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災悪の始まり。

十二月三十一日 午前九時三十二分 コミ○会場


 本日は十二月三十一日、つまり、一年の終わりである大晦日。同時にコミ○最終日でもある今日。私と音羽はホテルから会場へと続く道を歩きながら、途中のコンビニで買ったおにぎりに貪って……という表現は少々女子としてどうかと思われるので、普通に食していた。

「前日の深夜前行列、はむ……今回もヒドかった」

「毎回の恒例だからねぇ。注意して止めるようなら、最初からしてないって話だよ」

「それでも一応規則ある。守らなくちゃ、モラルが」

 三日間で来場者数三十万から四十万というたくさんの人が集まるこのイベント。毎度のことながら、イベント開始日の前日から会場前に寝泊まりをする「徹夜組」と呼ばれる人たちが後を絶たない。多くの人が来るからこそ、自分の欲しいサークルの本は必ず手に入れたい一心で行なっている行為なのだけど、そういった人たちが出すゴミの問題や、体調不良で深夜から朝方に呼ばれる救急車、特に冬は気温が低くて防寒対策をおろそかにした人が運ばれるケースが毎年のように起こってる。近隣に迷惑がかかるだけでなく、コミ○のスタッフも対策として警備活動をしたりするなど、たくさんの人に影響がある行為だったりする。

 もちろん、そんなことをするのは参加者の中でも極一部。百人とか千人に一人……ぐらいの少なさであってほしいかな。

 私たちの会話も毎度のことで、愚痴ったとしても変わりはしないことぐらいは分かってる。でも、ホテルの窓から見える徹夜組の人たちを見るとどうしてもね。私たち場合は本が目的で参加しているわけじゃないから、そこまでして買いたい情熱が理解できないだけ、なのかもしれないけど。

 そうこう言っているうちに私たちはコミ○の会場に到着。即売会の会場、本ホールの入り口までやってきて、そこで私と音羽は一時解散となる。理由は音羽が更衣室に出入りできないためでもあると言えるし、出費がもったいないからとも言える。本ホールの中に入るのもコミ○のチケットを購入しないといけないんですよ。

 ちなみに私を含むレイヤーがコスプレをする場所は、会場の外に設けられたコスプレ広場という所でしなければならない。真冬の外で。かじかむ手を気遣いながら、表情に出ないように目一杯のドヤ顔で。逆に本ホールは人口密度が非常に高く、湿気も高いため外と温度差が驚くほどあるところも注意が必要だったりする。毎度のことながら、イベントが終わった直後に風邪で倒れる人が続出して、救急車が呼ばれることも嫌な名物になりつつあるので。

 私だってコミ○参加当初は温度のギャップに耐えられず、帰りの夜行バスで体調を崩した時はさすがに終わったかな? と思った。バスの中の空気の悪さと、夜中は一度も休憩所に止まらない苦痛、止めを刺すように現れた車酔い。もうね、私を置いてでもいいからバスから降ろしてと何度思ったことか……。半分が優しさでできてる薬と乗り物酔いに効く薬を音羽に貰っていなかったら、女の子としてあるまじき人様に見せられないような行動をとっていたかもしれないと思うと……ゾッとします。

 前述のような体験をしたからこそ、みなさまもキチンと対策はしておきましょう。普段乗り物酔いをしない人でも、体調は急に変化するものなので薬の準備は万全に。長時間乗り物に乗る際は体調も万全に。

 ただ、この体験以来、コミ○に来る時は乗り物をバスから新幹線に変えたため、薬が活躍する日は来ておりませんが。

 いつまでも体調の話をしてもしょうがないので閑話休題。

 腕時計で時間を確認すると現在は九時五十分。イベント開始時間は午前十時からで、開始と同時にコスプレの受付も始まるので、あと十分ほど時間があるにはある。今まで一度も開始時間ちょうどに始まったことはないけれども。

 このコミ○のイベントの中心となっている本会場、私たちレイヤーには結構面倒な構造をしていて、更衣室に行くには西側本ホール入り口から反対側の東側に設置してある地下道へと下りていかなければならない。その地下道へと降りる扉の前にレイヤー専用受付があって、さらに地下道を進むと男性用と女性用の更衣室が分岐する位置にも扉がある。

 つまり……更衣室からコスプレ広場に向かうまでに、更衣室の前に一つ、男女更衣室を分岐する位置に一つ、地下道を抜けた所に一つ(これはイベント中、常時解放されている)、本ホールを抜ける時に一つ(これも常時開放)で、合計四つの扉を通過する計算。ね? 結構面倒な作りをしているでしょ? 今さら会場の作りに文句を言ったところで改装なんてするわけないけど、実行委員会の判断で更衣室を外に移すとか、少し離れるけどサブホール側に設置にするとか対策はしてほしい、かな。

 サークル参加者でごった返している本ホールを真横に突っ切って、すでに長い行列ができつつあるコスプレ用受付の前に私も並ぶ。

 ご覧のとおり、まだ五分前だというのに受付前に並んでいる人々。この状況が黙認されてしまっているのも、いかがなものでしょう。私も開場前に並んでいる身なので、強くは言えませんけど……。

 あ、あと注意事項。私たちコスプレイヤーはコミ○が始まる前に、本ホールへと特別に入れる許可をもらっているのだけど、このシステムを利用してコスプレ受付をする前に自分が目当てとするサークルに並ぶ、いわゆる開場前行列に参加する人がいる。もちろん、ウソを吐いてまで誰よりも先に並ぶなんてことをしてはいけないので、罰則として即刻退場、限度が過ぎていればそれ以降のコミ○に一般参加すらできなくなる厳しいものなので、みなさまもヤメておきましょう。


『――みなさま、大変お待たせいたしました。ただいまよりコミックマルイプレゼンツ同人誌即売会を開始いたします』


 そうこうしているうちに会場アナウンスがスピーカーから流れ、今年最後のコミ○開始を告げた。

 その瞬間、私が入ってきた西側エントランスから、それはもう恐ろしいほどの人が一気に本ホール内へと流れこんでくる。人波、大荒れの人波が一気に押し寄せてくる。各個人でお目当てのサークルが違うので、入り口で散ってバラバラになるあたりまさしく波という表現が似合ってる。来てる。来てるのよ! 波がそこまで来てるのよ!

 あぁ、今年もこの人波飲まれてしまうのですね。天国のお父さん、お母さん、どちらもまだ死んでないけどごめんなさい。響は今年も押し寄せる人波に飲まれ、辱めを今年も受けそうです。まだ汚れを知らない純血のこの身体は、人波の中で鼻息の荒い人たちによって悪女へと変貌を遂げてしまうのです。身体を拘束され、身動きのできなくなった私に興奮しながら女の子フィギュアをこれでもかと押し付けるのです。あぁ、ヤメて、堅い髪の毛でつつかないでぇ。つつくならせめて、その前方とか上方に突き出された指でお願いします。あと、私をつつくフィギュアはリアル造形ね。デフォルメフィギュアは飾っておきたい主義。百均のケースに入らないからリアルフィギュアは買えないの。だから、あまり触ったことないのでこういう機会でぜひお願い。買ってもホコリ被っちゃうなら最初から買いません。そこそこいいお値段するからお金ももったいないしね。

