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佐久間信盛の没落  作者: 梶原崇
3/3

徳川家とのいざこざ




「あの頃、某はまだ童だったので詳しくは知らないのですが、何があったのですか」

「うむ……話せば長くなるが――」







近頃では御館様の謀で巷に流された噂が信じられておる。

曰く、織田様と徳川様は幼き頃よりの友であり、両家の盟約は友と友が交わした固き契りである。そして織田は尾張を、徳川は三河を治める取り決めを交わしたと。

しかし実は違う。三河の政は、三河殿や御重臣の酒井殿の一存で決められるものではない。

水野殿が深く関わっている。武田との戦で我らと共に戦ったあの水野殿だ。


知多の水野殿や戸田殿は古くから御館様に従っていた。その働きから水野殿は三河の事で御館様から重く用いられてきた。

故に三河の者たちは政で重要な事について、三河殿だけでなく水野殿にも伺いを立てている。

そして三河の出来事は水野殿を通じて御館様のお耳にも届くわけだ。

この仕来りを、徳川殿の御家中には快く思わぬ者も居ると聞く。

幸いなことに徳川殿は母御の実家である水野家を慕い、叔父の水野殿を敬っているから、諍いには至らぬがな。酒井殿も若い頃は織田家に組したことがあって縁があるから、水野殿に悪意は抱いておらぬ様子だ。


さて、三河国の政にはこの儂も関わっている。

久六は上方での務めで忙しい故、詳しくは知らぬであろう。だが我ら佐久間家の者共が昔から三河で戦ってきたことは存じておろう。

儂も若い頃は桃厳様に従い、三河の国衆や今川の兵と戦った。桃厳様とは御館様の御父上の織田弾正忠信秀様だ。


そうして長年三河で争ったが、三河殿が今川家から離れて御館様に従われたので我らが戦で三河へ出向くことはなくなった。

……否、その後も三河へ馬出しをしたことはあった。


あれは永禄九年のことであった。

当時は天下の人々が大騒ぎをしていた。前年に三好家の者どもが阿波公方に唆されて、征夷大将軍であらせられた足利義輝公をこともあろうに弑逆した。義輝公の政を快く思わぬ阿讃の者共が企てを為した。

義輝公の弟御の覚慶様、この方が今の足利義昭公であらせられる。公は逆臣を退けて政道を正すべく、諸大名に上洛の兵を挙げよと促された。

尾張国を統べる御館様にも合力が求められた。御館様は室町殿を支えて海内静謐を成す大志を抱かれた。

かねてから誼を通じていた浅井家の他に、その浅井家と争う六角家、さらに宿敵だった美濃の一色右兵衛大夫とも手を携えて上洛の壮図を果たそうと為さった。

その頃の儂は御館様の命を受け、大和国の松永弾正殿と書状を交わして上洛の準備を進めていた。

うむ、先頃御館様に刃を向けたあの松永久秀殿だ。

されど昔は、三好家の御当主だった三好左京大夫殿が足利義輝公への忠義篤き故に逆臣から疎まれ御家を乗っ取られており、三好家に仕えた松永殿は左京大夫殿と共に、阿波公方に組する輩と争っていた。

しかし阿波公方の勢い盛んで、松永殿は一日も早く覚慶様の御上洛をと御館様に訴えた。

その辺りの話は久六よ、汝の方が詳しく存じておるのではないか。汝の舅殿は三好殿、松永殿に合力した畠山高政殿の御家来だったからな。


ところが六角承禎は邪心を抱き、阿波公方に通じて覚慶様の御座所へ兵を向けた。

六角承禎は長年義輝公をお支えした者故、この愚挙に皆が驚いた。あるいはその子の右衛門督義治が企んだのやもしれぬ。

そして公は比叡山の僧兵と朽木谷の者共に守られて難を逃れ、若狭国へ移られた。

……うむ、我らが焼いた延暦寺だ。

もっとも公方様をお助けした功がある故、我らは全山尽くを焼き払う真似はせず、仏道に背く悪辣な輩のみを討ち見せしめとした。比叡山には森家の三左衛門殿を手厚く弔った寺もある故、御館様も手心を加えよと仰せられたのだ。

