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51話 君を失うくらいなら


「ねえ、フェリオン。ここ」

思い出したようにヨーコはフェリオンに向き直る。

机の隅から地図を取り出し、南方を指で示す。


「プルーヴィアだね。“嘆きの沼”についてかな?」


「うんそう。クロードと、みひろちゃんが行ってるところ」


ヨーコの声に、フェリオンは驚いたように目を瞬いた。みひろが従軍していることは自分からはまだ話していなかったから。


「……聞いたんだね。

あそこは、黒の魔力が溜まって魔物の巣になった場所だ。

危険な場所だけど、王命だ。白の聖女の力が必要なんだよ」


「さっき、白の聖女の力じゃ黒は薄まるだけって……」


「そうだよ。沼を形作ってる黒を、散らして薄めて、核を叩けば沼は霧散する。それをこの世界では掃討と言うんだ」


「霧散するだけなら、またどこかに澱んでしまうんじゃない?」


フェリオンは説明に窮して頭をかいた。


「そうなんだよ。そうなんだけど。この世界の人には黒い魔力が見えないんだ。沼になって初めて認知する。だから沼の形が見えなくなれば掃討完了ということになる」


「それ、根本的な解決じゃないわ」

ヨーコの表情が引き締まった。

「ねえ、私じゃ助けになれないかな。私が行けば黒の魔力が減るんでしょ?」


「駄目だ!」

思わず強い声が出た。気づいた時には彼女の肩を掴んでいた。

ヨーコは驚いて目を瞬いた。

フェリオンは一呼吸おいて、静かに続ける。


「ここにいて。君は……君はまだ、自分の力を制御できていない。

外へ出れば、周囲の黒い魔力が一斉に君へ流れ込む。

それに、黒い魔力が体に満ちた兵士達がいるんだ。君にとっては魔物より危険だよ。そんな所に行くのは了承出来ない」


「でも――」


「頼むよ」

フェリオンの瞳が妖しく揺れていた。

「君を失うくらいなら、世界の均衡なんてどうでもいい。

君が生きていれば、それで―――」


その言葉に、ヨーコは息を呑む。

フェリオンはすぐに目を逸らした。彼女の肩から手を離し、自分の顔を覆う。

信じられなかった。心の奥に隠しておいた言葉が、ふいに溢れ出ていた。


「……ごめん。取り乱した。

とにかく、今はまだ危険なんだ。

制御の方法を一緒に探そう。

それができれば、君はきっと、どこへでも行ける」


ヨーコは俯き、しばらく考えていた。

そして、小さく頷く。


「……わかった。

でも、早く覚えたい。私の力不足で誰かが苦しむのは、嫌だから」


フェリオンの表情がやわらいだ。

「そう言うと思ったよ。君は――黒なのに、光みたいだ」


「え?」


「いや、なんでもない」


フェリオンは笑い、少しだけ後ずさる。

窓の外を見ると、もう西の空が赤く染まり始めていた。

長居はできない。これ以上ここにいれば、自分が理性を失う。

それに、外では噂が形を持って蠢いている。


“クロードの恋人に、フェリオンが通っている”


馬鹿げた噂だ。

そう、馬鹿げた「噂」のままでなくてはいけない。

フェリオンが一歩誤れば、ヨーコが傷つく。

それだけは絶対に避けねばならない。


「もう帰らないと。……今日もありがとう、ヨーコ」


「こちらこそ。……また明日?」


「もちろん」


フェリオンは微笑み、扉の前で一度だけ振り返った。

夕日が差し込み、ヨーコの輪郭を金色に縁取っていた。

彼女は黒を纏っていて、その中で冴え冴えと光る彼女は月の化身のようだ。


扉を閉めたあと、フェリオンは短く息を吐く。

胸の鼓動がまだ早い。

彼は己の掌を見下ろし、苦笑した。


「……行かせられない。あんなに輝いてるんだぞ、誰にでもすぐに見つかってしまう。

―――オレが、止めなきゃ」



馬車に乗り込む頃、夜が落ちてきた。

クロード邸の灯が遠ざかる。

その光を振り返りながら、フェリオンはただ一つの願いを胸に刻んだ。


―――明日も、理性を保てますように。

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