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小さな恋の物語~華里にて~

鬼さんこちら

作者: mia


 毎週金曜日の、その週最後の授業である7時限。

 いわゆるLHR(ロングホームルーム)

 私がその週最も憂鬱な気分で迎える50分だ。教科のなかで一番苦手な数学の時間よりも、特に理由もなく眠気に襲われる世界史の時間よりも。

 なぜかって?

 この目の前で繰り広げられている光景が、その答えだ。


 「そっちにボール行ったぞ!逃げろ逃げろー!」


 どうして高校3年生にもなってドッジボールなんて子供の遊びをしなきゃならないのだ。

 迫りくるボールをかわし、私は同じチームの女子の後ろに身を潜めて体育館の時計を見上げた。まだ始まって10分も経っていない。まさに生き地獄。

 制服の短いスカートをはためかせながら高い声を発してコートの中を走る女子たちを尻目に、私は人の少なくなった場所に残った。あっちこっちへと体力を消耗し続けるのが馬鹿らしくなってきた。

 味方の内野にいた、仲のいい友人は既にボールを当てられて今は外野でのほほんと談笑している。羨ましい。

 私もさっさと仲間入りしよう。

 敵の外野に渡ったボールがストレートに敵地に戻り、孤立していて、しかも当てやすそうな場所にいる私に狙いをつけたのは敵方の友人、運動が得意な木高蓬(きだかよもぎ)だ。長い黒髪をてっぺんでひとつに束ね、意志の強そうな瞳をした蓬は嬉々としてボールを持った腕を振りかぶる。夏服のシャツの袖をまくって全力投球だ。

 「下野(しもの)さん、避けて!」

 味方の女子から送られた声援を受け、私は緩慢な動作で後ろに数歩下がった。もちろん逃げるつもりはさらさらない。やる気がないことを悟られないために、逃げようとしてみせただけだ。

 「莉子(りこ)、手加減しないからって恨まないでよ!」蓬が私にむかって言う。

 恨まないから早く当ててくれ。私は逃げも隠れもしない。さあ来い。早く来い。

 無駄に勇ましく待ち構える私に、蓬は私の抱いている野望を察したのか、かすかに苦笑してボールを投げた。

 それは真っ直ぐに線を描き、無防備な私の胸に吸い込まれて弾んで床に落ち―――ることはなかった。どこにも当たりも掠りもしなかった。無傷そのもの。

 おいおいどういうことだよ。

 呆気に取られる私をよそに周囲で歓声が沸き起こる。

 私の胸にダイブしようとしていたボールは彼の手にあった。私の前に立ちはだかった彼の手に。

 「菅谷(すがや)、ナイスキャッチ!さすがリベロ!ジェントルマン!」

 「よっジェントルマン!速すぎて見えなかったぞ!残像だった!」

 「――あのなあ、そのジェントルマンとかいうの何なの?それと、いちいち大げさなんだって、お前らは」

 味方の男子たちから送られた声に菅谷くんは呆れたように振り返り、くしゃりと笑った。その爽やかなスマイルは敵方の女子のハートをも容赦なく射抜く。

 体育館の蛍光灯に照らされた、手触りの良さそうな茶髪を風にそよがせ、人懐こい柔和な顔立ちをした彼――菅谷春人(はると)は私と3年間同じクラスの男子生徒だ。

 目立つ長身と引き締まった身体は小学校の頃から続けているというバレーのおかげだとかなんとか。

 ああそうだった。この男の存在をすっかり忘れていた。私をさらに憂鬱にさせる元凶が味方に、しかも内野にいたんだった。


 「下野さん、大丈夫だった?めっちゃ危なかったじゃん。俺が来なかったら外野行きだったよ」


 私は外野に行きたかったんだよふざけんな誰も来なくてよかったんだよ呼んでもないしよ。

 私の本性を知っているのは親しくしている友人だけだ。公では、真面目で目立たない眼鏡の人として通っているので罵倒の文句は心にしまう。かといって笑顔を作るのも性に合わないので「……どうも」と小さく頭を下げて菅谷くんから距離を取り、そそくさと群れに混じった。ちくしょう計画が丸潰れだ。

