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熾天使の翼すら踏む僕の業  作者: 糸本基


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#01・2023/12/23 and 2002/12/23

 夜の無慈悲を流布するかのように冷え切った北風が、青年のうなじを無造作に撫でる。

 ヒヤリとした感触がトリガーとなり、主人公が夜風に吹かれる映画のワンシーンを思い出した青年は、主人公の仕草をなぞるように真新しいトレンチコートの襟を立てた。

 かじかんだ左手でトレンチコートのポケットからスマートフォンを取り出した青年が時間を確認する。

 二〇二三年十二月二十三日、土曜日。二十時四十二分。

 スマートフォンをポケットに戻した青年が、町内の行事案内が貼られた掲示板の下部に表示されている東京都足立区綾瀬八丁目という住所へと目をやった時、十メートルほど離れた居酒屋から中年の男が一人で出てくる。

 小太りで黒いジャンパーを着込んだ男の姿を確認した青年は、静かに男へと近付き声を掛けた。


「お前が少年Aだな?」


 冬の乾燥など関係なく脂ぎった顔の男が、アルコールで濁った目を青年へ向ける。


「なんだあ、てめえ」

「お前は、少年Aで間違いないんやな?」


 青年は静かな口調で質問だけを重ねた。


「三十五年前に自分が犯した罪を、お前は覚えてるか?」


 物心がついた頃からガンを飛ばし続けてきた男が、当然のように青年を睨み付ける。


「てめえはアレか? 週刊誌かなんかか?」

「違う」

「じゃあなんだってんだ。人様に聞きてえことがあんなら、名前ぐらい名乗りやがれってんだよ」

日下部(くさかべ)主税(ちから)。お前を裁く存在だ」


 主税の言葉に呆れ、口を半開きにした男の語気が荒くなる。


「はあ? いかれてんのかてめえ? 裁くだあ!? 裁判はなあ、とっくに終わってんだよ!」

「お前は罪を償ってないやろ。拉致、監禁、強姦、殺人、死体遺棄……お前は断罪されるべきなんや」

「はあ? なんだァてめえコラ! 喧嘩売りにきたんか、そうかそうか、てめえも死にてえんだなコラッ!」

「お前に救われる価値は無い。せめて、その命で償え」


 宣告するように主税が言い切った刹那、怒号を飛ばしていた男の全身が炎に包まれる。

 一瞬で炎によって外気と遮断されたことで、酸欠により意識を失った男は断末魔の叫びを上げることさえ赦されず、白く辺りを照らす断罪の炎に焚かれた。


 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 無機質が広さを強調する薄暗い室内。

 千葉県柏市にある科学警察研究所の特殊実験棟内にある燃焼実験室。その室内には各種の計測機器を扱う、白衣を着た男女八人の姿があった。

 坦々と作業を行う白衣の八人の他には、作業を見守るように壁際に立つ濃紺のスーツを着た青年が一人と、椅子に腰掛ける女性が一人のみが室内にいた。

 簡素な椅子に浅く腰掛けるショートボブの女性は、ゆったりとしたニットのマタニティワンピースを着ていた。

 女性の腕には計測機器が貼り付けられており、パッドから伸びた数本の赤いコードがだらりと女性を黒い機器へと繋いでいる。

 切れ長な女性の目は一点を見つめていた。


「二〇〇二年十二月二十三日、十五時二十五分。被験者、日下部美都(みつ)の第三十八次試験を開始」


 静かな室内に記録係の声だけが響く。

 コードに繋がれた美都の鋭い視線の先に、ぽっと小さな灯がともる。

 灯火は瞬く間に煌めく炎となり、眩い光で室内を照らした。

 石英ガラス越しに目視が可能な、耐火レンガの上に置かれた短い鉄骨が燃えているように見える。

 それは「燃えるはずのないものが燃えている」ように見えてしまう奇妙な光景だった。

 鉄骨そのものが炎を上げているようにも、炎そのものが意思を持ち鉄骨にまとわりついているようにも見える。その奇妙な炎の色が赤から黄、そして白へと変化してゆく。


「炎の中心温度、千七百度を超えます。さらに上昇中」

「強制換気、酸素供給ともに正常作動。室温上昇値も許容範囲内」

「被験者のバイタルサインに変動なし」

「鉄骨の表面温度千五百三十八度に到達。鉄骨の熔解を確認」


 平坦な男女の声のみが響く室内にあって、白衣を着た八人の中で飛び抜けて高齢に見える男が、室内に行き渡るのに最低限の声量で告げた。


「充分だ。試験終了」


 終了を告げる声と呼応するように、鉄骨を燃やしているかのように見えた炎が一瞬で消え去る。

 消え方も奇妙で不自然なものだった。鎮火という概念を無視するかのような、消失が刹那の静寂をもたらす。


「十五時三十二分。第三十八次試験を終了」


 記録係を務める女性の声が静寂をぷつりと切る。

 椅子に腰掛けている美都へ駆け寄った白衣姿の若い女性が「お疲れ様です」と声を掛けながら、美都の血圧や心拍などを計測していた機器のパッドを取り外す。

 パッドを外し終えて離れる若い女性と入れ替わるように、濃紺のスーツを着た青年が美都へと近寄り声を掛けた。


「お疲れ様でした……体調はいかがですか?」


 青年の声に応えた美都が、ゆっくりと立ち上がる。


「そないに心配せえへんでも大丈夫ですよ。安定期にも入ってるんやし」


 やわらかな笑みを浮かべた美都が、ふくらみを帯びた自身の腹を優しく撫でながら答える。

 美都の仕草を見た青年は、バッと頭を深く下げた。


「自分に力がないばかりに、身重である日下部さんの実験すら止められず……申し訳ありません」

鷹尾(たかお)さんが謝ることなん、なんもあらへんですよ。お仕事なんやから気にせんと。この子、主税も、鷹尾さんのお世話になるんやろうし、ね……」


 美都の穏やかな京都弁に、鷹尾が顔を上げる。


「もう、名前を決められているんですね」

「はい。主人公の主に税金の税で、主税です」

「古風で力強い響きの名前ですね……出産予定は、四月でしたか」

「ええ、まあ色々悩んでもうたけど、今はもう無事に産まれてくれるんのを祈るだけです」

「はい……」


 宿命の子を身籠る美都に対して掛ける言葉を持たない鷹尾は、胸の内で自分の無力を呪った。

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