女は前に行って?」

 河島さんが私の両肩に手を置き、優しく撫でてくれた。

 温かくて、お母さんみたいな香り。

 ケガもしていないのに、みんなの足を引っ張っているのは私じゃない……しっかりしないといけないと。足を、前に出さないと。伝えることも、思い出さないと。

 私は河島さんに支えられながら通路を走りだす。よろけるたびに、後ろから河島さんが柔らかい声で「無理はしないでね?」と言ってくれる。この通路を抜ければきっと、道は拓けるはずだからと……。

 通路? 進路、退路……?

 そうだった。私がみんなに伝えないといけないことは――。


『残念。じ、時間切れです』


 ノイズ混じりの声がどこからか聞こえて、その声が聞こえなくなったと思いきや、一際大きい爆発音が通路の下、本ホールからしてきて、私たちが通っている通路が波打つようにぐらりと揺れた。

 立っていられないほどの衝撃が私たちを襲い、今までとは比にならないほどの縦揺れが通路全体に広がっていく。

 ギシリと、鈍い音が響く。音は徐々に大きくなり、私を一層混乱させる。

「いけない! 走って!」

 河島さんに押されて慌てて駆け出す。

 私たちは気づくのが遅すぎた。この通路を支えている鉄柱に爆弾が仕掛けられていて、たった今、その爆弾は犯人によって爆発されたのだと。

 支えを失った通路はバランスを崩しながら、退路をもの凄い勢いで壊していく。

 考えているヒマはない。この通路が壊れきる前に、安全な場所まで走らなくちゃ。通路と一緒に下に落ちたら、ひとたまりもない。

 無我夢中で走る。歪んでいく足場に足をとられても、必死に、ただ必死に。


『もう、いっちょ』


 再び起きた爆発音に遅れて、なにかが割れるような、固いものが割れるような音がする。

 最悪だった。

 通路はそのまま曲がることなく、私の後ろで鈍い音を立てて折れてしまったのだから。

「きゃっ――!」

「お姉さん!」

 自分でも驚くような機敏さで、本能が命ずるままに私は後ろを振り返って手を伸ばした。私の貧弱な力でも、火事場のバカ力はきっとあるのを信じて。

 全てはスローモーションに変わる。

 世界はコマ送りで再生され、私も、落ちていくスタッフのお姉さんも、一コマ一コマで流れていく。目一杯伸ばされようとする腕すら、もどかしいほどゆっくりと再生される。一時停止を繰り返す世界の中で、私はひたすら祈る。

 ――届いて。

 あと少し。あと数センチ。数ミリでいい。腕を伸ばさないと。私の手で、この人を助けないといけないのよ!

「届いた――」

 触れた。

 生々しく、彼女の指先に触れてしまった。

 コマ送りの世界から普通の世界に戻ってくるのも一瞬だった。助けられないと理解した時にはすでに、世界は普通のスピードで回っていた。

 指先の感触が残されたまま、彼女は崩れ落ちていく鉄骨と共に、その身体を二〇メートル下のコンクリートへと――

「見るな!」

「――っ!」

 身体が後ろに引かれるのと、私の視線が上がったのはほとんど同時だった。

 私の身体を引いてくれたのは冰山さんで、顔を見ると顔面蒼白。それは私を見たのではなくて、私の先から見える床に落ちてしまった人が見えてしまったからだと思う。私を助けに来たということは、あれが目に入る可能性も高くなってしまうから……。

「大丈夫か? 先に進むぞ?」

「うん……大丈夫」

 フラつく足を何とか踏ん張り、手すりに体重を少し預けながらみんなの後ろをノロノロと付いて行く。なにもしていないのに、目の前がちょっとだけ霞む。下り階段はもう少しだというのに、足が思うように前に進んでくれない。

 この時は気づいていなかったけれど、手すりを持っていた私の手は軽く火傷を負っていた。たぶん、全体が鉄だったから熱が伝わってきていたのだろうけど。

 助けられなかった。結局私は、私のこの貧弱な腕は、助けられるほどの力がなかった。救いたいというのは、言葉だけの上っ面。救う力もないのに、救いたい、助けたいなどと言っていただけに過ぎない。

 身体はほとんどケガをしていないのに、ダルさや重さがハンパない。帰ったら、ゆっくり休みたいよ……。

「――、――?」

「えっ?」

 後ろから声を掛けられて、思わず私は立ち止まって振り返った。

 声を掛けられた? 後ろから?

「…………」

 振り返っても、誰も居るわけがない。そんなの当たり前だ。私の後ろにあった通路はさっきの爆発で壊れたんだから。私がみんなの最後方にいて、私の後ろには誰も居るわけがない。

「――――」

 違う! 聞こえない。なにも私は聞こえない。私の後ろには誰もいない。

 世界が、グニャリと曲がる。

 黒じゃない。色んな色が混ざり合った、汚い色に変わってる。赤も青も緑も、水色も紫も黄色も黒も……一言で表現しきれない混ざり合った風景が、私の目の前をグルグルと回って気分が悪くなる。