 床にボールをバウンドさせ、菅谷くんは楽しそうにゲームに参加している。それは他のクラスメートたちも同じ。運動が得意でない子だって、笑顔が零れている。

 私だけ違う。私だけが、この空間に適応していない。

 白線に囲まれた狭い檻に、見えないけれど確かにある柵に、押し潰す空気に、滑稽なくらい張り詰めていた私の脳が運動命令を下すことを停止した。

 その時だった。


 「―――下野さん!」


 ぐいっと腕を左斜め前に引っ張られた。

 あまりにも突然のことで傾いた重心を立て直しきれず、顔から思いきり突っ込んだ。すぐそばで、ボールが弾んだ音がした。

 強かに打ちつけた鼻が捉えたのは、私の家で使っているのとは違う柔軟剤の香りだった。

 ……誰の?

 恐る恐る視線を上げると、そこには困ったように笑う菅谷くんの顔があって、思いのほか近かったので息を呑んだ。


 「だから危ないって。さっきからぼうっとしてるけど、具合でも悪いの?保健室行く?」


 周囲がざわめいている。当たり前だ。今の私が置かれている状態を客観的に述べるならば、クラスの人気者が冴えない眼鏡女子を抱きしめて顔を覗きこんでいるのである。それも至近距離で。なんてこったい。軽い冷やかしを受けるだけでは済まない。女子の醜い争いに巻き込まれたらどうしてくれる。

 「……離して」

 私は肩を掴んでいる菅谷くんの手を払い、見えない柵を倒して檻から出た。

 「先生、頭が痛いので保健室で休んできます」脇で観戦していた担任にそう申し出、クラス皆の好奇の視線を振り切って、私は運動用の内ズックのまま保健室へと逃げた。

 何がなんだかもう、ぐちゃぐちゃだった。



 その翌週、ありがたくないことに再び金曜日の7時限がやってきた。

 今回のLHRの内容はケイドロ。

 警察役と泥棒役に分かれて追いかけっこをするのだが、広い学校の裏庭ではかくれんぼと化している。

 泥棒役になった私は適当に逃げているうちに友人とはぐれ、自転車小屋へと辿りついた。誰もいない。

 「あー……ほんと、めんどくさい」

 校舎の壁と自転車小屋のトタンの壁の間に腰を下ろす。日光が遮られて快適で、雑草が生え放題なことを除けば隠れ場所にもってこいだ。

 ここなら終業のチャイムが鳴るまで誰にも見つからずに済むだろう。スカートが砂で汚れるが、後で手で払えばいいことだ。

 膝を抱え、息を潜めてじっとしていると、やけに軽快な足音が近づいてきた。鼻歌まじりに自転車小屋を歩き回っている。

 ―――この歌、どこかで聴いたことある。

 私はトタンの壁からそうっと覗いてみた。動く人影を見つける。

 きょろきょろと辺りを見渡しているのは体操服を着た菅谷くんだった。なんてこったい。

 道理で聞き覚えのある歌だと思ったのだ。

 下野と菅谷、“し”と“す”で出席番号がひとつ違い。なので席が前後になることがあり、休み時間になると菅谷くんが後ろの席でたまに鼻歌を歌いだし、私はそれを読書のBGMにしていた。誰のかも知らない歌だったけれど。

 何はともあれ、やっと手に入れた安息を、ここで失うわけにはいかない。

 私は気配を消し、菅谷くんの動向を見守ることにした。

 菅谷くんは生徒たちの自転車を眺め、ここには誰もいないと思ったのか、踵を返した。

 ああよかった。ほっと安堵の息を漏らした私の耳が、次の瞬間、有り得ない名前をキャッチした。


 「うーん、ここにもいないのか。どこに行ったんだろ、下野さん」


 下野。私のクラスに下野という苗字の生徒はひとりしかいない。そう、下野莉子、私だ。

 なんで標的が私オンリーなわけ?泥棒は他にもたくさんいるでしょうが。私になんか恨みでもあんの。

 けっ、とやさぐれる私。

 無性に小石を蹴りたい気分になったのがいけなかった。ちょうど蹴りやすそうな小石が足元にあったのがいけなかった。蹴りやすい運動用の外ズックを履いていたのがいけなかった。

