56話 プルーヴィアへの道
二日、三日と同じ訓練を続けるうちに、ヨーコは徐々にコツを掴んできた。
「……いいね、そのまま。流れが穏やかになってる」
フェリオンの声が低く響く。
四日目には、ヨーコは三十分程度ならほとんど魔力を吸わなくなった。
「すごいぞ! やっぱり勘がいい。流石だよ」
フェリオンは手放しに褒めた。
ヨーコは満足げに微笑み、目を輝かせる。
「じゃあもう行ける?」
その問いには期待が滲んでいた。
突風の被害地域への謝罪行脚はフェリオンに止められている。
彼女が今目指しているのはプルーヴィアだ。
フェリオンは優しく微笑み——そして首を振った。
「ヨーコ。君の飲み込みの早さは尋常じゃないけど……プルーヴィアへの道はまだまだ遠いよ」
整った笑顔で淡々と告げられた現実。
ヨーコの表情が一瞬曇り、次の瞬間、体を揺らして机に突っ伏す。
「ほら、お嬢さん。これくらいでまた揺らいだ」
フェリオンは追い打ちをかけるように言ってコーヒーを口に運んだ。
これは彼の癖だった。
相手が気落ちしているところに、わざと軽口を叩く。
ヨーコは黒髪の隙間からじとりとフェリオンを見上げる。
「出た、意地悪」
フェリオンは思わずコーヒーを吹き出しそうになり、口元を押さえた。
ヨーコはふふっと笑い、満足げに目を細める。
「……ねえ、フェリオン」
ヨーコはハンカチを差し出した。
フェリオンがそれを受け取り、口元を拭う。
「クロードたち、もう着いたかな」
ヨーコの囁くような声に、フェリオンは少しだけ目を伏せる。
「今日か、明日……そのあたりだろうね」
窓の外には青空が広がっていた。
今日の王都は静かで平和だ。
ここからは戦いの気配など何も感じられない。
ヨーコは、遠く離れた戦場に思いを馳せる。
魔物と戦うクロード。
戦場をかけるみひろ。
彼らが傷ついているかと思うとじっとしていられない。
ソワソワと落ち着かず、いつのまにか黒い魔力を集めてしまっていた。
「ヨーコ。集まってるよ」
フェリオンの静かな指摘に、ヨーコははっと振り返る。
連日指摘され、どんな時に魔力が暴走しやすいのか、ヨーコにも少しずつ分かってきていた。
ヨーコは目を閉じ、深く息を吸い込む。
心を落ち着かせてから目を開くと、フェリオンが小さく頷いていた。
魔力の流れが静まった証拠だ。
「自分で見えないの、不便だわ」
「そればっかりは……ね」
フェリオンは苦笑する。
ヨーコはふと視線を向ける。
「ねえ、ちゃんと制御できるようになったら、フェリオンも付いてきてくれるでしょ?」
黒髪がさらりと揺れ、柔らかく光を受けて揺らめく。
その仕草に、フェリオンの心臓がどきりと跳ねた。
彼はぱっと視線を逸らした。
その胸に走った感情は単純ではない。
――心配。
――責任。
――期待。
そして、そのどれとも違う、もっと個人的な何か。
だが彼はふっと息を吐いて口を開いた。
「公爵家の嫡男を言葉一つで連れていこうとするのなんて、君くらいだよ」
ヨーコは瞬きをする。
「命令じゃないわよ。お願いしてるだけ」
「それが厄介なんだよ」
フェリオンは苦笑しつつも、どこか諦めたような声音だった。
「君の頼みは断りづらい」
ヨーコは小さく首を傾げる。
「どうして?」
その無邪気な問いにフェリオンは真剣な顔をしてみせた。ヨーコの黒い瞳が、距離を縮める彼を無言で見つめる。
今日も大分魔力を吸われたフェリオンは思う。
その気もないくせに無防備に真意を探ってくる、愛しい黒い魔女め。
フェリオンは人差し指で彼女の頬を、ツンとつついた。
「可愛いお嬢さんのお願いだからだよ」
