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52話 彼女の灯火

扉が静かに閉まる音がして、フェリオンの姿が見えなくなった。

温かい手が離れてしまった後のように、胸の奥に冷たい隙間ができる。

ヨーコはソファに深く沈んだ。肘掛に置いた手が震えている。

話は分かった。理解できたと思う。

でも心がついて行かなかった。


目に手を当てて強く瞑り、詰めた息を吐き出しながら全身を脱力させる。

そっと開いた視界にテーブルの乱雑さが広がる。

フェリオンが並べた図表や古い羊皮紙の上を、黒と白の魔力の流れを記した細かな線がいくつも伸びている。

その線を指でなぞる。

世界を黒が覆った領域。

腐った土地、枯れた畑、魔物が溢れる峰。

彼は言っていた――


「白を満たすだけでは駄目なんだ。黒が欠けてはいけない。

 君は、“魔力を還す力”を持っている」と。


ヨーコはため息をついた。まぶたの裏に彼の説明の熱量の余韻がまだ残っているような気がした。

彼が語るときの声――何故かあの塔の、魔法陣の中心にいるような気分にさせられた。

親しい世界から自分を切り離す恐ろしい呪文。

突き飛ばされた先の知らない世界。

喪失と困惑と恐れが綯い交ぜになった、あの底冷えする絶望をまた味わう。


「だめだ、頭がごちゃごちゃする」


ヨーコはベッドサイドの小机から雑記帳をとって来てソファに腰掛ける。

ヨーコは蝋燭に火を灯す。その光が、今まで部屋が暗かったとヨーコに教えた。


毎日少しずつ書いているこの雑記帳。

この世界に来たばかりの頃は、文字の形を真似るだけで精一杯だった。

先週書いたページを開くと、まだ歪んだ筆跡が並んでいて、思わず微笑んでしまう。

(“灯り”“水”“ありがとう”……)

覚えたばかりの単語を、握力が戻らない手で書いた。あの日の文字は、まるで幼子の落書きみたいだった。

でも、今は――こうして自分の言葉を、きちんと綴ることができる。


「頭で考えてもまとまらない時は、紙に書いて自分を助けなさい」

いつか祖父の言っていたことを思い出す。もう会えないけれど、こうして自分を助けてくれる。


まっさらなページを開いてペンをインクに浸す。


フェリオンの言葉がまだ耳に残っている。

「黒の聖女」

まだ少し手は震えていたが、日本語で綴ってみる。


―――白と黒の聖女。

みひろちゃんが白で、私が黒。

この世界の均衡を保つために、どちらも欠かせない存在。

みひろちゃんは世界に「白」を満たす。

私の「黒」は、他人から魔力を奪う性質を持つという。


“黒の聖女は他者の魔力を吸う”

“相手の心の渇きを呼び覚ます”

“抗うことはできない”


彼は苦しそうにそう言った。

そして最後に、微笑みながら付け加えた。


「だから、長く君のそばにはいられない。理性が、もたないんだ」



私はペンを止める。

蝋燭の炎が小さく揺れた。

あのときの彼の笑顔が浮かぶ。

柔らかいのに、どこか痛々しかった。

(私のせいで……)

指先を見つめる。

黒いものが手に吸い込まれる想像をしてみる。

自分がなにか悪いものになった気がして手を振るった。


(………フェリオン、あなたは聖女と言ったけれど、人にとってはそうじゃない)

心の中でそう呟くと、胸の真ん中が冷たくなる。


クロードの顔が思い浮かんだ。

彼もまた、私に優しかった。

手を伸ばせば、すぐそこにいてくれた。

でも――フェリオンが言う。私の魔力の性質が人の心を惹きつけるものだと。


(あの人の優しさも、私が奪ったものだったのかもしれない)


彼が告げた「好きだ」という言葉。

その響きを思い出すたびに、胸が痛い。

あれが本心なのか、黒の聖女の“渇き”が引き出した感情なのか、分からない。

(彼を苦しめたのかもしれない)

ノートにそう書く。

胸が詰まる。

ペンが震え、文字が滲む。

ハッとして紙からペンを離した。

頬に風を感じて窓を見ると、カーテンが揺れていた。

夕暮れが夜に溶けていく。低い位置に星がひとつ瞬いていた。


ヨーコは遠く、プルーヴィアを思う。

自分が行けば、少しは戦いが楽になるんじゃないかと思ったけれど。


「外へ出れば、周囲の黒い魔力が一斉に君へ流れ込む」

そう言った彼の声が蘇る。


外に出たい。

会いたい。

助けたい。

けれど、もし自分が混乱を招いてしまうなら――。


(今は行けない……)