 重い腰を上げ、ほんの出来心で蹴った小石は予想外に勢いよく飛び、トタンの壁にぶつかって大きな音をたてた。

 あ、やべ。

 「ん?」去りかけていた足音がぴたりと止んだ。「そこに誰かいんの?」

 どうする。猫の鳴き声でもやって誤魔化すか。それとも捨て身で逃げきるか。

 いくつか仮説を立てて助かる結果を導こうとしても、不確定要素が多すぎて確固とした証明ができない。

 論理的な思考は不向きだ。考えることを放棄した私は膝を抱えて座り、顔を膝に埋めて隠した。腕で顔を隠しているからパンツが見えてしまうとか、どうでもよくないけど仕方ない。

 人の気配が静かに近づいてきた。だいじょうぶ。ばれないばれない。


 「……何してんの、下野さん」


 なぜばれる。

 菅谷くんの気配がさらに近づいてきた。しゃがんだか座ったかしたのだろうか。やばいパンツ見られる。でも動けない。眼鏡がガチャガチャいって鼻の頭に食い込んで痛い。


 「ねえ、下野さん」

 「人違いです。私は下野という人間ではありません」

 「その声、やっぱり下野さんだ」


 しまった声を変えるんだった。もう手遅れだけど。

 はあっと大きなため息をついた私に、菅谷くんが不思議そうな声で尋ねてきた。


 「前から聞きたかったんだけど――下野さんってさ、もしかして俺のこと嫌い?」

 「……じゃあ逆に聞くけど、君は全人類が自分のことを好きだと思ってる?」

 「何それ。そんなの思ってるわけないじゃん。――え、っていうことは、下野さん俺のこと嫌いなんだ?」

 「……さっきので“うん、思ってる”って答えてたら、間違いなく肯定した。君のことなんか大嫌いだってね」

 「じゃあ嫌いじゃない?」


 少し食い気味に問いかけてくる菅谷くんは、どんな表情をしているのだろうか。気になったけれど、私はそっけなく突き放すことしかできない。

 「別に、私が君のことを好きか嫌いかなんてどうでもいいんじゃないの?むしろ君にとっては、私がここに存在してること自体、何の意味もないっていうか」

 もういいから捕まえれば。そう投げやりに呟いた私は、いつまでたっても終わらない沈黙に耐え切れず、顔を上げた。そして目を見張る。


 「どうして、そんなこと言うんだよ」


 私の方が聞きたい。

 どうして、そんなに悲しそうな顔をしているの?

 菅谷くんはいつも笑顔だ。たまに拗ねたり怒ったりするけれど、しばらくしたらけろりとしている。でもこんな顔をする菅谷くんは見たことがなかった。

 今、夕暮れに染まる世界から隔離された陰の中に私と菅谷くんはいる。

 でも菅谷くんがいるべきなのは、こんなじめじめした暗い場所じゃない。陽のあたる、眩しくて温かい場所だ。

 どうして菅谷くんはこちら側に来ようとするのだろうか。何の取り得もない私に、関わろうとするのだろうか。

 私は偽の仮面が崩壊しないように慎重に言葉を選んで、唇にのせた。


 「……私と、君とじゃ全然違うし、お互いのことを理解できないのは、それは当たり前だと思う。どんな場所に身を置くかは人それぞれだし、私は、こうやって皆と楽しめない自分が可哀想だなんて思ってない。それを皆に理解してもらいたいとも思わない。だから、これからは、無理に私に気を遣うとかはしなくても――」

 「俺は無理に気なんか遣ってない」


 私の言葉を遮って、菅谷くんは強い口調で言った。その瞳には微かに怒りが滲んでいた。

 もしかして気に障ったのだろうか、それとも言い方がまずかったのだろうか。

 どうすればいいのかと途方に暮れる私を、じっと見つめていた菅谷くんはおもむろに立ち上がり、くるりと背を向けた。


 「俺は自分がやりたいことをやってるだけだよ。俺が、今まで下野さんに対してしてきたことは気を遣ってやったことじゃないし、そんな単純なものでもないから」

 「菅野くんが、やりたいこと?単純じゃ、ない?」


 ますます分からなくなってきた。疑問を深める私に、菅谷くんはちらりと視線を寄越し、にっと笑った。


 「ピンクのドット、意外と可愛いの選ぶんだ」


 「他の奴には見せないでよ」そう言って手を振り、軽い足取りで去っていった。

 「……ピンクのドット?何のことを言ってんだか………はっ!」

 すっかり忘れていた。そしてしっかり見られてしまっていた。

 なにが『意外と可愛いの選ぶんだ』よ。あの変態許すまじ。人畜無害そうな顔して中身は野獣ですよ全校女子生徒の皆さん。

 そう叫んで校舎内を回りたい衝動を抑え、警察役の生徒に注意しながら菅谷くんが去った方へ小走りで向かう。だが牢屋の場所に泥棒はひとりもいなかった。脱走したばかりなのだろうか。

