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熾天使の翼すら踏む僕の業  作者: 糸本基


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3/3

#03・2023/8/4(1)

 若者が思い浮かべる将来ってのは、希望を含んだ未来と同義だったりするし、そうであるべきなんだろう。

 酒が飲める年齢になるまでに、諦観と全てを受け入れた演技とをすっかり身に着けてしまった主税にとって、同年代の友人たちは何処か対岸の存在だった。

 自分には許されなかった、自由に思い浮かべる将来や未来。夢と言っちゃってもいいのかもしれない。平凡な夢を見る。それが若者の特権ってヤツなんだろう……。


「チカ? ボーっとして、どないしたん?」


 同じ大学に通う同級生の声で、主税は我に返った。


「なんでもない。揃ったみたいだし、行こ」


 四条木屋町での待ち合わせだった。金曜の夕方ともなれば人でごった返す京都を代表する歓楽街のど真ん中。

 八月の油照りの空気を微かに和らげてくれる高瀬川のせせらぎに沿って、主税を含めた四人は予約している居酒屋へ向かった。


「やっと明日から夏休みかあ」

「だねえ、景気づけにパーッと飲み明かそ」


 主税の前を歩く同級生の男子二人は、長期休暇がもたらす解放感を隠さず声に乗せていた。


「そやねえ。チカくんも今夜はとことん付き合ってくれるんよね?」


 今宵の紅一点である三回生の女子も、主税から言質を取ろうとする下心を隠そうとはしなかった。


「はい、もちろん。芙美さんが満足するまで付き合います」


 二回生である主税は、素直に先輩を立てる後輩として振る舞った。


「今夜は寝かさへんよ」


 素直な返答に満足の笑みを浮かべた芙美が、主税の左腕に身を寄せて腕を絡める。


「お手柔らかに」


 満更でもないといった表情で返す主税にも、大学生としてモラトリアムを愉しんでいるという感覚はあった。

 残された猶予期間ぐらいは存分に愉しんでみせる。

 自分を常に監視している機関への当て付けでしか無かったとしても、愉しんでいる自分をどうせ演じるなら本当に愉しんでしまえばいい。

 主税は気楽な学生を演じることで、思春期の自分との折り合いを付けてきた。

 四人が予約した居酒屋の前へ着いたとき、監視の視線の中に異質なものを感じた主税は、二階の居酒屋へ繋がる階段の手前で立ち止まった。

 視線の方向に振り返った主税と、高瀬川を背にして立つ異質な視線の主の目が合う。

 一見して地味な印象の女性だった。中背で黒髪のミディアムボブに、夏用だとしても濃紺のパンツスーツが暑苦しい。

 細いメタルフレームの眼鏡越しに向ける視線の異様な強さを、地味な容姿が強調しているように主税は思った。


「チカくん? どうしたん?」


 階段を数段上がった芙美の呼ぶ声のおかげで、主税は視線を逸らすことができた。

 座敷席に着き乾杯も済ませ、渇いた喉にビールを流し込んでも、異様に強い視線の印象は主税の中に残り続けた。


(初めての顔だけど、確実に自分を見てた……明日、顔合わせするって言ってた新しい担当かもな……)


「チカくんってば、また考え事しとるん?」


 頬を膨らませた芙美の顔は、主税が気付いたときには眼前にあった。

 少し首を伸ばせばキスできてしまうような近さに驚いた主税だったが、照れ笑いで誤魔化しつつビールジョッキを掲げた。


「すみません、さ、飲みましょ」

「チカくんって、いっつもなにか考えてるよね」

「そう、ですか?」

「そやよう。まあ、そんなとこも嫌いやないけど」

「ええ、と。ありがとうございます?」


 照れ笑いを浮かべてみせた主税は、モラトリアムを愉しむことに徹する自分のスイッチを入れ直すようにジョッキのビールを喉へ流し込んだ。


 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 小清水(こしみず)雨音あまねの目には、日下部主税という監視の対象は大学生という立場を謳歌しているように映った。

 端麗とまではいわないが女性に嫌悪感を抱かせない容姿を持つ主税は、落ち着いた空気も身に着けていた。コンサバティブな服装も似合っており、全体的にそつがないというのが雨音の受けた主税の第一印象だった。


「小清水さん。どうでした? 彼の印象は」


 容姿で目立たないことを意識している雨音とは対照的に、自らの美貌で周囲の目を引くことに躊躇することのない大串が、雨音の傍まで近寄り声を掛けた。


「はい。一見して、今の立場を楽しんでいるように感じました」

「そうですか。彼は演技が上手いですからね」

「演技、ですか……?」

「ええ、わたしたちの前ではもちろん、友人の前でも崩すことはない演技」

「長年担当している大串さんから見て、彼はどういった青年ですか?」


 大串は視線をやや遠くへ向けると、一呼吸置いてから答えた。


「寂しがり屋な男の子、かもしれませんね」

「男の子、ですか?」

「ええ、わたしにとっては」


 雨音は落ち着いた微笑を浮かべる大串の横顔を見たが、その表情から言葉の真意を掴むことはできなかった。


「さて、店内は男性陣に任せるとして、わたしたちは今からオフです。小清水さんにとっては京都で最初の夜ですし、良ければ美味しいものでも一緒にいかがですか?」

「あ、はい。ぜひ」

「なにか苦手なものはありますか?」

「いえ、特には」

「よかった。先斗町の店を予約してあります。せっかく夏の京都に来たんです。川床を楽しむとしましょう」


 大串の提案を聞いた雨音の表情がパッと明るくなる。一度は体験したいと思っていた夏の風物詩、鴨川の納涼床と聞いた昂揚を雨音は隠さなかった。


「はい! ありがとうございます!」


 雨音の素朴な反応に触れた大串がやわらかく微笑む。


「素直な反応ですね。こんな仕事をしていると新鮮です」

「あ……すみません」

「謝ることなんかありませんよ。逆に好ましいです」

「は、はい……」


 大人の女性とはこうも余裕があるものなのか……短い時間で大串に好感を抱いた雨音は三十一歳だと聞いた大串の年齢を思い出しつつ、単純な自分との違いを強く感じた。

 大串に案内されモダンな造りの店へと移動した雨音は、鱧の湯引きや神戸ビーフのステーキに舌鼓を打った。

 化粧室へと立ったタイミングで、雨音がスマートフォンの通知を確認すると、二〇二三年八月四日という日付表示と二十時半を示す時刻表示の下に、一件のメッセージ通知が残っていた。

 通知をタップした雨音が確認したのは、勇人というアイコンと共に表示された短いメッセージだった。


【京都はどうだい?】


 雨音は遠距離という形となった恋人に【暑いよ】とだけ返信した。

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