甲斐の信玄公が延暦寺の坊主共に頼まれて御館様を手酷く罵ったせいで、巷では織田の悪事と嘯く者が後を絶たぬがな。


話を戻すぞ。六角家が公を襲ったという報せを受けた御館様は公の安否を浅井家に問い合わせた。すぐに御無事と知れたが、六角家の謀反により直ちに上洛の挙を為すは極めて難しく、御館様は先ず背後を固めようと御考えになられた。


あの頃、三河の西では未だ三河殿に従わぬ者たちがいた。

そこで儂が兵を率いて、従わぬ者たちを攻めるようにと御館様から命じられた。

御館様の御息女が三河殿の御子息に嫁がれると決まっていたから、輿入れの道中の無事を確かなものにするための戦でもあった。


戦は我らの勝ちであった。

そもそもあの者たちには織田家に歯向かう心積もりなど無かったのだ。

早々に我らの陣を訪れて降参した者たちは、松平殿に従いたくない、織田様に仕えたいので佐久間殿を待っていた、と言い募った

何故かと儂が問うと、ある者は大恩ある今川家を裏切った恩知らずを主に仰ぐことはできぬ、ある者は我らが帰依する寺を悪辣な謀で虐げた仏敵に組したくはない、と申し立てた。松平殿に恨みはないが民の商いのためには上方に近い織田家に従うが得策と申す者もいた。


そこで儂は困り果てた。そやつらを成敗して松平殿にお仕えするように執り成せと、御館様から命じられていたからだ。

松平殿は三河の半ばを平らげた大名であり、やがては朝廷から三河守の御役目を授かることを望んでおられた。そして御館様は上洛の挙を成すためにも松平殿との誼を固く結ぶことを望まれた。


かといって矢を交わす前から軍門に降った者たちを無碍には扱えぬ。武士は相見互い、支え合うものだからな。


流石に儂の一存では決めかねるので御館様の御意向を伺った。また水野殿に御意見を求められるようにと進言した。

事は三河の者の扱い故、御館様の御一存で決められても松平殿は面白くなかろうと儂は考えたのだ。

その点、水野殿は適任だった。尾張にも三河にも多くの所領を持ち、何より松平殿の叔父御でもある。


そうして御館様と水野殿が話し合われて、此度織田家に従った者たちを儂の寄騎とすると決められたのだ。

儂は辞退を申し上げた。松平殿との諍いになるのではと懸念したからな。

あの頃の儂は覚慶様、還俗された足利義秋公の御上洛に向けて上方の諸将の取次で多忙だったことも断りの理由であった。


しかし水野殿が儂に頼み込むので、儂は遂に断り切れずこのお役目を引き受けた。

水野殿と儂は長年戦場で助け合った友であるし、何より水野家と佐久間家は昔からの付き合いがある。

とはいえ儂一人を矢面に立たせるのは申し訳ないと水野殿は申してな。松平殿へ話を通したのは水野殿だ。


うむ、そうだ。水野殿が間に入ったので事は丸く収まった。

表向きはな。

不満を抱く者は今でも居る。当然であろう。

三河殿が水野殿に寄せる信頼を憚って、その者共が口を噤んだことで却ってしこりを残したかもしれぬ。


まあ儂や水野殿が陰口を叩かれるだけで済んでいるのだから、事を荒立てることもなかろう。

岡崎の三郎様、三河殿の御子息であられる信康様は嬉しいことに儂を慕ってくださるのだし、この後も大事にはなるまい。

徳姫様の御輿入れでは、儂の与力となった三河の者共がよく働いてくれた。


尤も、此度のように三河殿に合力する折は苦労するがな。


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