薄い笑いの中に本音が混じる。
ヨーコはちょっと驚いて頬に手を当てた。
フェリオンは是とも非とも言わずにけむに巻いてくると感じた。
ヨーコは手のひらを合わせ、その指先の奥で
「お願い、次期公爵様」
といたずらっぽく笑った。
「……出た。おねだりポーズ」
フェリオンは茶化したが、上目遣いの彼女が酷く愛らしく見える。まずい兆候だ。
「……ほんとずるい」
低く呟き、頭をかいた。
「しょうがないな。ちゃんと制御できたら、ね」
その声には、もはや抵抗の色はなかった。
ヨーコはぱっと顔を輝かせた。
「嬉しい!約束ね?」
「うん、約束。指切りしてもいい」
「君のとこではそうするんでしょ?」と彼は指先を軽く伸ばし、同じようにしたヨーコの指に触れた。ヨーコがフェリオンの小指に自分のそれを絡ませた。
魔力の揺れはないはずなのに、この一瞬。
触れた部分から熱が広がり、小さく息を呑む。
フェリオンが慌てて手を離し、咳払いした。顔があつい。
フェリオンの脳裏に過ぎるあの指切りの歌。今なら分かる。あれは、愛しい人に約束を守ってもらいたい切実な歌だ。
「お願いよ、きっとね」
ヨーコは柔らかく笑ったが、その黒い瞳の奥で静かに燃える決意がフェリオンにも伝わる。
危ういほど真っ直ぐで、眩しくて――
一途な人。
ヨーコはクロードに会うと決めている。
思い至るとフェリオンの胸がきゅうっと締め付けられた。
想い合う相手と再会させるために彼女を連れていくなんて、自分はどうかしている。でも、君があんまり必死だから、応援してしまう。
「……頑張ってね」
フェリオンの口からはそんな言葉が出た。
ヨーコは笑った。
ふと、フェリオンが視線を上げる。
窓の外では、柔らかな風が茜空を流れていく。
戦場ははるか遠い。
ヨーコは胸に手を当て、そっと言った。
「必ず行くわ……」
フェリオンは目を細める。
「そのためにも、まずは……」
「集中、ね」
ヨーコは不敵に笑い、すっと目を閉じる。
息を吸う。
吐く。
魔力の流れが、静かに、穏やかに落ち着いていく。集中が、深まる。
夕焼けに染まるヨーコの周りの黒い魔力は、肌を滑って小さな渦を巻くが、それは小さなつむじ風と一緒ですぐに霧散する。
フェリオンは、目を閉じたヨーコの穏やかな顔に昏睡していた彼の日を思い出す。
あの、自分だけの聖女と傅いた甘い時間。今思うと、実験と自らを偽り魔力を捧げていたようなものだ。
彼女に触れることに戸惑いも躊躇いも感じなかったあの日のようにはもう出来ない。
あれは、人格を無視した耽溺。狂信に近い感覚だった。
今はもう彼女の人となりを知ってしまった。真面目な顔もはしゃぐ姿も、ちょっと意地悪なことを言う時の笑みも。
フェリオンは汗を滲ませるヨーコに優しい眼差しを送る。懸命な彼女が眩しくて、フェリオンの口から気持ちが漏れる。
「……かわい」
届かないほど小さな声だったはずだが、
「何か、言った?」
ヨーコが目を開けて首を傾げる。
フェリオンは一瞬固まり、
「言ってない」
即答した。
ヨーコはにやりと笑う。
「気になる言ってよ」
「なにも言ってないって」
「またまた」
フェリオンはヨーコの周りに這い寄る魔力に気づいて片眉をあげた。
「……集中途切れた事誤魔化してるね」
「バレた」
ヨーコは楽しそうに笑いながら諸手を軽くあげて降参のポーズをした。
ふたりの声は、静かな歓談室に軽やかに弾んだ。
その響きは心地よく、暖かかった。
陽の光は弱まり、夜の気配がするのに、フェリオンは離れ難い気持ちがいや増していることに気づかなかった。