「――ひっ! あっ……あぁ…………」

 分かってる。幽霊じゃない。彼女はそこにはいない! それなのに、なにもないはずの空間に焼き付いている彼女の顔はなに? こびりついて離れない。目を閉じても、次々と浮かんでくるこれはなんなの! ヤメて……そんな顔で、私を見ないで! あなたを助けられなかった私が悪いんじゃない。こんなことになってしまった状況が悪いのよ! 帰りたいと思ったから? 私がそんなことを思ってしまったからなの? 思ってもいいじゃない! こんな状況なんだから、少しは気持ちを楽にさせてよ! 松浦さんだって、あなただって、救いたかったのは本当のことなの。でも、力がなかっただけ。それを私のせいにしないで! 私をこれ以上責めないでよ! 大体、そうだとしたら、あのことを私のせいにするあなただって悪いわ! さっさと逃げていればこんなことになっていなかった。この場に一人でも欠けていれば、もしかしたら起きていなかったことかもしれないじゃない。それをなに? 私のせいにするの? おかしいよ、そんなのおかしいよ……。

 寒気がする。あの人に見られて自分が総毛立っているのが手に取るように分かる。こんなこと、今までに一度としてなかったのに。

 身体の震えが止まらない。チラつく。目の前に顔が、絶望に染っている河島さんの顔がこびりついて離れない。ぐちゃぐちゃで、人の体を成していないのに、私の周りをフラフラと歩いている。手を伸ばして、私の腕をがっちりと掴んでこようとしてる。引きこもうとしてる。そんなはずないのに。そんなはずないって、分かっているのに!

「……うっ」

 胃液が逆流してくる感覚に襲われ、私はそのまま吐いた。

 気分がひたすらどん底に落ちていく。

 私は今、どんな格好をして床に倒れているのかな? 顔は確かに床についているのに、その感触がまったく伝わってこない。

「う、ぁ……はぁ…………」

 身体の中の物が、一つ残らず出て行ってしまったみたい……。

「――き? ひ――き?」

 手に柔らかな感触が伝わって、聞きなれた声が私の脳に響く。

「――響」

「はぁ、はぁ……っ、ふぁ……ぁ」

 顔を上げると、近くには安心できる友人がいた。あの焼け付いた顔はもう見えない。声も、聞こえなくなっていた。

「大丈夫?」

「……大丈夫、だよ」

 無理して笑い、私は立ち上がる。

 後ろを振り向いても、やはり誰もいなかった。

「無理、よくない。深呼吸」

 音羽に言われて私は素直に一度大きく深呼吸をして精神をできるだけ正常に戻す。可能な限り、どん底まで落ちた気分を盛り上げる。深呼吸をしたら頭はガンガンと痛めつけるような音が鳴っていたけれど、先ほどの気分に比べればだいぶマシになった。

「…………よし、行こう」

 音羽と一緒に走り出し、最後の曲がり角を折れて一階へと続く階段を駆け下りる。下にはすでにみんな待っていて、私たちが到着してから出水さんが口を開いた。

「大丈夫かい? ゴメンね、先に進むことしか考えていなかったみたいだ」

「気にしないでください。私の方こそ足を引っ張ってしまって」

「気にするな。あんたの体調を考えられなかった俺たちも悪い。目の前で見てないとはいっても、男とは精神の作りが違うもんな。ショックを倍以上受けることぐらい予想していなかったのが悪いのさ」

 冰山さんから体調を気遣う言葉が出てくるなんてちょっと驚き。

「オホン。先に進めてもいいかな?」

「あ、どうぞ」

「あの人が言ったことが本当なら、ここからスタッフが利用してる通用口が西に向かえばあるはずだ。で、差し当ってのルートは二つ。このまま舞台上を抜けるルートと、演出なんかで扱う地下からのルート。僕の感想だが、どちらもハッキリ言って厳しいと思う」

 おそらく出水さんが言いたい危険性は、さっきの鉄柱に仕掛けられていた爆弾があったという犯人の用意周到さからみて、逃げ場がない地下も、天井に照明が設置されている舞台上、どちらにも爆弾が設置されていると思ったほうがいいということだと思う。

 業火で焚かれた煙が、私たちの視界を徐々に遮っているからこそ、どこにでも犯人は身を隠せる。排煙装置が起動しているだけ、私たちは一酸化中毒にならずに済んでいるのは不幸中の幸いだったのかも。

「どちらのルートを通るにせよ、周囲へは最新の注意を――」

 出水さんがそこまで言いかけた時だった。

 薄暗い地下へと降りるドアがゆっくりと開かれ、顔をススだらけにした長身の男性が私たちを捉えた。男性にしては長めで手入れもされていないボサボサの髪、ろくに睡眠も取っていないことが分かる目の下のくま、こけた頬。顔のパーツ一つとっても、普通の人とはどこかが違う。そしてなによりも目の前にいる男性で異質なのは、着ている服が下ろしたてのように綺麗なスーツ姿だったこと。この雰囲気に似つかわしくない喪服のような黒いスーツ姿。

「よぉーやく、お出ましかあ? ず、随分待たせたな、へ、へへっ」

 当然のように、犯人は私たちの前へと現れた。

 当然のように? 違う。私たちの前に現れるのは当然じゃない。だって、冷静になって考えれば考えるほど不自然でしょう? 私たちが通ってきた通路。その途中で通路を支えている鉄骨が爆発された。私たちが通っているのを確認してから爆弾を仕掛けたとは考えにくいから、あれは最初から設置されていたことになる。あとはどこからか私たちを見ていて、タイミングを計って仕掛けた爆弾を爆発させるだけのこと。

 当然だと思える要素はもう一つある。通路の鉄骨が爆発される直前、確かに私はノイズ混じりの声を聞いていた。放送室があるのは本ホールの北側なのだから、私たちはわざわざ犯人がいる場所へと自らの足で来てしまった。

 最初から全ては手の平の上。

 私たちが西側の搬入口へ逃げるのも。そこから上の通路を通って、こちら側へ逃げてくるのも。全て犯人は分かっていた。バカみたいに必死になって、残されたルートはここしかないと頼ってきた私たちを、犯人は笑いながら待っていた。