「お次の方、どうぞ?」

「あ、登録のお願いします」

「はい。では利用料とこちらのバッヂを付けてくださいね」

 私は受付のお姉さんにお金を払って、替わりにバッヂを受け取る。このバッヂはレイヤーが必ず身に付けておかなければならない、コスプレ証明書、みたいなもの。これで更衣室の利用やコスプレ広場への出入りが許可される。最初はお金を取るのかぁと嘆いたけど、イベント会場の更衣室だってタダじゃないのだから、こういった貴重な収入源でイベントが開かれると思えば文句も言えません。なおこのバッヂはイベント終了前には返却をして、次回のイベントに使用されるため、できるだけ汚さないようにしなければならない。こんな所にもエコ精神が垣間見える、涙ぐましいものです……うぅ。

 それはそうと、先ほど見えた幻覚は一体なんだったのかな? たくさんの人に囲まれて、可愛い女の子のフィギュアにも囲まれていた気がする。八分の一フィギュアとか買わないから、欲しいという欲望が前面に出てきた夢とか? 囲まれていても私のじゃなきゃねぇ、ちょっと……。

 まぁ、いいや。

 地上とは違い一段と冷える地下道に降りて、分岐点の前にできている行列の最後尾に私はつく。更衣室も一度に数百人といるレイヤーが入るスペースなんてあるわけないので、中に入る人数をあらかじめ決めておき、行儀よく行列を作って入れ替わり制度を採用している。初めて来たときはこの制度に戸惑ったけれど、慣れてしまえばこれほど効率の良いシステムもないと思える。個人的に。日本人特有の性格を利用しているからこそ、可能とも言えるしね。

 可能なのは、日本人だからかのう? えへっ、なんちゃって。

 ……。

「…………寒い」

 地下道も、私も。

 震える手と心を温めながらひたすら待つこと二十分ほど、ようやく私の順番が回ってきたのでそそくさと更衣室へと入る。別にいたたまれなくなった、なんてことはありませんのであしからず。

 更衣室に入って、適当な場所に着替えの入っているバッグを置いてから、私は服に手をかけた。

 当たり前なことなんだけど、ここの更衣室にはロッカーが設置してあるにはある。でも、レイヤーの数に比べたら圧倒的に少ない。なので、基本的には広場に行っている間でも自分で持ち歩くか、会場に設けられているクロークルーム、いわゆる私服を預けておけるような部屋が用意されているのでそっちに持っていくかのどちらか。多くの人は持ち歩いているんじゃないかなぁ……小道具とかあるだろうし。私の場合は持ち歩くのが手間だし、小道具の用意もする必要ないコスプレなので、毎回クロークルームに預けている。そういった持ち運びの点も考えて、私はコスプレするアニメ・ゲームのキャラクターを選んでいるという計算高い女の子なのだ。めんどくさがり屋と音羽は片付けるけれど。

 などと、物思いにふけっていると、私の背後から私のよく知る甲高い笑い声が更衣室中に響いた。周囲の人たちがかなり迷惑そうな顔をして、なぜか私が睨まれるという状況に怒りが込みあがっていたことを、ここに記述しておきます。

「オーホッホッホッ! 相も変わらず湿ったしいたけのような顔をしておりますわね。ヒビキさん?」

 きのこ類って、基本的に湿ってるものじゃないかな? 乾いてたらもう乾燥○○という名前の商品名になっちゃうよね。それに、湿ったしいたけのような顔って、別に悪口でもなんでもないような気がする。本人はきっと悪口のつもりで言ったのだろうけどさ。

 このまま無視して着替えを続行しても良かったけど、構ってあげないと奇声を上げながら詰め寄ってくるので、私は仕方なく手を止めて声を掛けてきた人物の方へと振り向いた。

「なにか、ご用ですか? マーベラスさん」

「別にこの更衣室ではプライベートなのですから、わざわざレイヤー名で呼ばなくてもよろしいですのよ? それはさておき、貴女はどんなやっすいコスプレを今年はするおつもりなのか気になったものですから」

「大丈夫? ちょっと日本語怪しいよ? キャラを維持するのもいいけどさ、プライベートって言うぐらいなら、ここでは普通に話せばいいのに」

「きゃ、キャラじゃないですわ! えぇ、私はこれが素ですのよ! 平民と同じにしないでいただきたいですわ!」

「お嬢様、話せば話すほどボロが出てしまいます。ここは一旦平静を取り戻すのが得策かと思われます」

「あ、貴女が言うならそうしましょう……」

 折れるの早いなぁ。

 高飛車な口調で私に厭味ったらしくケンカを売ってきた彼女の名前はマーベラス・インテグラ。本名は松浦……下の名前が舞さんだったかな? ちなみに、先ほど彼女はレイヤー名で呼ばなくてもいいなんて言っていたけれど、本名でいきなり呼ぶと怒る。理不尽で面倒な性格をしてるよ。わざわざこのイベントのために染めなおしている金髪を両サイドの少量の髪の毛だけをまとめて、あとはそのまま降ろしているツインテールとストレートの複合技、ツーサイドアップの髪型をしているのもキャラ付けの一つだと隣にいる人から聞いた。ここは地下なのにフリルの付いた日傘を差している不思議な人。コスプレをする前からキャラを作っておかないと崩壊するのよと、前に酔っ払った時に愚痴っていた。女性の年齢を明記するのは大変失礼なことと分かっておりますが、松浦さんの名前を傷つけない意味でもちゃんと明記しておかなくてはならない。それが私の使命だから。松浦さんの年齢は――、

「ヒビキさん? 面白くもない冗談をおっしゃるつもりでなくて?」

 うん、女性の年齢は明記するものじゃないよね。

 そんな松浦さんの隣でメイド服を着て立っているのは、竹島さん、だったはず。松浦さんの付き添いで様々なイベントに(強制)参加させられているとかいないとか。モデルのように高い身長に小さな顔、なにも手をつけていない(ヘアーアイロンぐらいはしてるかな)真っ直ぐで綺麗な黒髪のロングヘアー、服の上からでも分かる豊満なバスト、見る側にキチンと配慮した黄金比で構成されている絶対領域、美しすぎるラインを強調させるニーハイソックスが装備されたおみ足。いやぁ、いつ見ても眼福ものです。なお、竹島さんのレイヤー名はロードスターだったりする。理由は、

「ホホホッ、私の隣にいるのですから格好良く、かつ、王者の風格漂う名前が良いと思いまして、私が付けたのです」

 なんて、松浦さんが自慢気に言っていた。彼女の意思は受け入れないらしい。

 こうして二人を見比べてみると、やはりと言うか、定番と言うか……お嬢様がメイドさんの引き立て役に見えるんだよね。お互いがそれぞれのコスプレが似合いすぎているからこそ、生まれてしまう引き立て感というのかな。まあ、年下の私がこんなことを言うと失礼ですが、松浦さんって、ほら、おバカさんだから。余計にそう感じてしまうんだよねぇ。

「ヒビキさん?」

「な、なんですか?」

「今度は、私に対して失礼なことを考えておられるのでは?」

「そんなことありませんよ、マーベラスさん」

「……そうですか。なら結構です」

 ふぅ、あぶな。まったく、バカにされてる感だけは鋭いんですから困りますよ……。


 ――そうそう、話を進める前に私とマーベラスさんたちとの関係を簡単に説明しておこう。

 私たちの出会いは数年前の某イベント(コミ○とは別)でのこと。各レイヤーの場所は同人誌を売ってる側と違って、自分たちの立ち位置が明確に決まっているわけではないため、より集客率が高そうな場所を早い順に選んでいく。そのため、午前はAというレイヤーがいた場所に、午後はBというレイヤーがいるなんてことはザラ。一時間ごとに変わってるなんてこともあったりする。で、競争率の高い場所はコロコロとレイヤーが変わるということは、その分二組以上のレイヤーが同じ時間に同じ場所を狙って被ってしまう可能性も大いにある、とも言える。私と松浦さんがそうだった。

