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佐久間信盛の没落  作者: 梶原崇
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敗軍の将

「お、おめおめと逃げ帰ってきたのか? 一戦も交えず? せめて吉田か岡崎に留まり徳川に合力しようとは考えなかったのか? 何故汝を近江から呼んだと思ったのだ!? 汝が三河の地理に明るいからではないか!」


尾張国清州城。織田信長がかつて居城とした城である。居城移転後も尾張の重要な城であり、今は織田信長が大軍を連れて戻っていた。

その城下の屋敷で、武田との戦から生還した佐久間信盛は主君から叱責を受けていた。


「誠に面目次第もなく……されど急ごしらえの手勢ゆえ士気は低く兵糧の手持ちも少なく、逃亡兵は賊となる恐れがあり、遠州三州に留まっては却って迷惑と考えた次第」

「汝の面目など知ったことか! 兵糧は後から幾らでも送ってやったわ! 俺は三河殿に会わせる顔がない! 皆が血を流して築き上げた我が家の信望は地に墜ちた! 何故戦わなかった!? せめて一族の者でも死なせておけば天下に釈明できたのだ! それを一人も、一人も死なせず連れ帰るとは!」

「返す言葉もござりませぬ……」

「監物は見事だった! 武田の大軍と戦い討死して武士の誇りを示し両家の誼を守った! 比べて汝はどうだ!? 汝だけ逃げ戻ったことを恥とは思わぬのか!? 汝と凡秀は昔馴染ではないか!」

「平手殿の死は御家の大いなる損失であり、某も無念でなりませぬ――」

「かくなる上は三河へ戻り武田軍と戦え! 奴らは三河に居座り三河殿の所領を荒らしている! 勝てとは言わぬ、誰でもよいから武田の将と刺し違えろ! さすれば三河殿も汝を許すだろう!」

「信玄入道の狙いは織田家を叩くことであり、美濃へ兵を進める機を窺っております」

「知っておるわ! 絵図を描いたのは朝倉であろう! 美濃の侍に誘いの文をまき散らしておるからな! 雪解けと共に東西から美濃へ攻め入る魂胆なのだ!」

「故に三河で徒に兵を失うは得策ではなく――」


織田信長は顔を怒りで真っ赤に染めて怒鳴りつけた。

信盛はひたすら頭を下げ続けた。

主君の織田信長は普段は陽気で寛大なのだが、激昂すると口数がさらに多くなる。拳を振るうことはまず無いが、代わりに大の大人が口惜しさで涙を流すほどの罵声を浴びせ続けるのだ。

嵐が収まるまで身を低くしてやり過ごすしかない。


「武田など後回しでよい! 我らの荷留めで窮乏した奴らは今や小城一つ落すにも難儀しておる! 朝倉家中も本願寺と手を組むことに不安を抱く者たちは動かぬように仕向けてある! 今は帝を蔑ろにする将軍を躾けるのが先だ! 甲賀にしがみつく逆臣六角は必ず討て!」

「見事な御手際と存じます。然らば某は近江へ戻り六角討伐に加わりたく存じます」

「三河殿への詫びが先だ!」

「……」


嵐はいつ収まるだろうかと佐久間信盛が考えていると、織田信長は傍に控える老臣の林秀貞から一通の書状を受け取った。


「汝の罪はただ戦わず逃げたことだけではない! 三方ヶ原で三河殿が敗れたのは汝が戦わなかったせいではないか!」

「敗因は三河殿が我らの進言を拒み、武田軍に誘い出されて待ち伏せされたことであり、我らに落ち度はないと――」

「三河殿の使いが口上でも汝の怠慢を並べ立てておったわ!」

「…………」


三河殿も強かなことだと、佐久間信盛は平伏しながら呻いた。

敗戦の責を織田軍の佐久間信盛に被せることで国人地侍の離反を防ぐと共に、信長の心証を少しでも良くしておこうとしたのだろう。何せ家康は信盛たちの制止を振り切って出陣、敗北し、大軍を連れて救援に向かっていた信長の苦労を台無しにしたのだから。