 つまり、犯人は最初から放送室から動いていなかった? 地下道から私たちが出てきて、ここまで至る道筋を私たちは犯人にコントロールされるような形で、想定していたこの最悪の結末を迎えた……ということ? 必死になってあんなものを目の前にしながら、私たちは弄ばれるように、犯人が思い描くルートでやってきた。

 滑稽過ぎる。

 ()()()なんてものじゃない。これじゃあ、ただの傀儡じゃない……。いいように操られていた、ただの傀儡だよ……。

「さぁて、誰から、やろうかなぁ……」

 迫ってくる絶望感に襲われて、なにもかも諦めないといけない、と思った矢先、

「お前ら、逃げろ!」

 叫ぶやいなや、冰山さんは折れ曲がった鉄骨を無理矢理引き千切り、犯人と対峙する。飛び込まずに犯人と一定の距離を保ちながら、持っている鉄の棒で相手を牽制しつつ自分を犠牲にして、みんなが逃げる時間を稼ごうとしている。

 冰山さんの声に反応して私と音羽、出水さんと山鹿さんのペアがバラけて声も出さずに駆け出したのはほとんど同時だった。

 せっかく訪れたチャンス。冰山さんがその身を上げて作り出した逃げるチャンスを、無駄にしてはいけない。

 なのに……、

 こっちの道は違う。

 頭の中では分かっていても、逃げろと判断された私の身体は、あろうことか来た道を戻るルートを選んでいた。全力で、後ろも振り返らず、飛び散ったコンクリートの欠片に足首をもっていかれ倒れこむまでは。

「いつつ……あれ? これ以上行けない?」

 正確には、燃え盛る炎に進行を妨げられた、のだけど。どう表現しても、行けないことには変わらないか。

 うーん、どうしよう。一か八か、炎の中に飛び込んでみるとか? 運が良ければ抜けられないこともない、はず。全身やけどの代償を負う気がしないでもないけど。いやいや、その前に自分の服装を考えないと。こんな時に限ってホットパンツを穿いてるんだよ? 熱いなんてものじゃないよ。

 などと、我ながらアホなことを考えていたら、急に後ろから声を掛けられて心臓が裏返しに出てくるほど驚いてしまった。出てくると言ったら、すでに口から出ちゃったみたい。まだ出てないのに。

「響」

「ひゃうっ! お、音羽……びっくりさせないでよ、もう」

 頬を膨らませて怒る私とは対照的に、音羽の顔はいつになく真剣なものだった。この状況がいつにもない状況というツッコミはさておき。

「驚いている暇、ない。最悪、犯人がこっちに」

「……は?」

 音羽の言葉に私は耳を疑った。

 じょ、冗談でしょ。それってつまり、そういうことなんだよね? 普段からあまりふざけたことを言わない音羽の言葉に込められた意味は、そういうことなんだよね? 犯人がこっちに向かっているということは、私たちは絶体絶命の状況に立たされてる……?

 ポジティブに考えれば、私たちとは逆方向に逃げたあの二人はほぼ確実に助かったと言っていい、のかな。

 私たちの命を引き換えにして、彼女たちが助かったと思えば気持ちが少しだけ楽になれるよね。

「響、余計なことは、考えない。犯人、振り切って私たちも生きる。それだけ」

 そんなことを言われても、自分の置かれている現状で、犯人を振り切るなんて無理じゃないかな。それよりも私たちが犠牲になって向こうのペアが生き残ってくれたほうがいいでしょ。私たちよりも生存確率が高――。

 ――パシンッ、と乾いた音が響き、私は叩かれた左頬をさすりながら音羽を見つめる。

「……痛い」

「割りと、本気。ごめん」

 そこで素直に謝られても、なんだか困るよ。まあ、元々はネガティブに考えてしまっていた私が悪いからいいですけどね。

「今のは私が悪かった。こちらこそゴメン」

「許す」

 音羽の言い方がすっげームカつく。

「よーし……!」

 私は自分の頬を思い切り叩きつけ、何度目と数えたくもない気合を再度入れ直す。

 心を修復しろ。元に戻せ。私は葉月響。自称コスプレマイスター、葉月響。ここで自称なんて必要ないけど気合いを入れるには必須のこと。できる。私はできる子。なにができると聞かれても返答に困るので詳しく聞かないで。とにもかくにも、私はできる子。

 私たちは燃え盛る業火の中の隙間を縫って、壁伝いに非常口を探して走りだす。

 心細い光でもいい、頼りない光でもいい、希望があるなら立ち止まるよりも進んでいった方がいい。泣くのはあとにする。後悔するのはあとにする。自分自身の身を守って、生きて帰ってからたくさん泣こう。たくさん後悔しよう。私は助けられて、助かっているんだから。約束は守らないといけないよね。

 さぁ、前に進まないと。

「ストップ」

「ぅぐえ……いきなり襟を掴むとか何事!?」

 せっかく気合い入れ直したのに、窒息死とか勘弁して欲しいのですが。友人の手で最期を迎えるとか……いやだわぁ。

「そこ」

 と言って音羽が指差した先には、この会場に唯一あるトイレの入り口が見えた。中の状態がどうなっているかは分からないけど、入り口はまだ炎に包まれていない。現状を考えて近場で炎からも避難できる場所はそこしか残されていなかった。