 私の第一印象からすれば、彼女は自分の個性をしっかりと理解してる、プロ意識の高い人なんだな。だった。当時は金髪ではなく、黒髪のツインテールがよく似合うとあるアニメのキャラのコスプレで、松浦さんはその友人のコスプレだったのだけど、悔しいほど、嫉妬してしまうほど似合っていた。自分がやるべきコスプレのキャラをしっかりと理解してると。これはホントに私の印象だけの話で、当時の本音の彼女は違ったらしいのだけど。

 そんな彼女と立ち位置が被ってしまっただけでなく、撤収のタイミングまで被ってしまったものだから「これもなにかの縁」で、連絡先を交換したのが始まり。腐れ縁以上の偶然が重なり始める、全ての始まり。

 端的にまとめてしまえば、出会ってから数年間であったコスプレ可能のイベントで、私たちはことごとく一緒になった。もちろん、連絡は取り合うことができたのだから、何回かはメールで「次のイベントでは一緒になるかもしれませんね」みたいなやり取りはしていたのだけど、お互いが秘密にしていたマイナーな濃いイベントでも一緒になってしまうものだから、色々とヒドい偶然である。濃いというのは……えっと、いろんな意味で。

 そんな中、一昨年の夏のコミ○でお嬢様と執事キャラのコスプレをしてきた二人に対して私は禁断の言葉を言ってしまった。マーベラスさんに向かって「お嬢様のキャラ、やっぱり似合っていますね」と言ってしまった。

「そ、そうですか? オホホ、ようやく私の魅力に気づかれたようですね」

「……は?」

 急になにを言っているんだろう、この人は。

「バカがバカになってしまった」

 後日、竹島さんに聞いた話。松浦さんは人の言葉に感化されやすく、自分がそう思っていることに他人の言葉が加わると、即行動に移す性格をしているらしい。この場合、自分で自分は「お嬢様キャラが意外と似合っているかも」と思いつつあった頃で、そこに私の一言が加わり、確信に変わった彼女は「これからは口調もお嬢様」になってしまった。後押しをしたのは私の責任でもあるため、事あるごとに彼女は私に絡むようになってきた。

 そして現在に至るという経緯――


「では、ごきげんよう」

「失礼いたします」

 先に会場へと出ていく二人を見送ってから、私も着替えを再スタートさせる。

 私服からコスプレ衣装に着替え、着ていた服をバッグに仕舞ってから私は更衣室を出ていく。更衣室側から分岐点の扉を開けると、出ていくのをためらわせるような冷気が私を通り過ぎる。

 あっと、一つ補足をしておかないとね。更衣室を利用する人は参加するレイヤーが全員使うわけではなく、自宅からコスプレをしたまま会場する人がほとんど。受付でバッヂさえ受け取っていればコスプレ広場に行けるし、わざわざこんな寒い地下道で待たなくて済むから。むしろ、更衣室を利用する人は全体の十分の一いればいい方。

 地下道を抜けて入り口、受付前にはすでに音羽が待っていて、私を見つけると足早に近寄ってきた。

「あの人たち、来てた」

「ん? うん、今回もお嬢様とメイドさんのコスプレみたいだね。コスプレしているキャラは違うけど……もうちょっと嗜好を変えればいいのに」

「彼女、意地になっているだけ。後には引けない、ただのプライド」

 ちなみに、毎度のようにカメコとして私に連れてこられている音羽も彼女たちの一応知り合いである。出会ってすぐに音羽と竹島さんは意気投合し、お互いに「バカの相手は疲れる」などという戯れ言をほざいたので、帰りの長距離バスの中で寝ている音羽の頭に猫耳型のカチューシャを装着し、その姿を携帯のメモリに残したままなのは秘密。ふふふっ、いつかはこの写真をネタにしてゆすってやるのだ……あれ、何の話だっけ?

 えっと、とにかく、イベントだけの関係である私たちは、年齢も職業の壁も越えて、一つ以上の趣味を共有する友人になれた。その中心にあるのは決して一般人に縁がないもので、どちらかと言えば嫌悪される趣味。それでも、私たちを繋いだものは同じ趣味。

「私、違う」

「音羽、空気読んで」

 ……オホン。音羽は興味がなかったとしても、繋げたのはそういった趣味だから――

「さっさと動く。待っていた人の気持ち、考えろ」

「…………」

 コスプレに広場に向かおう。

 と、その前にバッグを預けるからクロークルームに行かないとね。


同日 午前十時十八分 コスプレ広場


「目線、こっちお願いしまーす」

「こっちもお願いします」

「はい。こんな感じでいいですか?」

 レイヤーが集まる広場に音羽と一緒に移動してから、私は手軽に空いているスペースを見つけ、カメコさんからリクエストされたポーズを取る。音羽は私を数枚撮った後、いつものごとくどこかへと行ってしまった。

 基本的にイベントでの私たちは別行動。集合時間だけ適当に決めてから、それぞれが好きなように行動している。私の場合は、四十分から一時間くらいのペースで場所を変えて、飽きたら場内に入って同人誌を物色、集合時間まで潰してから戻る。これがパターン。場所を変えるのは、私なりの気持ちをリセットしようという考え方から。コスプレイヤーとして色んな人に写真を撮ってほしいし、同じ場所に居続けるとそれが叶わなくなるためでもあったりするけど。

 私も変わったなぁ……。

 何度目かのポーズを切り替えた時、ふと目の端に飛び込んできた空を見ながらそんなことを考えた。

 そういえば鳴にも変わったって言われたっけ。あの時はそうでもないなんて、鳴に言ったけれどやっぱり変わったよねぇ。今はこんな感じで、呑気にリクエストを受けてポーズを取りながらコスプレをしてるけど、最初は私も嫌悪感を抱いていたぐらいだし。そりゃあ、昔から少女マンガは読んでいたし、ゴールデンタイムに放映されてるアニメも可能な限り見てた。でも、それは視聴者側に立っていたから良かったのであって、自分が画面の向こう側、作られたキャラクターに愛情を注ぐなんて考えられなかったからの行為。

 私がこっち側に回ろうと思ったのは単純なきっかけ、ある意味そのままの理由。

「私もあんな服、作れるかなぁ……」

 ゴールデンタイムに放映されていた美少女戦士。そのキャラが着ている服があまりにも可愛かったから。デザイン的にもセーラー服がベースになっているため、近くの制服取り扱い店で素材は手に入るし、簡単に作れると思ったから。これがまた、口で言うのは簡単だけど、実際には……の典型だったのだけど。

 完成した衣装はとても他人に見せられる出来栄えじゃなかった。小学生にしては頑張った方だよね、と同情されるレベル。

 逆にその結果が私の運命を変えた。もう、コロッと。傾いたら後は落ちていくだけ。

 悔しくて悔しくて、私は勝手にリベンジを誓って裁縫に全力投球するようになった。学校の授業であった家庭科では迷わず裁縫を選んだ。その当時は裁縫と料理の二つが選べて、ほとんどの女子はお菓子作りができる料理を選んでいたぐらいなのに。で、その裁縫の授業で私は飛び抜けて異質だった。小学生だから許されていたけれど、あれは確実に私の黒歴史で封印するべき過去とお呼びしたい。こうやって少し大きくなった私が振り返って当たり前と感じるのだから、担任の先生はもっと「この子、頭おかしい」と思っていてもしょうがないね。

