夢の中の声
青木健太郎は夢を見ていた。俗に言う明晰夢である。それは普段夢などみない彼にとっては、ある種の懐かしさを思い起こさせるものであったが、不思議と悪い心地はしなかった。
(ここはどこだ?)
健太郎は自分がベッドに横たわっているという感覚はあったのだが、それが普段寝ているベッドではない事に気付く。シーツはいつもより暖かく、枕も柔らかい。天井を見上げて見ると、蛇のような木目が視界に映る。
(俺の家か?)
薄ぼんやりとした記憶であるが、彼が過去に住んでいた景色が脳裏を過ぎる。健太郎は身体を起こして周囲を確かめようとしたが、妙に気怠い気持ちが彼を襲い、それを遮ってしまう。明晰夢とはいえ、残念ながらそこまで自由の効く夢ではなかった。
(どうせすぐに目覚めるだろう)
健太郎は身体を起こすの諦め、天井の木目をぼんやりと眺める事にする。すると次第に彼の意識は薄らいでいった。健太郎自身、こうした夢を見る事は別段珍しい事ではないので、今回も意味の無い有象無象の一つ程度にしか思えなかった。
しかし眠りに落ちようとする最中、遠くで家のコールが鳴る音がして、健太郎はハッとする。
「ジリジリジリジリ……」
(誰だ?……)
健太郎は再び身体を起こそうと曖昧な意識を集中させる。しかし必要な時に限って夢というものは覚めてしまうもので、健太郎も自らの意思とは反対に、この夢がじきに覚めることを感じていた。
(……ダメだ、起きる)
感覚が次第に混濁していく中、健太郎はドアが開く音と共に、微かに響く声が聞こえたような気がした。
(お……よう、××クン)
「……兄さん、兄さん?」
健太郎が目を覚ますと、そこはいつも通りの自分の部屋で、ソファで寝ていた彼の前には同居しているアンドロイドである愛莉の姿があった。脂汗をかいている彼をまるで心配するように、機械である彼女は直立している。
「酷くうなされていたみたいですけど、怖い夢でも見たんですか?」
愛莉は健太郎を気遣ってか、彼の側に寄り添うと手に持っていたタオルで汗を拭こうとする。しかし健太郎は、夢の内容が気がかりなのと寝起きというのも相まって、無言で彼女のタオルを手に取った。
「酷いです!せっかく私が気を遣っているというのに!」
健太郎の素っ気ない態度に愛莉は怒りのような感情を露わにする。寝起きの悪い健太郎にとって、ただでさえ夢の内容を思い出せず不快であるというのに、必要以上に接してくる愛莉は少々うっとおしい物であった。
「お前夢なんて見ないだろ。何がわかるっていうんだ」
「確かに私は夢なんて見ませんけれど、データベースに夢についての情報があります。幼い子供は夢をよく見るもので、恐怖を感じた際には心的ケアが必要であるそうですね!」
健太郎の棘のある返答を理解していないのか、愛莉は少し的外れな事を言うと健太郎の頭を撫でようとする。
「俺は子供じゃないからその必要はない」
「……あ、確かにそうでした。えへへ……」
愛莉はそう言うと、少しモジモジする仕草で手を引っ込めた。彼女は仕草や表情などは豊かだというのに、基本的な接し方にまだ難がある。健太郎は呆れると、リビングの時計に目をやる。意外にも長く寝ていたようで、時間は七時を回ろうとしていた。
「愛莉、悪いが俺は風呂に入るから、軽い夕食を作っておいてくれないか?」
次第に目が冴えてきた健太郎は、自身の着ているYシャツの臭いが気になった。まだまだ年齢的には若い健太郎であったが、技研入社後は職場以外での外出や異性との交流が減ったこともあって、生活習慣や身の回りがかなりおざなりになっていた。小林がそんな健太郎を見越して愛莉を同居させたのかは定かではないが、結果として愛莉が来て以降は、健太郎の生活は改善されていた。
「わかりました!ちなみに先にご飯にしますか?それともお風呂ですか?あるいは……」
「風呂だ。入っている間に飯を作っておいてくれ」
健太郎は愛莉の誘惑するプログラムなど意にも介さず、Yシャツを脱ぐとそれを乱暴に愛莉の顔に投げつけた。
「うわっ!どうして私に投げつけるんですか!」
「うるさい。ついでに洗濯もしておけ」
そう言うと健太郎は上半身裸になり、そのまま浴室へと向かってしまった。残された愛莉は、彼の脱ぎ散らかした衣服を抱えて一人人間のようにボヤく。
「新見さんが勤務時間外の兄さんを見たらショックでしょうね……」
愛莉は健太郎に密かに憧れている開発局の新人をメモリ上に浮かべ、現状と勤務中の彼が別人のようである事を再度記録した。記録を終えた愛莉は、健太郎の入った浴室からシャワーの音が聴こえるのを確認すると、先ほど投げつけられたYシャツを再び手に取る。
「さて、今日のストレス値はどうでしょう」
愛莉は健太郎のYシャツに顔を埋めると、汗の成分の計測を開始した。彼女の鼻には成分を解析測定する器官が搭載されており、擬似的に人間でいう嗅覚を再現している。これは本来、介護ビジネスや飲食業界に売り出すために設けられた機能であったが、小林の発案で、ストレスチェック等のセルフヘルスケアの分野にも応用が成されているため、将来的には簡易的なヘルスケアをアンドロイドに任せることも可能になるのだという。
「うーん、乳酸と尿素の割合が普段より多い……ほっとくと他の職員に臭いって言われちゃう……」
計測の結果はあまり芳しくなく、健太郎には疲労や睡眠不足の傾向があると愛莉は判断していた。愛莉はYシャツの測定を終えると、抗菌作用のある薬品と共に、洗濯槽へ彼の脱ぎ捨てた衣服を放り込む。
(後で私がお風呂から出たら一緒に洗おっと)
愛莉は自分の衣服と同じに洗う事で、水道代を節約することを日々心がけていた。それはなぜかというと、海に浮かぶメガフロートでは真水は非常に貴重であり、陸地に比べて水道代が割高であるからで、監査員の健太郎の給料は小林ほど高給ではなく、愛莉の維持費や住宅の家賃、光熱費やホバーバイクの燃料費等を合わせると、ひと月の生活にはそこまで余裕が無かった。
(私の維持費が高いんだから、少しは節約しないと!)
愛莉には自覚は存在しないのだが、数値による現実から、まるで人間の主婦のような言葉を彼女は知らず知らずのうちに発していた。
「ガチャ」
愛莉がそんな思考をしていると、やがて浴室の扉が開く音が聞こえ、バスタオル一枚の健太郎が姿を現した。
「ほら、出たからお前も早く入ってこい。それと小林から新しい抗菌クリームを貰ってあるから、漬かる前にちゃんと塗っとけよ」
健太郎はそう言うと、リビングに向かって歩いて行ってしまった。やがてビールを開ける音が聞こえ、モニターからMNNのキャスターの声が部屋に響き始めた。
「もう全く兄さんったら……」
愛莉はそんな素っ気ない健太郎の様子を、無機質な瞳で暖かく見つめると、意気揚々と浴室へと向かって行った。