 痛む首筋を撫でながら飛び散る火の粉を避けつつ、私たちは女子トイレへと滑りこむように逃げ込む。

「けど、犯人に追われて逃げ出す先がトイレっていうのも、なんだかね」

「しょうがない、できること、する」

 そう言った音羽はトイレの奥へと行き、端に設置してある掃除箱から二つの短いホウキを取り出して、片方を私へと投げ渡した。ちょっと異臭のしてしまう、手に取るには躊躇ってしまう掃除用具だけど、文句は言っていられない。

「幸い、ここのトイレ、基本が閉まっているタイプ、タイミング次第では逃げられる。迷っている暇、悩んでいる暇ない」

 そう、私たちに選択の余地はない。場所の格好なんてこのさいどうでもいいから。

 私は音羽から受け取ったホウキを軽く振って、緊張をほぐしておく。完全に無くなるわけじゃないけど、慣らす意味でも身体を動かすのは悪くないと思う。ホウキを振り回して武器に見立てるって、小学生の頃クラスの男子がよくしてたっけ。

 私たちがトイレの小部屋に駆け込み、息を殺した瞬間、鈍い足音を立てながら女子トイレに誰かが入ってくる気配がする。

「ふふっ、ふっ、こうやって、女子トイレにはい、入る機会がくるなんて、思っていなかったな……さ、どれにいるのかな?」

 気味の悪い笑い声と共に、スピーカーからも、逃げる直前にも聞いた、低い男性の声がトイレの中に反響する。

 ここのトイレの数は四つ。犯人が単純に入り口側から調べれば三つ目のドアを開けた瞬間、私たちのいるドアを開けることになる。私たちに許された機会は、相手が扉に手を掛けた、もしくはドアの前に立った一瞬だけ。

 ホウキを持つ手に自然と力が込められる。

 分かっているのに、頭が冷静にならない……。

「(せーの、で飛び出す?)」

「(分かった。向こうが扉に手をかけた瞬間だね?)」

 私と音羽は一瞬だけ目配せをして、一切の音を出さないように細心の注意を払う。

 相手に気取られてはダメ。私たちが何かをしようとして知られてはダメ。身動きをしないで、全神経を集中させろ、響! 試験勉強の時に、お母さんに見られながら机に向かっていた勉強の時よりも集中させろ。

 全身全霊を、両手に集中させろ。

「…………」

 ――ドクン……ドクン――

 心臓の音が、やけに大きく感じる。私の身体から漏れて、周囲に聞こえてるんじゃないかな、と思えるほど大きい音。この音でバレていないかどうか心配になる。

 緊張、とは少しだけ違うんだよね。空気が張り詰めてる感じは似ているのかもしれないけど、この感覚は緊張じゃない。自分の手足が自分でもハッキリと分かるように震えてるのは、本当に恐怖という実体のないものが目の前まで押し寄せてきているからかも。ぶっつけ本番で、失敗しても謝れば許されるようなお遊戯会とは違って、これからやろうとしていることの失敗の代償は、二度と返ってこない自分の命。笑って「こんな失敗もあったね、えへへ」なんて言えなくなる。

 私が、いなくなるのだから。

 心音は正常?

 脈拍は正常?

 血圧は正常?

 呼吸は正常?

 自分で理解しているのに、身体はちっとも言うことを聞いてくれない。

 手が震えて、足が震えて、心が震えてる。

 そ、そそそ素数を数えよう。こういうときは素数を数えろって誰かが言っていた。多分、アニメとかで。えっと、最初は……一・一で、次が一・二、で一・三……あ、これは少数か。えっと、四、六、八、九……こっちは合成数だっけ? じゃあ、逆だ。

 ――カチャリ……。

「――!」

 隣のドアが開けられる音で、私は我に返る。

 こんな状況でもボケたことを考えていたのだと、自分のことながら恥ずかしい思考回路をしてるなぁ。

 最後に音羽と目を合わせ、お互いになにも言わず頷き合う。

 私たちの間にカウントダウンは必要ない。目配せをして、互いの意思が疎通し合えばそれが合図になる。

 ドアの前に感じる確かな人の気配。

(――今だっ!)

 二人同時にドアの勢いよく引いて、私は向かって右側に向かって、音羽は向かって左側に向かって手に持ったホウキの突き出しながら飛び出した。

 千分の一でも、万分の一の確率でも良い。犯人を怯ませることができる、ほんの少しの確率があるのなら、私たちに逃げ出す可能性が生まれるはずだから。


 けれど、そんな確率も霧のように霧散する。

「は?」

「ん?」

 一瞬だった。

 簡単に、端的に、的確に状況を表現するなら、勢いよく扉を壊して飛び出した私たちの眼の前に犯人はいなかった。

 いや……いたことはいた。

 ただその姿は私たちの目の前ではなく、音羽の視界にしか映っていなかった、という意味。

 バレていた。

 私たちの、バカみたいに幼稚な考えは、なにも考えていなさそうだった犯人にバレてた。それが計算だったのか、偶然だったのかは分からない。けれど、私たちが飛び出した瞬間には、少なくとも音羽にはすでに、犯人が攻撃のモーションに移っていたのが分かっていたのかもしれない。

 全ては私の憶測。

 全ては私の予想。

 だって……私が音羽の方に顔を向けたときには、犯人の腕は迷いなく振り切られていたんだから。

 犯人の持っていたナイフの軌道は、一閃され、音羽の首を撫でるように切り裂いた。最初から障害物なんてなかったかのように止まることもなく、躊躇いもせずに、音羽の喉を真横に切り裂いた。

「っ、あがっ……? あ、あうぁ…………」

 音羽の口から出る言葉は、まともな発音をせずさらさらと空中へ霧散していく。

 私の口から出た言葉も、私自身、なぜそんな文字列が出てきたのかすら不思議に思える言葉。

「…………ふぇ?」

「……ぅ……ぉ」

 パクパクと口を動かして、喉元を押さえながら必死に言葉を紡ごうとしている音羽を見ても、私は現状を理解することができなかった。理解、したくなかった。

 理解したくなかった? どうして? 何故? 親友が首を裂かれ、目を見開いて、驚きと哀しみが入り混じったような表情でこっちを見ている音羽を、私は見ながらそれを理解したくなかったの?