 うん、察しが良い人は気づいただろうけど、当時の私は気づかなかったのよ。

 おかしいでしょ、授業でアニメの衣装を作ってるんだから。

 結果的にはそれが私を良い意味で変えることになった。失敗して、作り直して、また失敗して、作り直して……その繰り返しで作り上げた衣装、記念すべき他人に見せても恥ずかしくない衣装が出来上がった時、裁縫って、こんなに楽しかったんだ。と心の底から思えた。たくさんのシャツを犠牲にしましたが。……この場だから告白します。鳴のシャツをボロボロにしたのは私です、ごめんなさい。自分のシャツは犠牲にしたくなかったものですから。

 そんなこんなで、衣装を作る喜びに目覚めた私は中学生の頃、他の衣装も研究するために地元のイベントに初めて参加した。私がしているのはコスプレだと知ったのはこのイベントがきっかけだったりもする。この初参加のイベント、一人では不安だったのもあり、半ば強制的に音羽を連れ出してイベントに来ていた色んな人のコスプレを眺め、もとい研究していくうちにどんどん衣装を作ることよりもコスプレをする快感、いや、喜び、ん? 悦び? に目覚めてしまって……ということ。それから私は地元だけに留まるのではなく、隣接する県から本州まで、コスプレが可能なイベントを調べては行くのを繰り返して、そうこうしているうちにコミ○の存在を知り、自発的に参加するまでになった。

 衣装を作ることに喜びを感じていたあの頃に比べたら、鳴に「変わった」と言われても仕方ないのかも。元々の性格がインドア派だったし、こうして遠くに宿泊込みで出掛けるなんてことをしている私は、鳴から見ればそれはもう変わったんだろうなぁ。

 ま、変わったのは私だけでなく、様々なイベントに連行されていた音羽も変わったかな。彼女の場合は、自分の夢を叶えるための練習、程度にしか考えていないだろうけど。それでも連行当初の拒否反応っぷりは酷かったし。

「オタク、好きじゃない。でも、パパの背中、追いかけ続けるのも、好きじゃない。だから、人を撮る練習」

 なんて言い訳がましい言い訳をしつつ、今はそれなりに楽しんでいるみたいなので良しとしましょう。インスタントカメラから始まった彼女のカメラは、フィルムカメラ、コンパクトデジタルカメラを経て、現在はマークⅢとかいうデジタル一眼レフカメラにまで進化している。ちなみに、学校に持ってきているのはキスという種類の一眼レフらしい。数百グラム軽いからとかの理由で。正直私にとってはどうでもいい。知らんわって感じ。

「値段が高ければ、良い写真、撮れるとは違う。勘と経験、瞬間を大事にする」は音羽の口癖でもある。どんなに高級なカメラを用意したところで、自分が思った通りの写真を撮れなければ意味がない。瞬きしている間に変わる景色を綺麗に撮るのは、撮影者側の腕次第。瞬間を逃したくないという貪欲な心とか。

おそらく彼女は、この場所にいる誰よりも写真を撮ることに魂を燃やしていると思う。それこそ満足するまで一心不乱に撮り続けてる。前に一度、コミ○中に自分の満足のいく写真が撮れずに、イベント終了後に東京の色々な場所をその日に巡って撮ったこともあった。翌日に腱鞘炎になっちゃって、帰り道は大変な思いをしましたけど。

 まあそれほどまでに、写真を撮るのは音羽にとってかけがえのない大切なことなのだ。その代わり、一日の内で一度でも「これ以上の写真は撮れない」と判断された写真を撮ると、魂の抜けたようになにもしなくなるんだけど。今年の夏のコミ○がそうだったね。イベント開始一時間で超えられない写真を撮ってしまったようで、残り終了までの五時間、ベンチに座ってボケーッと日光浴をしていたらしい。夏休みが明けてから「シミ、できた」と愚痴っていたし。日焼けをしにくい体質だったのが、あの時は唯一の救いだったかも。

「良い写真、撮れるのは、ただの偶然、凄い偶然。私がたまたま、居合わせただけ」

 真面目な顔して、冗談でも謙遜でもなく音羽は言った。万人誰もが素晴らしいと思える写真を、音羽が撮るべくして撮ったわけではなく、その瞬間に私が立ち会えただけだと。だから、私は凄い偶然を引き寄せただけに過ぎない、と。

 私を構成しているのは、ゲシュタルト崩壊を起こしそうな数の偶然。

「凄い偶然、か……」

 口に出しても実感が湧かない。

 私がこうしてここに立っていられるのも、全ては偶然が重なり合った結果、なんだよね。始まりのきっかけがなければ、衣装を作るという意欲がなければ、音羽と出会ってなければ、音羽がカメラマンを目指していなければ、鳴がファッションデザイナーを目指していなければ……数えきれないほどの偶然が重なって、ようやく私はここに立っているという実感が、全然湧かない。

「きっかけは偶然で、継続は意志ね」

 ま、あれこれ深く考えたところで、私の頭じゃ本当の意味なんて理解出来ないだろうから、なんとなく、人生は流れ行くまま流れて行く、それだけを分かっていればいいのかな。私の向かう道は私の意志で決めても、周囲で予想外のことが起きて巻き込まれることだってあるんだから。なるようにしかならない、人生なんて。

 カメラマンの足が少し途切れたところで、私はポケットからハンカチを取り出して汗ばむ額を軽く拭く。雲が出てないからかな、今日はなんだか暖かく感じる。風を吹いてないし。冷たい風が吹きっぱなしよりかは、今日みたいに冬なのに暖かいほうがマシかな。

 木陰に移動して準備していたミネラルウォーターを飲みながら、ベンチで休んでいるところに横から声をかけられた。

「ここ、よろしいかしら?」

「はい、構いま……えっ?」

 なんでこの人がここにいるんですか?

「お嬢様のご無礼をお許し下さい、ヒビキ様」

「はぁ……」

 ま、なんでもいいですけどね。

 マーベラスさんは一度着替えに戻ったのか、朝見たキャラとは違う、某ゲームのエルフ族のコスプレをしていた。金髪のツインテール、服は緑色ベースでトップスは胸下までしかなく、おへそ下まで肌が見えている。パンツは蛇腹っぽいロンスカで腰周りには甲冑を似せて作ったアクセサリーを付けて。というかこのマーベラスさんがコスプレしているキャラ、全く以てお嬢様系統のキャラじゃないんですけど。しかもこのキャラ巨乳だから! あなたと全く違いますから!

「――あ痛ッ。なんでいきなり殴るんですか?」

「もの凄く失礼なことを考えていた気がいたしましたので」

 あながち間違いじゃないかな。

 マーベラスさんの相方、ロードスターさんは同じゲームのヒロインのコスプレ。頭に羽の付いたカチューシャを装備、中華の装束っぽい服をベースにして胸下からおへそまで肌が見えているのはマーベラスさんと同じだけど、こちらは肌が見えているのは前だけで、横腹から背中は隠れている。装束ベースのためかマーベラスさんと違い裾は長くスカートは短い。元キャラも髪の毛が長いため、ロードスターさんにはピッタリかな。誰かさんと違って。

「…………」

 その誰かさんに睨まれている気がするので、この辺りでヤメておきましょう。

「ところで、わざわざなに用ですか? 今日は場所が被ってなくて嬉しかったのに、そちらから来るなんて」

「急な話で申し訳ございませんが、今年もこれが終わりましたらお食事会を、と思いまして。時間がありましたらご参加頂けると嬉しく思います」

「あぁ、そうなんですか。もちろん、こちらこそよろしくお願いいたします。今年も松浦さんのおごりなんて、素晴らしく太っ腹でいらっしゃいますね。今年は回らないお寿司屋さんで食事ですか? 豪華ですねぇ」