もちろん徳川からの報せを信長が鵜呑みにするとは考えていないだろう。大敗した直後という最も苦しい時期に兎にも角にも信長に報告して指示を仰ぐ姿勢を示したという事実で歓心を買おうとしたのだ。

あるいは使いの者の独断だろうか。家康自身は佐久間信盛を嫌っていないし、家康が敬う水野信元と佐久間信盛は親しい間柄だ。

怒るよりも呆れるよりも先に、家を守るためならどんな策も弄するその執念に、佐久間信盛は尊敬の念を抱いた。


「もう一度言う。直ちに三河へ行き、武田軍と戦え!」

「怖れながら申し上げます」

「まだ渋るか! ……久六か、申せ」


織田信長の怒気が和らいだ。佐久間信盛の後ろに控える保田安政の存在に気が付いたからだった。

信長は保田安政や彼の兄弟の武将としての力量を高く評価している。特に長兄である佐久間盛政には大きな期待を寄せている。

従兄殿は立派な子供たちを遺した――佐久間信盛はそんなことを考えた。


「我らは御館様の命とあらば、喜んで戦に赴きます。某も佐久間の家の者、右衛門尉信盛の采配に従い、討死するとも佐久間の武名を挙げてみせましょうぞ」

「待て、そなたは保田の家に婿入りしたではないか。継いだ家を蔑ろにしてはならぬ」

「お市の方様が浅井家に留まる道を選ばれたように、ですか」

「む……」

「殿が仰せの通り、人は継いだ家、嫁いだ家の為に働くべきと某は若輩ながら存じております。ところで我が保田家の所領は紀伊国と和泉国、河内国の境にあります。先ほどの御言葉通り公方様が御謀反なさるとしたら、公方様の娘婿であられる河内の三好左京大夫殿の動きが気がかりです。三好殿が動けば、その傅役を自認する松永弾正殿も謀反に加担するやもしれませぬ」

「…………」


信長が黙ると、頃合いを窺っていた林秀貞が口を挟んだ。


「殿。織田家が総力を挙げて秩序をもたらした上方が乱世に戻ることは万難を排して阻止せねばなりませぬ。佐久間殿は大和国の国人地侍と付き合いがあり、河内国には縁者もおります。公方様の軽挙をお戒めするためにも、佐久間殿を近江へ戻されては如何」

「…………」


信長はしばし書状を見つめて、それから佐久間信盛に対して頭を下げた。


「俺が浅慮であった。赦せ」






林秀貞に促されて部屋から下がった佐久間信盛と保田安政は屋敷を出て馬に乗り、佐久間家の縁者が構える屋敷へ向かった。遠江へ連れて行った兵の手当の相談や、近江への旅路の支度を整える必要があったのだ。