 音羽から滴る、真紅の血液。

 他の誰でもない、音羽の血液。

 抑えても漏れ出してくる、音羽の生きている証。

 壊れた人形のように力なく崩れ落ちていく音羽の身体。

 そんな姿を見ても、私は現状を理解したくなかった、とでも言うの? この口が?

 狂ったような声が小さな室内に響き渡る。反響して耳が痛くなるほどに。

「ひゃっははははあああああ! やったな、やっちまったな! お前はここでゲームオーバーなんだよ!」

「…………」

 手を伸ばしたのはきっと私の本能。間に合うはずなんてない、と分かっていながらも手を伸ばさなければいけない気がしたから。届いたところで、こんな小さな手じゃあ何もできないって分かっているのに……そんなことを、考えたくない。私に救命の知識があっても、技術を持っていたとしても、私が今の音羽を救うことなんてできない……なんて、考えたくないのに。

 だから、触れていたかった。

「おと、は……」

「…………」

「は、あはは……うそ、ウソだよ、こんなの……ねぇ、起きて? 一緒に、帰るんだよね? 生きて帰って、また二人で遊ぼう、って…………」

 起きてしまった現実の友人に対する出来事に、なぜか口元から笑いがこぼれてしまった。笑いたくもないのに、どうしてか涙と一緒にこぼれてくる。

 受け入れたくない。こんな現実を私は受け入れたくない拒否感。全てが崩れ去っていく喪失感。吐き気がするほどの重圧がする恐怖感。そんな私自身の心を守るための防衛本能。

 ぐちゃぐちゃだった。バラバラだった。

 その双眸はなにも映しておらず、ただただ虚ろな瞳で天井を見上げる。口から僅かに漏れ出してくる吐息は、必要な酸素を取り込むための呼吸にもならない。腕に込められた力も徐々に失われ、物を握るどころか指の先すら動かせない。たとえ私の声が聞こえていたとしても、彼女の脳は処理できる状態じゃなくなっていることは明白だった。

 私は親友の最期を眺めていた。静かに、一分のしないうちに燃え尽きてしまう親友の生命の灯火を。

 虚しかった――滑稽なほど。

 悔しかった――愚問なほど。

 私の言葉に力なんてなくて、事実を変えることも覆い隠すこともできない。できない。そう、できない。

なにも、私はできない人間だった。友人の崩れ落ちる姿を見ながら、ただそれを眺めているだけの人間だった……。打ちのめされてようやく事態を理解するような、本当に愚かな人間だった。

「あぁ、ゴキブリだからな。処理は念入りにしとかねーとな、ひヒヒっ。生き、生き返ったら、面倒だし」

 そう言った犯人は、私が腕に抱いていた音羽の身体を思い切り蹴り飛ばし、壁へと強制的に移動させる。

 壁にぶつかっても苦しむ様子なく、力のこもっていない腕がそのまま地面に着く。

 パックリと開いた傷口と、なにも写すことのなくなった虚ろな瞳が私を見つめる。

 傷口から止めどなく流れ続ける血液。

 血の気のなくなった顔からだんだん白くなっていく音羽。

 慈悲もない。

 感情もない

 理由もない。

 なにもない。

 彼にあるのは「殺人(ゲーム)をしたかったから」という欲望だけ。彼を突き動かしたのは「人を殺してみたい」という欲望。二時間ドラマみたいにカッコよく自分のしたいことをやった。その結果が私の目の前にある結果。紛れも無く、私の見ている前で、首をナイフで裂かれて死んでしまった親友がいる結果。

 犯人が「殺しをしてみたい」という欲望で動いたのだとしたら、それなら、ここまで私を突き動かしたのはなに? どうして、私はこんなことをしようと思ったの? 私の手じゃ誰も助けられないってあの時知ったはずなのに、なにを持ってして、私をここまで突き動かさせたと言うの?

 結果は……どう、だったの……?

「ひひッ、もう一匹のご、ゴキブリも処分して、おかないとな……大丈夫だ、おま、お前らは何も悪くない。社会が、この国の社会が、わ、悪いのさ。尽くしてきた、この俺を切った社会が」

 血の付いたナイフを舌でゆっくりと舐めとり、音羽の身体をもう一度蹴り飛ばした後、私を見る。獲物を狩る肉食獣のような目で。薄汚れた目で。

 相手がナイフを持っていることは見えてる。そのナイフを持って、音羽を殺してしまったナイフを持って、私に近づいてきていることも。なのに、私の身体は時間を止められたように動かなかった。いや、違う……動かさなかったんだ。私はまだ自分の意思で身体を動かせるのだから、動かないという表現は間違ってる。

 あぁ、私がこのまま彼に殺されたら、音羽は許してくれる? あなたを助けることができなかった私を、許してくれる? なにも考えず、死んだらまた、音羽と笑いあっていても良いのかな……。私がキャラのコスプレをして、音羽がそんな私の姿を写真に収める。そんな風にいても良いかな? 女の子同士手を繋いでさ。脈絡もない会話を、夜中のファミレスでダラダラと話しながら、私が音羽にイジられて、拗ねて、怒って、笑って。

 一歩ずつ近寄ってくる犯人に、私は。

 あれ? 私……?