「なっ!?」

「ならそのように予定を組んでおきます。詳細はイベント終了時に追って連絡いたしますので、お待ち頂ますよう」

「ちょっ!?」

「大丈夫です、松浦には決して文句を言わせません。その場の持ち合わせで払えない場合は貯金を下ろすか、クレジットカードでも使わせます。彼女も立派な社会人ですから、これぐらいの出費は大目に見ていただけるでしょう」

「なに、言ってるのよ……」

「どうかされましたか? 私はマーベラス様の知人である松浦の話をしているのですよ? どうしてマーベラス様が私にいちゃもん付けたさそうな目をされるのですか?」

「それとこれとでは話が違うわ。回らないお寿司って、お寿司よね? 一皿数千円とかする、あのお寿司よね? バカ言ってんじゃないわよ。そっちだって私の給料の低さぐらいは知ってるでしょ。それなのにどうして私が奢るのよ。この衣装、一体いくらしたと思ってるの? それだけでもバカにならない値段で財布は軽いのに、今年はお寿司ですって?」

 松浦さん、キャラ忘れてますよ、キャラ。素であたふたしている松浦さんの姿を見るのも新鮮ですが、一応人前ですのでキャラを忘れるのはどうかと。

 必死の形相で竹島さんに抗議をしていた松浦さんも、「そこまで言うのであれば、竹島も半分は出す。とおっしゃっています」と言った竹島さんの言葉でなんとなく腑に落ちないまま納得したのか、「それなら、まあ……」と渋々承諾。

 私も冗談のつもりだったし、竹島さんも私の冗談に乗っかる形で話を進めていたのにも関わらず、松浦さんがマジになってしまったためか、中々察しない松浦さんに少々キレ気味になってしまったのは言うまでもないかな……マジで冗談だったのに、今日の食事会は本当に回らないお寿司ですることになりそう。それはそれで嬉しいけど。

「ところでヒビキさん?」

「あ、戻りましたね、口調」

「こ ち ら が 素 で す が、なにか?」

「……いえ、なんでもございません」

「オホン……ともかく、イベント終了後に駅前で落ち合いましょう。時間が早ければ、その時に決めればいいでしょう。では、ごきげんよう」

「失礼致します」

 私は二人の背中を見送ってから大きくため息を吐く。なんだか凄く疲れた気がする。まあ、いいか。プライベートな時間以外で松浦さんの素も見れたし。来年はこのネタを使って松浦さんを弄ろうかなぁ。

 腕時計を確認するとすでに一時半を回っていた。お腹も空いたことだし、そろそろお昼と参りましょうか。

 私はポケットから携帯を取り出して、音羽にメールを送る。なお、私の昼食は音羽のバッグに入れられているため、音羽と落ち合わないと昼食が食べられない。少々面倒なことをしているけれど、私は自分のバッグと財布をわざわざ持ち歩かなくていいので楽。音羽にとってもバッグはレンズやメモリーカードを仕舞っておくのに必要なため、一応お互いの利は一致していることになるはず。それにほら、バラバラで寂しく摂るよりも二人で摂り合ったほうが良くない? 食事なんて特にさ……と、私は誰に説明しているんだろう。

 その後、よく分からないモニュメントの前で音羽と待ち合わせ、私たちは遅めの昼食を摂るために会場に設置されているベンチに腰掛ける。本日のお昼は今朝、こっちに向かう前に寄ったコンビニで買ったサンドウィッチと紙パックのコーヒー牛乳、それと腹持ちの良いゼリー。今日一日は栄養バランスを全く考えず、カロリーだけ摂取する食事。この食事だと、冬場で汗はかかないので年明けの体重計に乗りたくないぐらい増えてしまうのが恐ろしい……けど、外のイベントで、サラダを摂取する勇気は私にないので毎年諦めている。仕方ないね。

 昼食を摂り終わって一息ついたあと、私は大きく背伸びをしながら立ち上がり、音羽を横目で見ながら言う。

「ぅう……んしょ。えっと、私これから本ホールに向かいます」

「珍しい。ホールに、用事?」

「ちょっと会いたい人がいるからね。じゃあ、行ってくる」

「ん」

 音羽に一時的な別れを告げて、私は足早に本ホールへと入る。

 向かう場所は、私も音羽もよく知るある人物の元。


同日 午後二時四十七分 本ホール島中


 エントランスから入って北東側、舞台装置がある方向へと歩く。

 コミ○が始まってすでに四時間経過して、あと二時間もしないうちにイベントは終了するというのに、わんさかと荒波のように押し寄せる人をかき分けながら(これでも午前中に比べれば半分以上の人がいない状況)、私はカタログと地図を片手に一人とあるサークルを目指す。

 朝に比べたら人口密度が減ったせいかな、湿気はあるけど涼しくなったね。今年は今のところ救急車が呼ばれるような事態になっていないし、去年と違って少しは秩序を保たせてくれる人が増えたのかなぁ。去年は冬なのにも関わらず、熱中症で倒れる人が続出したもんね。水分は適度に補給しないとダメだぞ。

 騒がしいのにどこか静かな本ホールを目的のサークルに行く前に、所々で他のサークルが出している同人誌を立ち読みしつつ歩いて行く。

 なお、私はまだ十七歳なので、成年向けマークの入っている同人誌を立ち読みすることは叶わなかったりする。参加者の中には、成年でもないのにそういったエッチな本を立ち読みしている少年もいそうだけど。私はもちろんそんなことしませんよ? 健全ですから、まだ。

 そうこうしているうちに、目的のとあるサークルの前に着いた私は、イスに座っているサークル主に一言聞いて同人誌に手を伸ばす。

「見させてもらってもいいですか?」

「はい、どう、ぞ……はぇ?」

 私はニヤニヤしてしまいそうになる口元を必死に堪えながら、目の前のサークルが出している同人誌を手にとって軽くめく……ろうとしようとしたのだけど、凄い早さで目の前の人が私の手から同人誌を奪ってしまった。

「なんで、いるのよ?」

「なんでって言われても……ご覧のとおり、レイヤーとして参加してるんだよ? それに、先週の会話聞いてたんじゃないの?」

「えぇ、しっかりと聞いていたわ。だからと言って、貴方たちが最終日にまで来るなんて思っていなかったのよ。それに……はぁ、わざわざカタログから見つけたの? というより、知っていたの?」

「まあね。実を言うと前回の夏のコミ○でサークル参加していたのを見かけたんだけど、声をかけるヒマがなかったからねぇ。どうせ学校じゃ触れたくない話題でしょ? だから、サークル名だけ覚えて、カタログを片手にここまで来たってわけ」

「…………そう」

「がっかりしないでよ、委員長。あ、今は三毛猫ダンジョンさんと呼んだ方がいい?」

「ペンネームで、お願いできる?」

 ボソリと呟いて私のよく見知った知人さん、もとい三毛猫ダンジョンさんは肩を落として、明らかに落胆した表情を浮かべながら真っ白になってしまった。そう仕向けたのは、他ならない私なのだけども。

 前に書いた音羽の知らない委員長のデレの部分というのはこういうこと。

 なにを隠そう、サークル猫迷宮の中の人、三毛猫ダンジョンさんは私のよく知るクラスメイトで、委員長をしている今給黎さんなのだ。学校ではあんなにツンツンしている委員長が、ひとたびイベントにサークル参加すればご覧のとおり、信じられないほどの笑顔を周囲に振る舞いながら接客をする変わりっぷり。まさしく委員長の中にあるデレの部分。悪く言えば弱みとも言える部分。