 近くの木の下で休憩している蓬を見つけ、声をかける。「蓬、ケイドロ終わったの?」

 蓬はタオルで汗を拭い、どこか疲れた表情で私を見上げた。

 「莉子、あんたどこにいたのさ。何度あんたの居所を聞かれたことか……っと、なんでもない。うん、ケイドロなら終わったよ。まだまだ元気なのは鬼ごっこしてるけど。ほら、あそこ」

 そう指で指し示された先にいたのは、逃げまどうクラスメートを追いかける菅谷くん。また鬼役をやっている。

 「うげぇ、信じらんない。どっから体力湧いてんだよ」

 「あらあら口調が崩れてますわよ、莉子さん」

 蓬のからかいを「はいはい」と軽くあしらい、蓬の隣に腰を下ろした私は、走る菅谷くんを目で追った。

 木陰で涼んでいるこっちには見向きもせずに菅谷くんはきゃあきゃあ逃げる女子を追いかけてる。やっぱり変態だ。

 眉間に皺を寄せていると蓬に笑われた。「莉子、焼いてるの?」「ん?日焼け止めなら塗ったよ?」「……あ、そう」複雑な表情をした蓬に首を傾げる。

 気を取り直して腕時計を見る。時刻は終業15分前。もうそろそろ終わりだ。今週も終わった。

 いつまでも鬼ごっこを続けている菅谷くんたち。終わりそうにない。それは楽しそうに笑う彼らを眺めていた私は、胸の奥で燻った何かに違和感を覚えた。今まで感じたことのない、何かを。