 なにを、考えて?

 この時、私はなにを考えていたっけ……――あぁ、そうだ。このナイフが振り下ろされたら私も、音羽と同じ場所に逝けたらいいなって考えてたんだ。友人の死を目の前にしても、バカみたいに自分ことしか考えていない私が、音羽に許される理由なんて無いというのに。

 目は自然と閉じられていた。私ができることは、目の前の現実を受け入れて、抵抗もなく彼に殺されること。それが、私なりの償いだと思っていたいから。償いで、あったほしい。心の底から。

「そこまでだっ! 大人しくしろ!」

「あん?」

 激しい音を立てて、トイレのドアを蹴破って入ってきた黒ずくめの人たちに一番驚いていたのは彼だけだっただと思う。私はそんな音が耳に入ってこないほど、精神がどこかに飛んでいっていたから。

 誰か大きな人に抱き起こされて、なんの抵抗もしないまま、意識もないまま私は親友が転がっているトイレを出ていった。




同日 午後五時五十八分 コミ○会場外設営テント


 気づけば私は会場の外にいた。

 会場から助けだされて、何時間経ったのか分からないまま、駐車場に設置されていた仮設テントの下で、パイプ椅子に座ったまま、焦点の定まらない視線で遠くに沈んでいく太陽を眺めていた。

 私は助けられた? 誰に? どうやって? どうして私だけ? 自覚もないし実感も湧かない。助けられたことに、助かったことに喜びすらない。嬉しくも哀しくもないこの気持ちは一体なんだろう。

 あんな場所、早く抜けだして生きて帰りたい。

 少し前の私は確かにそう思っていた。実際にそう思って行動してきた。私がしてきたことは間違いではないはず。みんなで助かりたい一心で、行動してきたことは間違いじゃないはずなのに……私一人が助かるために失われた生命は一体なんだろう。私の生命は、誰かを犠牲にしてまで助かるものだったのかな?

 分からない、なにも。

 記憶を隠すように、心のどこかに穴が空いてる。中を覗いてもそこにはなにもない。真っ黒で、真っ暗な、記憶を塗り潰すだけに空いている大きな穴。どうやってその穴ができたのか、果たして私はなにを隠していたいのか、それも分からない。覚えていない。

 コミ○の会場は今も消防車による消火活動が続いている。救急車も、何台もやってきては誰かを入れて病院へと運ばれる。

 私の目の前にはその繰り返し。

 誰かに声をかけられた気がする。とても優しい声で、たくさんの人に声をかけられていた気がする。

 誰もが同じ言葉を繰り返して。

「助かって良かったね」と。いとも簡単に、残酷な言葉が私に向けられる。向けてくる人はみんな笑顔で、喜びに満ちている。誰もが、向けてくる誰もが。

 良かった……? 私が助かっているこの状況は、みんなにとって良かったと言える状況なの? 嬉しくない。全然嬉しくない。あの場にいたみんなが助かっていれば良かったと言えるし、嬉しくもなる。でも、そんなことになってないじゃない! まだ罵倒されてるほうが楽だよ。「お前一人だけ生き残りやがって」って、「恥ずかしくないのか」って、言われたほうが楽なのに……誰も、そんなことは言わない。

 怒りをぶつけたくても誰もいない。救護班の人たちは全員出払っていて、私がいるテントには私一人しかいない。頼れる友人すらも、この世にはいない。

 私だけ、世界に取り残された気がした。

 不思議なことに頬をなぞってみても、私の目から涙は溢れていなかった。

 なら、実は、私は悲しくないのかな? あんなことが起きたとしても、私には悲しみがこみ上げてこないのかな……あはは、私って薄情、なんだ。

「如月音羽さんのご友人、葉月響さん、ですね?」

 思考の上手く働かない頭を持ち上げると、私の目の前には警察の制服を着た警察が立っていた。警察なのだから、警察の制服を着ているのは当たり前なのだけど。

「……はい」

「これをね、君に渡しておこうと思って。データの検証も終わったし」

 そう言うと警察の人は見慣れたオレンジ色のバッグを渡してきた。音羽が愛用していたミリオンダラーホームという種類のカメラカバン。色の落ちた浅黒い赤色の血を付けて、薄汚れて、所々が焦げて溶け落ちているけれど、間違いなく音羽の所有物……だったもの。

「ありがとうございます」

「君は、その……いや、止めておこう。もうすぐ新しい陣の救急車がやって来る。それに乗って病院へ向かいなさい」

「はい」

 なにかを言いかけて、なにも言わないまま警察の人はどこかへと戻っていった。

 警察の人から渡された音羽のカメラのデータには様々な種類の写真が写っていた。

 人にピントが合っているもの、鳥や猫の動物にピントが合っているもの、風景だけ、建物だらけ、廃工場、洞窟などなど。本当にジャンルを問わず、音羽が撮りたいと感じたものが素直に撮られている。そんな写真ばかり。

 数年前の写真から、今日までの記録。

「あっ……私、だ」

 松浦さんたちと会う前に、私が空を見上げて物思いにふけっていた写真。完全に油断していたところを撮られちゃったな。

 そんな中で、

「これ……」

 私の目に飛び込んできた一つの写真には、二人の女の子が写ってる。

 見知った正門の前、向かって左側の女の子は満面の笑顔で右手はピースサイン、左腕は隣にいる女の子の首の後ろから回してこちらもピースサイン。向かって右側の女の子は苦笑いを浮かべたまま、両手は身体の前に持ってきて、真新しいカバンを手にしてる。