 委員長の隠している部分を知れたという高揚感からか、私の口元はニヤついたままでいたため、かなり不機嫌そうな口調で委員長が口を開いた。

「で、なに? 笑いにでも来たのかしら?」

「あいや、そーいうわけじゃないんだけど……私はサークルメンバーじゃないけど、なにか手伝おうか? 手伝わせてくれるのなら、ですが」

「結構よ。と、追い払ってしまいたい気分だわ。でも、ちょっと休憩に入りたいから、売り子を頼みたいわね」

「休憩なんて……トイレって言えばいいのに」

「やっぱり売り子はいいわ。帰って」

「じょ、冗談ですよ、三毛猫さん……」

「そう……じゃあ、少しだけお願いしておくわね」

 こえぇ。メガネで目元が強調されてるせいか、いつもより倍以上に迫力ありますよ、委員長さん。

 今給黎さんがトイレ、及び休憩に向かったのを確認してから私は、通路側から長机を飛び越えて、コスプレマイスターという職業を一時的に脱ぎ捨てサークル猫迷宮の売り子へと代わったのはいいんだけど、売り子なんてしたことないから分からないんだよねぇ。数学が苦手だからお金の計算とかほとんど無理だし。でも、足し算と引き算ぐらいならなんとかなる、よね。

「三桁から四桁の計算で戸惑ってどうするの? そんなもの、小学生、しかも低学年でならうことじゃない」なんて自暴自棄になりかけた頭と心をリセットするために、私はサークル参加者に用意されたパイプ椅子に腰をかけて考えを切り替えることにした。

 てっきり、委員長は男性向けじゃなく、女性向けの本を出しているのかと思っていたけど、私の予想に反して意外や意外、そうでもなかった。表紙はアーケードで有名な格闘ゲームのヒロイン(多分。知らないので確信はありません)と主人公が飾っていて、セルフポップには『健全なギャグマンガです。』とまで描いてある。つまり、一般向け。これで委員長が成年向けの同人誌を描いていたら、これから委員長をイジるためのネタにできてたんだろうなぁ。

 私の居る周囲を見渡しても男性よりも女性の比率が多いから、委員長が描いてきた同人誌もイケメンの男子がわざとらしくはだけさせられた服、を着ているのかと思って期待してみたらそうでもなかったり。顎が異常に尖っていたり、キャラが二〇等身ぐらいあるわけでもない、どこもイジりようのない普通のマンガっぽい描き方。

 私だけしか今のところ知らない、堅物で生真面目なクラス委員長の裏の顔。日々妄想たくましく……だと、私も人のことを言えないのでなし。乙女ゲーを買うたびに主要キャラのカップリングを毎日考え、ベッドの上で悶える。ヘタレ受け、攻め、リバ、なんでもありで、「お前が先に誘ってきたんだろう?」なんて、キャー! 普段は男らしくないのに、こういう時だけ積極的なのね。あぁ、どこかの家政婦さんみたいに、危ない場所を覗き見してしまっている気分になるよ。

 …………はぁ。

「これでメガネ男子の絡みとか、濃いものを描いてたらネタにできたのに」

「葉月さんはメガネ男子が好きなの?」

「好きってわけじゃないけどさ、ほら、定番な感じがするじゃない? 普段メガネをかけてない男の子がメガネをかけて先輩に……うひょあ!」

「売り子、ご苦労様」

 これはこれは、早いお帰りですね、三毛さん。えっとですね、言い訳をしても良いのであればですね、中身は見ておりませんよ? ただ、普段はしっかりしている今給黎さんだからこそ、逆に、逆にね? 男男(だんだん)物を描いていたらギャップにファンが増えるんじゃないかなって。あとね、ネタにすると言っても、学校で直接的にイジるわけじゃないの。会話をふくらませる一つの手段としてあってもいいんじゃないかな、ぐらい。ほら、私と今給黎さんって、学校でもそこまで話さないじゃない。会話あってもいいよね、会話があってもいいよね? ね? 怒ったら、小じわ増えちゃうよ?

「言いたいことはそれだけ?」

「申し訳ございませんでした」

 恥もプライドもなく、パブロフの犬が如く私は頭を下げた。良い意味で潔い良い女の子だと褒めてくれてもいいのよ?

「……貴女って変わってるわね」

「そう? 他人と変わってるって薄々自覚はしてたけど、面と向かって言われたのは初めてだから変な気持ちになっちゃうね」

「私にその気はないわ」

「私にもないよ」

 休憩から戻ってきた委員長は私の言い訳を気にした様子もなく、余っているパイプ椅子を広げて、私の隣に腰を下ろした。

 イベントの終了時間が迫っているせいか、通行人の姿はほとんど見かけない。私たちは特に行動を起こしていないけど、一部のサークルは撤収準備をしていたり、隣同士の交流を深めるためにおしゃべりに花を咲かせたりしている。ちなみに、委員長の両隣のサークルはすでに撤収をしていて、長机の上は綺麗に片付けられていた。

「意外だった? 私がサークル参加しているのを初めて見たとき」

「えっ? うーん、まあ、そうだね。趣味が絵を描く事って、自己紹介で言っていたのは覚えてたけど、さすがにここまでとは思っていなかったかな?」

「……そう」

 うぅん、委員長の方から話を振ってきたのに返すトーンが暗すぎだよ……。そんなトーンで返されたら私も返答に困るなぁ。あーっと……普段話してないせいか、委員長との話題が見つからないねぇ。どうしよう?

「あ! そうだそうだ。漫画家とかイラストレーターになろうとか、思ってたりするのかな? 今給黎さんは」

「漫画家? そうね……考えたこと、なかったわね。夢を追っているだけじゃ、生活はできないと分かっているし、趣味を職業にしたいとも思っていなかったから。普通に就職をして、機会があれば描くぐらいでいいわ」

 そうなんだ。私はてっきり、こういった大きな即売会でサークル参加するなら、みんなそういった絵を描く仕事に就きたいことを夢見ていたのかと思ったけど、案外そうじゃないんだね。まあ、数百単位の人たちが参加しているんだから、中にはこういう考えをしている人もいるってことなんだろうけど……。

 夢を追っているだけじゃ、生活はできない、か。

 でも、その夢を追ってみないことには、先のことは分からないよね? 漫画家になって本が売れるかどうかは置いといて、自分が楽しい、続けていきたい、そういった趣味が仕事に繋がれば良いことなんじゃないかな? やってみて、続けてみて、挑戦して、挫折して、また挑戦する。現実を見すぎていたら誰も夢を追うこと、止めちゃうじゃない。

 なんて、私が夢追い人でもないのに、説教臭くしてどうするのよ。委員長は現実を見て、マンガは趣味で描いていく。それでいいじゃない。うん。

 人には人の、歩んでいく道がある。その道を決めるのは他の誰でもなく本人であって、他人が口を出すべきことじゃない。無理矢理敷かれたレールの上を進む人生でないなら、決定権は本人になくちゃダメなんだから。

 だから……、

「貴女はどうなの?」

「ん? なにが?」

「将来、したいことがあるんじゃないのかしら?」

「…………」

 私だって、そういうこと。

「ないかな。私も普通に就職して、普通のOLになって、普通に結婚して、普通の人生を送っていければいいや」


 ――書いていて思う。

 なんて強欲な人生設計なのだろう、と。

 今だから思う。

 普通とは口で言うほど簡単じゃない、と――


 そんな私の答えに物足りなかったのか、委員長は少しだけ不満気な顔をしたけどすぐにいつも通りの冷静そうな顔に戻った。メガネがキラリと光る、学校の教室でいつも見ている顔。

 私に趣味が見つかってもう少し落胆するかとも思ったけれど、意外や意外に委員長は割り切っているのか、実のところ心の奥では心底ヘコんでいるのか、私には判断できないけれど今見せている表情はいつも通り。個人的には面白くない。もっとこう、いつもは見せない恥じらいとか、乙女な表情を見せて欲しかったかも。ネタ的な意味で。

「貴女は幸せ者、ね」

 委員長の隣に座って、私たちの目の前を通過する人が極端に減った通路を見ながら、自然と会話が途切れたなぁ……と考えていたところに突然の言葉。しかも、私は最初委員長の言葉の意味が理解できずに、「はぁ?」と聞き返す始末。

 幸せ者。委員長は確かに私のことを幸せ者と言ったよね? う~ん、どうなんだろう?