ふいに、クロが膝の上に跳ねてきた。

「……やっぱりいるじゃない」

小さな体を撫でると、温かい命の感触が指に伝わる。

「クロは……怖くないの?」

問いかけても、黒猫は喉を鳴らすばかり。

ヨーコは微笑んだ。しかし、目を向けようとは思わなかった。見たら、その瞬間またクロが消えてしまいそうで。

この小さな存在だけが、無条件に彼女の傍にいられる。

この子は神様だと、以前フェリオンは言っていた。きっと、自分が見たあの夢の中の神様のことなんだと思った。

「お前だけだね、きっと。ずっと一緒に居てくれるの」

掠れた声が、猫の耳にだけ届いた。


いや、この子だけじゃない。


――フェリオンは毎日、昼を過ぎた頃にここに来て、

――そして、夕暮れになる前に必ず帰る。

長くいれば、心が飲み込まれると分かっているから。


それでも、フェリオンは来てくれる。

怖いはずなのに、律儀に、真面目に、毎日。

(優しい人……でも、無理してるんだ)

さっきも急に声を荒らげていた。

あんなに穏やかな人なのに。

無理をしてこの場にいてくれたんだと、痛感する。


(……何とかしなくちゃ)


彼の研究熱と、まっすぐな誠意。

それが、今の自分を支えている。

けれど、これ以上彼の“黒”を奪いたくない。

そう思うと、胸の奥にまた痛みが走る。


喉の奥がつまる。

「泣くな、弱虫め」

自分で自分に言い聞かせる。

―――弱虫の私は、一旦保留。


フェリオンは言っていた事を思い出す。

「君は魔力を“還す”存在」

「制御の方法を一緒に探そう」

でも、具体的な方法はまだ話してくれなかった。

まずは、自分が危険な存在であることを理解するのが先決だったのだ。


フェリオンと会える時間は限られる。自分でもできることをしよう。

ヨーコはページをめくり、簡単な人の形を描く。これは、みひろちゃん。

彼女の体から白い魔力が溢れているというから、波線で囲んだ。


その隣に、自分を描く。

―――黒の魔力を奪う存在。

「どうやって吸ってるのかな」

ブツブツ呟きながら、矢印を四方八方から自分へ向けて描く。

……なんだか怖い絵だ。


「薄くする?」矢印を点線にしてみる。

「ゆっくりにする?」波線に変える。

「一方向にしてみる?」お腹のあたりに一本だけ描き込む。

―――あ、これ、いいかも。


周りの矢印は跳ね返すようにしてみた。いや、跳ね返すというより、体に浸透しないから上滑りする感じ。

それが他方向に、緩やかに滞留する感じ。

矢印を緩やかに渦巻かせてみる。

これなら、人から奪わずに済む……かもしれない。


「これ、やってみよう」


ノートを閉じ、ベッドに腰を下ろす。

―――心を沈めるのが、いいと思う。

心が騒いだ時に、真っ先に思い出す人がいる。

昔から仲良しの、お寺のキオウ和尚様。心の在り方をたくさん教えてくれた人。小さい頃はキオウさんの真似して座禅くんだりしたなぁ。頭の中空っぽにして息を整えて。自分も周りも全部ひとつの流れみたいに感じて居心地が良かった。

ヨーコを郷愁が襲う。懐かしい、もう戻れない場所。


座禅、してみようかな。


足を組み、息を整え、心を空にする。

目を閉じる。感覚を澄ませ、細部まで想像を巡らせる。

空気が少し冷たい。肌に触れるこの温度が黒い魔力だと想像する。

私の周りの魔力は肌を滑って部屋を緩やかに滞留する。ベッドを撫で、机を通り、天井を回ってわたしに戻ってくる。

丹田で手を組み、そこに通り道をひとつだけ作る。

お腹の奥へ、暗闇がゆっくりと吸い込まれるイメージを描く。


「……ふふ。考えながら座禅なんて、キオウさんの喝が入るわね」

小さく笑って、肩の力を抜く。


まぶたの裏の暗闇が、部屋から邸へ、庭へ、そして夜空へとイメージの中の黒い魔力が、際限なく繋がっていくようだった。

静けさが心地よくて、しばらくそのまま呼吸を続ける。


そっと瞳を開くと、夜の気配が部屋を満たしていた。

蝋燭の灯りだけがちらちらと揺れる。


「うん……やっぱり手応えはないわ」


ヨーコは苦笑してノートを見つめた。

ざわめいていた心が、いつの間にか落ち着いていた。


「明日、フェリオンに聞こう」


手の震えはもう止まっていた。



本来の座禅とはニュアンスが違うと思います。

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