屋敷へ入り部屋で一息ついた信盛は、すぐにも河内へ戻りたいと支度を整えて挨拶に来た保田安政に感謝の言葉を伝えた。


「助かったぞ。礼を言う」

「お気になさらず。殿に申し上げたことも、畠山様から伺っていた御意見でしたから」

「そうか、畠山殿が」


紀伊国の国人である保田家は、河内半国の守護である畠山昭高に仕えている。畠山家は元々紀伊と河内を治めていた。

畠山昭高は将軍足利義昭と織田家を支持する大名の一人だが、将軍が織田家を見限ってからは将軍に味方する勢力に囲まれて苦労していた。


「ところで畠山殿もどちらに味方するか迷っているという噂があるが」

「御館様にも申し上げましたが、畠山の殿様は織田家にお味方なさっています。去就に迷っているという噂は公方様や本願寺、あるいは守護代を務める遊佐殿の謀かと」


ありえる話だ、と佐久間信盛は呟いた。

相手に疑念を抱かれた武将は、身を守るために本当に敵方へ寝返ってしまう。その成果に期待して、噂を流すのだ。

先頃もそのような事があった。


摂津国の池田勝正という大身の武将が、その家臣の荒木村重に家を乗っ取られた時のことである。

池田は現将軍足利義昭と敵対する阿波公方の支持者だったが、織田軍の攻撃を受けて降伏した。

織田家の軍門に降ってからは現将軍への忠勤に励み、三年前の金ヶ崎の戦やその前年の本圀寺の戦では将軍や織田軍の危機を救った。

しかし阿波公方を奉じる阿波・讃岐衆や本願寺の反撃などが続く中で、池田勝正は阿波公方派へ寝返ったのではないかという噂が巷に流れた。

本当に寝返ったのは謀反を起こして池田勝正を追い出した荒木の方だったが、当時の上方の混乱は酷いもので池田が疑われてしまった。

その池田は今、織田家に身を寄せて荒木から城を奪い返す機会を窺っている。


「済まなかった。儂も畠山殿を疑ってはおらぬ。河内の国衆や御家中の安見殿からも内情は伝えられているからな。ただ噂というのは恐ろしいものだ。畠山殿も周りが敵ばかりで難儀しているだろうが、近い内に大殿に会いに来られるよう保田の舅殿から勧めてみてはどうか」


河内の事情は佐久間信盛にとっても他人事ではない。保田家と同様に畠山家に仕えている安見家に、佐久間信盛は可愛い娘を嫁がせた。


「それにしても、殿の剣幕を目の当たりにしてよく平然としていられたな」

「いいえ、圧倒されました。兄から聞いてはいたのですが、失礼ながらまるで別人のようでした。右衛門様こそ、余裕綽々といったご様子ですが」

「儂は先代桃厳様の頃からお仕えてしているからな。殿が御舎弟と家督を争われた折、殿にお味方した重臣は儂と、後に桶狭間で討死された方々くらいであった。殿も皆の前で儂を罵倒はできぬのだ。此度はお傍に控えていたのは古馴染の林殿のみだったしな、晒し者にはせぬという御配慮であろう」

「あれほどの罵詈雑言でも殿は手心を加えておられたのでしょうか?」

「うむ。それにな、殿が気難しくなられたのはそう昔のことではない。上洛してから御苦労が絶えず、そのせいやもしれぬ」

「弟君やお若い頃からの忠臣が大勢討死されましたからね」

「無論それもある。が、背負われた御役目が重過ぎたのかもしれぬ」

「海内静謐。日ノ本のあるべき姿を取り戻す、ですか」

「うむ。誰かが為さねばならぬし、畏れ多くも帝が織田家に御期待を寄せられておられると親王様から伺っている。我らが為すのだ」


佐久間信盛は拳を握った。鍛錬と戦で鍛えた体には力と英気が漲っている。


「此度は些か疲れたがな。いつ頃になるか分からぬが、落ち着いたら儂も平手殿の供養をしようと思う」

「良い御考えと存じます。それにしても、三河様の御家中は難儀ですね。御館様も気を遣われておられる御様子でしたし」

「殿は三河殿に負い目を感じておられるようだ。儂への罵倒は、その負い目を軽くしようとなさってのことやもしれんな。戦の度に言われては儂も重臣として立つ瀬がなくなるが」

「気になっていたのですが、右衛門様は三河様の御家中から恨まれるような心当たりはおありですか?」

「ある」

「え、あるのですか?」

「佐久間の家は昔、松平家と争っていた。我らの父祖が三河平定を目指す織田家に仕えていたためであったが」

「父から何度も聞かされました。昔の話ですね」

「それでも恨む者はいるのだ。もっとも、今の不満を口に出せぬゆえ昔のことを持ち出しているのやもしれぬ」

「今の不満というと、織田家に扱き使われていると」

「海内静謐のために大名たちは力を尽くすべきだと殿はお考えだ。三河殿もそうするべきであるし、織田家はどの家よりも多くの犠牲を払って来た。今後も多くの血を流すことになるであろう。だが内にも外にも、納得せぬ者は少なくないのだ」

「左様でしたか。ですがまだ得心がいかないこともあります。今のお話ですと、その理由で恨まれるのは佐久間家だけではありません」

「うーむ……やはりあの時のことで恨まれているのか」

「あの時?」

「今から七年ほど前、永禄九年に一騒動あったのだ」


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