「そうかな?」

「そうよ。公言している訳じゃないけど、貴女は自分のこういったオタク趣味を恥ずかしげもなく言えてるわ。あの日の如月さんとの会話もそう。気にするような性格をしていないだけでも、私は貴女を幸せ者だと思っているから。貴女と違って私にはイメージがある。クラスの委員長にも自ら志願するような、真面目な人間だって……」

 さり気なくバカにされた気がする。

「委員長にとって、幸せの定義ってなに?」

「えっ――?」

「今の発言を聞く限りさ、委員長にとっての幸せの定義は、私のように自分の欲望を口に出しても他人に咎められないことにあるような気がしてならないかな。その人の幸せって、他人からの目で判断されることなのかな? 例えば、例えばだよ? 二人の同い年の青年がいて、片方はバリバリ仕事のできて出世もしている人、片方は落ちぶれてしまったフリーター。休むヒマもない青年側から見ればニートの人はこの上なく幸せ者だよね。仕事もしないで自由にできる時間が、嫉妬するほどあるんだから。でもさ、フリーター側から見れば仕事ができている、出世する才能もある人は幸せ者だよね? 才能があるからこそ、仕事をできている。フリーターの人だって望まない状況で定職に就けていないだけの可能性もあるし」

 片方から見れば時間の自由が利く勝ち組。片方は仕事という社会的力を身に付けて、世論から見ても社会人という立場にいる勝ち組。その二人の考えは対極で交わることはない。なら、幸せの定義はその時点で決定的に違うことになる。

 逆に考えれば、仕事をしている人は仕事をしている間は幸せかもしれないでしょう? 他人から見て遊びに割く時間がなくても、今の仕事が好きだから苦じゃない、幸せだって言う人もきっといる。仕事、社会的立場を背負わされることがなく、遊びにだってバイトにだって好きに時間を使える今が幸せと考えの人もいるかも。

 人の幸せは祝福されるものであって、指摘されるものではない気がする。私は。

「あくまでも、私の意見だけどね。だから今給黎さんの意見を真っ向から否定する気はないし、否定できもしない。常にその状態が維持されていなければ幸せじゃないのなら、私の意見も根本から間違っているけどね。私から見れば今給黎さんも幸せだと思うな」

「私が……幸せ者?」

「うん。絵を描くことが仕事じゃないのなら、どうして今給黎さんはコミ○にサークル参加しようと思ったの? 絵を描くことが好きだから描いている。その延長線上で、自分の描いてる絵が評価されて、誰かが買ってくれる。嬉しいことじゃない? それってさ。だったら、そんな今を幸せとは言わずに、自分にとってはどういう状況が幸せなの?」

 お金があって、遊ぶ時間もあって、自分の好きな事もできて、美味しいご飯が食べられて、社会的地位も確立していて、家族がいて、友人がいて、恋人がいて、なにをするにも不自由のない状況が幸せと呼ぶのなら、私には一生縁がない言葉になる。ほら、幸せって身近にあるものなんでしょう? ならさ、そんなもの無くても、誰かが「君はその程度で幸せだと感じるのか」と笑っても、本人が小さい幸せを感じているなら幸せなんじゃないかな。

「なら、貴女にとっての幸せってなに?」

「私? 私にとっての幸せかぁ……強いて挙げるなら衣装を作る過程の時かも」

「作る過程?」

 コスプレが可能なイベントがあるたびにあれこれ考える。前回はあのキャラのコスプレをしたから今回はこのキャラのコスプレ、前はゲームだったから次はアニメ。どんな生地にすればよりリアルに見えるのか、背景に馴染むためにはどういった配色をすればいいのか、折り返しの工夫や縫い方の工夫だけじゃなく、アクセントを付けてみたり、ワンポイントを付けてみたり、やってみたいことはたくさんある、試してみたいことはたくさんある。想像を膨らませつつデザイン画を描いて、デザイン通りに進むときもあれば変えなければならない、妥協しなければならないときもある。失敗して、生地をダメにしちゃってもすぐに次を作りたい。

 たくさんある一の素材から、十という完成品を作り出すまでの過程。苦労して衣装が出来るまでの過程。私の場合はその過程からどこを取っても、きっと楽しんでるに違いないから。楽しむことができなければ、出来上がった衣装に喜びを感じられないのなら、作る過程を幸せとは言えないと思うね。

「今のところ将来への展望はないけどね、えへへ。学生の立場であくまでも趣味の一環として作っている過程が幸せなだけ……将来的にこれで食べて行ってもいい、服を作ることに縛られてもいいのなら、仕事として服を作っていっても幸せなのかも」

「……そう」

「あっと、えっと、その、あくまでも、あくまでも私の意見だからね。今まで真面目に振舞ってきただけ今給黎さんには周囲のイメージもあるだろうし、いきなり自分の趣味をぶっちゃけて、周りの人に受け入れられなかったら怖いもんね。その為にはコソコソと家で描かないといけないし……だから、その、あーっと……」

 私が必死に弁解しようとワタワタしていると、その様子が本当に面白かったのか、委員長は口元を抑えながら笑みをこぼした。

「ふふっ、良いのよ、無理しなくても」

「別に無理をしてるつもりはない、かな」

「えぇそうね。貴女は根が素直だもの、無理していたらすぐ口に出して言うものね。きっとそうなんじゃないかなとは、思っていたわ」

 えっと、今のは褒められたのかな? よ、喜んでいいんだよね? じゃなくて、私、委員長が笑った顔初めて見たよ。体育祭の優勝の時ですら微笑みもしなかった委員長が、私の目の前で、私を見て笑ってる。なんだろ、この気持ち……こそばゆいというか、嬉しいというか、どう表現したらいいか分かんない気持ち。

「葉月さんどうしたの? 急にニヤけて……」

「ん? ん~、よく分かんないけど、ついついニヤけちゃった」

「はあ……でも不思議ね。私たちが出会って三年弱も経つのに、こうして正面切って話すのは初めてなんて。しかも、話をするのがこんなイベントでのサークル内なんて、考えてもいなかったわ。私に友だちがいないのも、理由の一つかもしれないけれど」

ん? 今の委員長の発言だとまるで、

「私たちが友だちじゃないみたいだけど?」

「はぁ? 貴女、なにを言っているの? 私と葉月さんはクラスメイトであって、友人関係とは言えないんじゃないの? 今までろくな会話をしていないのだから」

 いや、いやいや、今までおしゃべりをしてこなかったけども、今ここでおしゃべりを私たちはしてるじゃない。なら私たちは友だちでしょう? 見ず知らずの他人とおしゃべりをしているだけなら、友だちと呼ぶのは早いかもしれないけどさ。少なくとも私と委員長の間にはクラスメイトという関係が成り立っているのだから、こうしてるだけでも友人関係って呼んじゃいけないの? 一緒に遊びに出かけたり、ご飯を食べたり、毎日キャッキャウフフしているだけが友だちじゃないでしょ? 初めてがっつりとおしゃべりをする場所の雰囲気とはほど遠いけれど、友だちと呼べるおしゃべりをする時に場所は関係ないし。