 「鬼さんこちら」


 後で思い返すと、私は気が狂っていたのだ。

 菅野を含む群れが私と蓬の前を通りかかり、無意識に呟いていた。

 聞こえるわけない。万が一聞こえたとしても、陰にいる私に反応を返すわけがない。

 そう高をくくっていたのに。

 「……え?」

 嘘だ。ばっちりと目が合ってしまった。

 菅谷くんの顔が、瞳が、なんか怖い。

 私は素早く立ち上がり、そして菅谷くんとは反対の方向へ地面を蹴った。

 背後で、蓬の「うわ、早っ!」という驚きの声につられて走りながら振り向くと、菅谷くんが先ほどまでとは比べ物にならない速さで追ってきていた。

 だから、顔が怖いんだって。

 その迫力に思わず語尾がおかしくなる。

 「本気のフォームやん!」

 さあっと顔を青ざめさせ、私は前を向いて全力疾走した。


 この時、私はまだ知らなかった。

 久し振りの本気走りの振動で地面に落ちた私の眼鏡が人質に取られ、視力が壊滅的な私が空気につまずいて菅谷くんの胸にダイブし、あっけなく拘束されることになることを。

 そして本性をむきだしにして罵る私に怯まず、あろうことか「1年の時からずっと好きだった」と告げられることを。


 「やっとつかまえた」


 ああもう。なんてこったい。がっくりと項垂れる私を、菅谷くんはぎゅうぎゅう抱きしめてくる。

 顔が熱いのは夏のせい。心臓の音が五月蝿いのは走ったせい。

 あれだけ待ち望んでいた終業のチャイムが鳴ったのに、無情にも私をカオスな状況から助けてはくれなかった。



 放課後、玄関で革靴に履き替えようとしていると、制服に着替えた菅谷くんがひょこっと現れた。


 「あ、下野さんまだいた。俺、今日部活ないんだ。途中までいっしょに帰ろうよ」

 「誰も聞いてませんし結構です」

 「そんな冷たいこと言わないでさ。仲良くしようよ」

 「……意外としつこいんだね」


 ため息をついて下駄箱の革靴を出そうとしていた私は、横から菅谷くんの手がにゅっと伸びてきて思わず飛び退いた。


 「……下駄箱の扉、開けたかっただけなんだけど?」


 口元を手で覆って肩を震わせる菅谷くんは、間違いなく笑っている。カチンときた。文句を言ってやろうと口を開きかけた私だったが、突如鳴りだしたバイブ音に妨げられた。

 「俺のだ。ごめん、ちょっと待ってて」鞄から携帯を取り出し、電話をかけてきた相手を確認してからボタンを押した。「もしもし、母さん?」

 菅谷くんのお母さんか。それに、なんで待ってなきゃいけないんだ。私は革靴をそっと地面に置き、脱いだ上履きを下駄箱にしまって静かに扉を閉める。

 ふと、視線を感じた。他でもない菅谷くんが私を見ていた。何、と口を動かしながら首を傾げてみせると、菅谷くんは目を細めて微笑み、首を横に振った。


 「はいはい分かってるってば。うん?……なんでもないよ。……は?何言ってんの。もう切るよ」


 携帯を切り、下駄箱からスニーカーを出した菅谷くんはしゃがんで靴紐を結びなおす。心なしか嬉しそうだ。

 「何かあったの?」そう尋ねると、菅谷くんは私を見上げた。


 「いや、あの時もそうだったなって思い出してさ」

 「あの時?」

 「うん。――確か、1年になって半年経った頃だったかな。テストが終わって家に帰ろうとしてたら、親から電話が来て、妹を幼稚園にまで迎えに行ってほしいって頼まれたんだ。その時、たまたま通りかかった女子のグループが、下駄箱の扉を乱暴に閉めたり靴を床に落としたりして音が響いてさ。母さんに騒がしいわねって言われちゃって。その後に、下野さんが来たんだ」

 「私が?」


 記憶にない。そう言いたげな顔をしていたのか、菅谷くんが少し残念そうに笑った。


 「俺は、はっきりと覚えてるよ。下野さんは下駄箱の前で電話してた俺を見て、小さく頭下げて、さっきみたいに革靴を置いて丁寧に扉を閉めたんだ。すごく静かだった」


 靴紐を結び終え、立ち上がった菅谷くんを今度は私が見上げる。

 何て返せばいいんだろう。そんなの常識だから?いや違うか。視界に入らないようにしてたから?これも違うか。

 悶々と悩む私をよそに、上履きを下駄箱に入れた菅谷くんは、そうっと扉を閉めた。大切なものを扱うように。


 「その時に思ったんだ。『ああ、下野さんって優しい子なんだ。俺だけじゃなくて、電話の相手にも気遣ってくれる、思いやりのある人なんだ』って」


 それから気になりはじめたんだ、下野さんのこと。じっくり観察してみると、けっこう面白い人なんだっていうのも分かったよ。

 にっこり笑って言った菅谷くんから、私は目を逸らした。まともに直視できない。

 「……そんなの覚えてない。誰かと間違えてるんじゃないの」私は歩きだした。後ろに菅野くんの足音が続く。「間違えてないよ」


 「ちょっと、ついてこないで」

 「さっき『鬼さんこちら』って言ったの。あれさ、俺のこと呼んだんだよね?なんで?」

 「そんなこと言ってない」

 「言ったよ」

 「言ってない」

 「言った」

 「だから言ってないって!」

 「だから言ったんだって!」


 向かい合って怒鳴りあって、はっと我に返った。

 どうしてこんな子供みたいな言い合いをしているんだろう。どっと疲れた。あと周りの生徒の視線が痛い。

 「あーはいはい言いました。そうですね言いました。これでいいんでしょ。満足?」

 半ば投げやりに言った私の隣で、不満そうに頬をむくれさせていた菅谷くんは満面の笑みを浮かべ、私の頬を指でつついた。


 「ちょ、なにを……」

 「逃がすつもりはないから、覚悟しててね」


 ああ。やっぱり、鬼なんて呼ぶんじゃなかった。

 顔を真っ赤にして口をぱくぱくさせていた私は、自分が身を潜めていた陰が小さくなり、日向に照らされていきつつあることに、全く気づいていなかった。


 fin.


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― 新着の感想 ―
[良い点] 天然爽やかと、本性ツンツンな女の子。 二人は以外とお似合いで、これからも素直じゃない掛け合いをしながらも仲良くしていくんだろうなと思えて、読んだ後の余韻も良い作品でした。
2013/06/25 16:28 退会済み
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