 その次の写真は向かって右側に別の女の子がいて、合計は三人。

 桜の舞い散る、春の正門で写された、今年の入学式。

 鳴が私たちの学校に入学してきたときに撮った、三人で初めて写った、記念すべき写真。

 もう二度と戻れない過去を記憶させた、幾枚にも渡る記念写真。

 桜並木にピントが合っていながらも、映っている被写体である鳴をキチンと活かすような独特な写真の撮り方。偉大な父親の存在をその背に抱えながらも、親の七光りで育たずに彼女が至った彼女の写真。

「…………くっ、うぅ……」

 口から漏れ出してくる嗚咽を我慢できない。

 目から溢れ出してくる涙を止めることができない。

 彼女は夢を持っていた。

 私と違って、ハッキリと、自分の力で形にしようとしていた夢を持っていた。小さくても大きな一歩を来年の春から歩むはずだった。たくさん人たちを、様々な風景を、小さな身体の首から下げた大きなカメラに収めながら世界を旅する。父親の背中を追いかけながら、父親を超えていくための夢を。不器用な言葉と、器用な性格で。

『凄いと、言われる写真じゃない。笑顔、見た人笑顔、そんな写真、私は撮る』

 中学三年生の夏休み、私と音羽が出会ってから九年という月日が経って、初めて見せた微笑みと彼女の夢。 小さな身体に詰めた大きな夢。

 私の撮った写真が、人の笑顔と笑顔を繋ぐ架け橋になればいい。

 たったそれだけのために彼女は追いかけて来た。走り続けて来た。

 そんな彼女と、ずっと友人でいられると思っていたのに。

 そんな彼女と、ずっと同じ歳を重ねていけると思っていたのに。

 そんな彼女と、ずっと笑い合っていられると思っていたのに。

 ずっと、ずっと……。

「バカ、だよ……音羽は、ホントにバカだよぉ……」

 音羽が何をしたの? 死んでしまうような、狂った殺人鬼に殺されてしまうような悪いことをしたの? 神様、あなたは自分を崇拝しない人間はこんな死に方をしても仕方ないと、そう言うの? 頭を下げなければ、敬わなければ、供物を捧げなければ幸せになるどころか生かしてももらえないの? 不幸になるのが当たり前だと、笑うのですか?

「祈らなければ……夢を持つことすら無意味だと言うのですか?」

 だったら私だって同じだよ。自分の人生が、誰かが創った神様の手のひらで踊らされているだけなんて、考えれば考えるほどつまらない人生だって思っているんだから。

 神様に聞きたいことがあります。あなたがどんなに高尚であっても、生き物の生命とはあなた御心一つで亡くなっていいものなんですか? 生命を裁く立場に、あなたは立っていられるのですか? あなたに対して信仰心がない私が助かり、もしかしたら信仰心があったかもしれない人たちの生命が奪われる。

 違いは、どこにあるの?

 私の問いにどこからも答えはなく、誰も答えてはくれない。

 太陽が沈んでさらに気温が下がり、冬らしい冷気のこもった風が会場を吹き抜けていく。

 祭典から天災に変わってしまった冬のイベントは、こうして呆気なく幕を閉じた。百数人という命を犠牲にして、歴史に残ってしまいそうなほどの記憶を植えつけて終わってしまった。


 ――最後に一つだけ。

 私がこの物語を語った理由は最初にも書いた通り、あの日に起きた悲劇的な事件を消し去ってほしくないから。誰もが哀しんだ事件だからこそ、風化させるのはダメだと思うから。時間とは残酷にも、人から記憶を奪っていくものです。人が無関心になるほど恐怖なことはないと思います。これは押し付けがましい考えだってことは理解しているし、この私の経験談を読んだ全ての人に共感されるとも考えてはいません。必要な人だけ覚えておけばいいとおっしゃる人もいるでしょう。それでも、一人でも多くの方が伝えていかなければならないと感じていただければ幸いです。

 ただ一言。

 これから先、貴方が生きていく上で自分の予期しない、非常識な日常が起こる可能性はあるということ、最悪で最低な結果はいつ起きてもおかしくないってことを頭の片隅でいいので、覚えておいてほしいです。

人生を毎日悔い無く過ごす、というのは難しい話です。ですが、意識するだけでも変われるかもしれません。一日の中で嬉しいことを一つ見つける、愛しい人と語り合ってみる、親しい友人と夜遅くまで遊んでみる。もちろん、その代償はとてつもなく大きなものになってしまう可能性だってあります。いえ、大きいものでしょう。でも、大きくなりすぎたからといって、心にそのままの大きさで穴が空く事はないんです。大きさに比例して、残るものもあるんですから。私の持論に過ぎませんが。

 親友が遺したカメラ。彼女の存在が大きくなければ、このカメラにも私は想い入れなんてなかったから。私に空いてしまった心の隙間は、このカメラと想い出で少しだけ埋まってる。壊れたままではなく、私が音羽を好きだったからこそ、埋められる隙間だと思っているから。




終わり




「――最後はちょっとかしこまりすぎかな? まあ、これぐらいならいいか。それにしても……今日はなんだか外が騒がしいなぁ……」

 最後の文章を打ち込んでから私は軽く伸びをして、今日に限ってやたらと響くパトカーのサイレン音を聞きながらカーテンと窓を開けた。

 壁に掛けてある時計に目をやると、現在の時刻は夜の九時少し前。日記と補足事項をつけ始めたのが今日の十一時だったから、すでに十時間もこうやってパソコンの前にいる計算。こんなことって、パソコンを購入して以来初めてのことだなぁ……。集中し過ぎると周りが見えなくなるクセはなんとかしないとね。