 私がこれで委員長を嫌っているのなら、委員長から嫌われているのなら馴れ馴れしく友だちと呼んでほしくない、という気持ちもあるかもしれない。でも、私は委員長を嫌ってないよ? 好きと言ったらまた別の意味になってしまうから自重しますが。それにさ、変な話、将来の夢だって語り合っちゃったじゃない。話す内容の順序が違うと音羽からツッコまれそうな気がしてなりませんけども……あ、個人的には音羽とも友人関係を築いてほしいかなとは、思っています。あれでいい子だから。無表情で言葉がたどたどしくて、委員長がツンケンしたくなるのも分からないでもないけど、やっぱり真ん中にいる私としてはどちらにも仲良くしてほしいかな。まあ、音羽も悪びれていない悪さ、があるのも事実だからねぇ。音羽の親友は私じゃなくてカメラだし。悲しいなぁ……。

 と、音羽の話は置いといて。

 今までにそんなことがなかったなら、この場所から、この瞬間から私たちは友だちでいいじゃん。教室でおしゃべりをして、一緒に帰って、一緒に遊んで、一緒に買い物をする。今日で世界が終わるわけでもないし、卒業まで、卒業以降にも友だちらしいことをしていけばいいだけ。そこまではしなくても……みたいなことだって大いにアリ。時には見苦しいケンカもしていいのよ、友だちなんだからさ。愚痴を言い合うだけの仲でも、友だちだからこそ許される。逆に相手に対する文句や不満を溜めすぎるのは良くないね。溜まり過ぎたら会うのが楽しいって思えなくなっちゃうから。

 友だちになるのに、今までの関係なんて関係ない。大事なことはこれから友だちとして過ごす時間。

 数年、数十年後に振り返って、この人と知り合えて良かった、友だちの関係を築けて良かったと思えるようになりたいな、私は。

「って、今給黎さんはどうして顔赤くしてるの?」

「いえ……凄いわね、と思って。恥ずかしげもなくそんな言葉をサラリと言えるなんて、私には無理だから。貴女のそんな性格が羨ましいと思う反面、私も貴女の言う友だちの輪に入れて、引っ張って行ってもらいたいと思う気持ちもあるわ」

「だーかーらー、もうこうしておしゃべりをしているだけで、私たちは友だちなの。すでに今給黎さんも輪の中に入ってるの。ほら」

 そう言って私は委員長に向かって右手を差し出す。私が手を差し出した理由を最初、委員長は理解できていなくて、頭の上にハテナマークがいくつも出ていたのだけど、しばらくして私の手の形を見てようやく意味が分かったのか、真っ赤に赤面してうつむきながら委員長も私の右手を自分の右手で握った。

 ひんやりとして、指先にペンだこが出来ている柔らかな白い手。

「えへへ、これからもよろしくね、委員長」

「あっ、そ、その…………こちらこそよろしく……」

 冬の会場は冷たくて寒いけれど、握られた私たちの手はほんのり温かい。カッコつけて表現するのなら、私たちの間にあるのは人の温もり。どんな冷たさも消し去ることができるほどの、人の温もり。

 なんちゃって、ね?

「ところで、委員長と友だちになれたのは喜ばしいことこの上ないのですが、私、委員長の下の名前知らないんだよね。今給黎さんってことぐらいしか。だからこれを機に教えてもらえたら嬉しいかなぁって」

「はぁ?」

 先ほどまでの照れた顔はどこへやら。委員長は怪訝な顔になって、私の言葉に心底落胆したようだった。 しょうがないじゃん、忘れちゃったんだから。

「入学式後の初めての授業で一回、クラス委員長立候補時に一回、修了式のクラス代表で一回、二年生になって再びクラス委員長立候補時に一回、体育祭選手宣誓代表時に一回、学年集会での皆勤賞及び奨励賞代表者受賞時に一回、三年生は新入生に対する在校生代表あいさつで一回、体育祭選手宣誓代表時に一回、文化祭クラス代表あいさつで一回の少なくとも九回は貴女の前でフルネームを言っていたはずなんだけど?」

 よく覚えてるねぇ、回数の数え方もなんだか意地の悪い小姑みたいだわ。うわ、うわぁ……なんでしょうか、この後悔感。私が求めていた友だちの輪ってこんなんじゃないのに。委員長と友だちになれたのは嬉しいけど、こんなんじゃない!

「ふふっ、冗談に決まってるじゃない、葉月さん。それに、私は貴女から『委員長』というあだ名で呼ばれるのは嫌いじゃないわ。正確にはたった今、嫌いじゃなくなった、のだけど。私だけでしょう? 貴女が委員長って呼んでくれるのは」

「まあ、そう、ですね。他にいないし」

「うん。ならこれからも委員長って呼んでくれる?」

 そうですか。ま、委員長が呼んでと言ってくれるなら、呼びますけど……なんでそんなに嬉しそうな顔をするんですかね? あれですよ? 今給黎さんが委員長をしていなくても、真面目な性格をしていそうだから委員長って安易に付けてしまったニックネームですよ?

「本当に、貴女って考えてることが顔に出るのね」

「えっ? 出てた?」

「ほどほどにね。さっきも言ったでしょう? 貴女が付けてくれたあだ名なのだからいいのであって、そこにとってつけたてしまったような、とか、短絡的思考で生まれてしまった、なんて考えなくていいのよ」

「はぁ……そんなものかな?」

「そんなものよ」

 なら、いいですけど。

 そこからは他愛もない会話……も私と委員長の間で交わされることもなく、なんだか恥ずかしさにも似た気まずさの空気が漂ったまま、更衣室利用可能時間である十六時が迫ってきてしまった。べ、別にこの場から立ち去る理由ができたとか思ってないから。えぇ、私たちはもう友だちなのですから、空気が気まずくなっちゃったから逃げたいなんて思っておりませんよ。

「じゃあ、私は着替えてくるよ。更衣室の利用時間、もうすぐで終わっちゃうから」

「そうなの? こっちよりも早く撤収しないといけないのね」

「人によっては時間がかかるから、なのかなぁ? ともかく――」

 私は姿勢を正して、今給黎さんを正面から見つめてから頭を下げる。衣装のままで若干締まってないけど、それは気にしない。

「今年一年、お世話になりました。来年は卒業で、きっとバラバラになるけど、会えるときにまたここで会いましょう。じゃあ、またねぇ~」

 軽く手を振ってから私はその場を後にする。後方から委員長の言葉が聞こえた気がするけど、私はカッコつけて振り返りはしない。別れ際も爽やかに、惜しみなく、去っていくのが私の流儀。まあ、初めてやりますけど。


 ――ただ、普段しないことを急にするのはよくない、というのは教訓になった。それと、言葉には力がある、なんてことはないことも。たった一度発した言葉に力ができるなんて思いはしないけれど……。せめて、生糸の太さにも満たない、細い細い希望の糸が垂れていてほしかった。見えていてほしかった。

 こうやって私が愚痴りながら書いているということは、その時の言葉に力があって欲しかっただけなのかもしれない。都合のいい時だけ頼る神様のように。

 何故ならこれが、私が今給黎さんの姿を見た最期、だったから――



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