 疲れた目を両手で軽くマッサージをしてから改めて窓の外に目をやると、なんとも珍しい光景が広がっていた。

 私が住んでいる地域はこの国の南寄りで、他に比べれば冬の夜は暖かいほうなのかもしれないけれど、それでもこの時期の夜は零度近く、もしくはそれ以下まで気温が下がっているのにも関わらず、窓から見える道路には結構多くの人が歩き回っていた。

 最初は見えづらかった道行く人も、ずっと見ていれば目が慣れるもので段々とその数の異常さに私は気づいた。

 それともう一つ。

 多くの通行人が片手に携帯電話、ラジオを持って、なにかを見たり聞いたりしているということ。

「特番でもやってるのかな? 流星群が接近してるとか」

 なんとなく気になったので私はパソコンの電源を落としてから、テレビの置いてある一階のリビングへと向かうことにした。残念なことに、私のパソコンはインターネットに接続させていないため、情報収集は基本的にテレビか携帯電話しかない。

「一年前は接続の契約してほしいって何度もせがんだっけ。で、音羽の家は接続しているのになんでウチはダメなの……なんて……」

 熱くなる目尻を拭って、軽く呟いてから頭を振る。

 もぉ、なに考えているんだか……私は。これを機に、忘れはしないけど深くは考えないって決めておいたのに。このままだとまたすぐに、病院のお世話になるよ。

 気持ちを切り替えてから私はリビングのソファーに座り、テーブルの上に置いたままにしてあったマグカップにお茶を注ぐ。

 冷えて渋くなった味が口全体に広がり、頭を少しだけリセットさせる。

 あれから一年も経ったんだよ?

 誰に呟くわけでもなく、私はリビングに飾ってある巨大な写真に向かう。親友が遺した写真の中でも、私が個人的にベストだと思ったものを写真屋さんにお願いして作ってもらった物。この大きさの額縁を用意するのは大変だったけれど、こうして見ているとそこに音羽がいるような気がして嬉しいから。

 彼女を、忘れたくないから。

 彼女を、過去にしたくないから。

 私はソファーの上でもう一度大きく背伸びをする。

「お母さんたち……は、まだ帰ってない、か。じゃあ、帰ってくるまで見とこうかな。さてと、テレビテレビっと――」

 テレビの電源を点けて、国営放送にチャンネルを変えようと思った。

 でも、私の指はボタンを押すことなく、緊急放送していたニュースのライブ中継をテレビが映しだす。私の予想が正しければ、どこのチャンネルに変えても同じ内容の緊急放送をしているはず。

 思わず立ち上がって、テレビの前にフラフラと近寄る。

 あり得るはずがなかった。

 あり得ていいはずがなかった。

 今日に限って、そんな夢みたいなことが起きていいはずがない。

「ウソ……だよね?」

 自嘲の笑いが口から漏れて、私の中を絶望に染めていく。

 カメラのリポーターは困惑の表情を浮かべながら、なぜか周囲を警戒しつつ、必死になにかを伝えようとしていた。「逃げろ」だか「逃げるな」だか、そんな言葉を繰り返し言っているような気がする。

 そんなことよりも、私にはもっと注視してしまう言葉がそこには書かれていた。

『――死刑囚、脱獄』

 テレビの前のリポーターがなにかを言っている。

 信じられない、恐ろしいことを言ってる。

 聞きたくもない事を、言っている。

『もう一度言います。昨年、爆弾での大量殺人で捕まっていた――死刑囚が、先日、脱獄しこの辺りの住居に潜んでいるというニュースが入って来ました。住民の皆様は警察の指示に従い行動して下さい。危険ですので、決して個人判断での行動は控えて下さい』

 脱獄? あの人が、逃げてる。しかも、この近辺にいるかもしれないって? そんな、そんなことがありえるの? どうして? なんで?

 今日はあの日からちょうど一年経った、一周忌でもある日なのに。

 見間違いであってほしかった。

 勘違いであってほしかった。

 同姓同名で、偶然、宣告された刑罰すらも同じ人が脱獄したのだと、あり得ない夢を見させてほしかった。私の手から滑り落ちたマグカップが、フローリングにぶつかり粉々に砕け散る。とても大きい音なのに、凄く遠くに感じる音だった。

 思考がついていかない。ついていけない。追いつかない。追いつけない。出口の見つからない答えがグルグルと頭の中に巡る。消えては生まれ、消えては生まれを繰り返す一つの思考と答え。


 ――ピーン……ポーン――


「――!」

 乾いた家の空気を切り裂くようなインターフォンの音が響く。

 こんな時間の、こんな状況での来客を告げる合図。

 私は返事もせずにリビングから顔だけを出して、誰が訪れているかも分からない玄関を見つめる。

 幾度と無く、切り裂くように響くインターフォン。

「どちら様、ですか?」

 返事はない。

「どちら様ですか?」

 さっきよりも少し声を大きく、力を込めて聞いた。

 それでも、返事は返ってこない。

 ゆっくりと玄関先に近づいて、覗き穴から外をうかがう……でも、映っているのは真っ暗な外の暗さだけ。

 意を決してドアノブを回そうと手を掛けた時に、私は気づいた。

 私が返事をしてから、インターフォンが鳴らなくなっていたことに。

「…………」

 もう手遅れだと分かっていても私の右手はドアノブを回していた――。




終わり

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