50話 フェリオン先生のお話
フェリオンは昼を少し過ぎてからクロード邸を訪れた。
馬車を降りると、午後の光が石畳に反射して彼の目を眩ませた。
こんな気持ちで邸を訪ねるのはもう三度目だ。
彼の体を小さな緊張がじわりと巡る。
ヨーコに会える喜びと、長くはいられないという自制――それが彼の一日を形作っていた。
今日こそ彼女に話さなければならない。
彼女の性質。
彼女の影響力。
彼女の本質を。
そしてフェリオンは願う。
どうか、どうか。そのどれもが、彼女を傷つけませんように。
二階のヨーコの部屋。その扉を開けると、窓際で彼女が本を読んでいた。
淡い光に包まれ、白いカーテンが彼女の肩を撫でる。
彼女は黒を纏っている。最初は重苦しい空間だったはずなのに、今はどういうわけか心を高鳴らせる。
それがいつも不思議だった。
「こんにちは、フェリオン。どうぞ」
笑顔でソファを示し、ヨーコは本を本棚に戻した。
そこには先日までヨーコをうならせていた童話や子供用の教本が並んでいた。
「やあ、ヨーコ。その本、もう必要ないんじゃない?」
ソファに腰を下ろしながらフェリオンが言うと、ヨーコが笑顔で振り返った。
「あなたやクロードから貰った本だから、大事にしたいの」
「光栄だね。それじゃあ、また持ってこよう」
背表紙を愛しそうになぞる彼女を見ないようにして、フェリオンは薄く笑った。この部屋で彼女に心を寄せるのは危険だった。
「……今日は、君の話をしたいんだ。君の持つ、力の話」
そう言いながらも、彼は無意識に心の位置を測っていた。
迂闊に近づきすぎれば、黒の魔力が呼応してしまう。
自分の内にある澱みを、彼女が吸い上げてしまう。
快楽に似たあの感覚を味わえば、二度と距離を取れなくなる――
それを、フェリオンは理性で押しとどめていた。
机の上には、古びた羊皮紙の束。
フェリオンはその一枚を広げる。
「ヨーコ。今世界では、作物が育たなくなってきている。魔物の出現も増えて、戦争も絶えない。
原因は魔力の枯渇って言われてるけれど、……じっさい問題なのは“黒い魔力”なんだ」
「黒い……魔力」
ヨーコは首を傾げる。やはり彼女もみひろ同様、魔力を感知しないようだ。
フェリオンは小さく笑い、指で紙をなぞった。
「大気には白と黒の魔力が混ざって満ちている。世界は以前は白かったけれど、今は黒く淀んでいるんだ。
このままでは世界は破滅する。それで、聖女を召喚したんだ。
みひろが"白の聖女"と呼ばれているのを知っているだろう?それは彼女はその身から真っ白い魔力が溢れているからだ」
「童話みたいなお話」
「そう、聖女をモチーフにした話は多い。君も読んだよね」
ちらりと本棚を見る。ヨーコも聖女をモチーフにした絵本を持っていた。
「白の聖女と黒の魔女」
ヨーコはずっと疑問だった。なぜ「聖女と魔女」ではいけないのか。
「あの本でいうと、魔女が黒い魔力のメタファーということ?だから、"白"の聖女と"黒 "の魔女という名前にしたのかしら」
フェリオンは目を瞬かせた。ヨーコは話せるようになっただけじゃない。理解が早い。
「そう。オレ達もそう思ってた。だからみひろが召喚された時、彼女だけで世界が救われると思った。ほとんどの文献にも「白の聖女」の事しか記されてなかったし、実際彼女が現れてから大気は黒が薄れて草木も動物も元気になってきた。
でも、それだけじゃ足りなかったんだ。彼女の力は黒い魔力を膨大な白い魔力で薄めているだけ。国単位で見れば白い魔力が満ちたように見えるけどね。
世界単位で見ると……そうだな、息を吸い続けて、吐けなくなったような状態とでもいうか」
ヨーコの瞳に光が揺れる。
彼女は何も言わずにただ聞いていた。
フェリオンはその沈黙に救われる気がした。彼女は理解しようとしている。
そのことが、どんな理屈よりも彼を支えていた。
「だから、君の存在が必要なんだ」
フェリオンはゆっくりと続けた。
「白を満たすだけでは駄目なんだ。黒が欠けてはいけない。
君は、“魔力を還す力”を持っている―――君は」
「私は―――黒の魔女?」
「違う。魔女なんかじゃない」
ヨーコは少し戸惑いながら微笑んだ。
「え、でも、魔力が減るのは……悪いことじゃないの?」
「いいかい、これは奇跡なんだ。"白の聖女"と同じ。いや、対と言っていい。
言わば君は"黒の聖女"」
「黒の、聖女」
「でも――君はとても危うい。
君の力は、他者の黒い魔力を吸収してしまう。それは魂が、浄化されたような感覚なんだ。
だから、皆が君に惹かれる。理屈ではなく、体の奥から」
フェリオンはそこで口を閉ざした。
ヨーコを見つめる瞳が、どこか苦しげだった。
「……それは、あなたも?」
ヨーコの声は穏やかだったが、まっすぐだった。
フェリオンは瞬きをし、苦笑した。
「僕も……抗っているつもりさ。
学者だからね。理性を信じてる」
本当は理性だけでどうにかなる問題ではなかった。
彼女と同じ部屋にいるだけで、胸の奥の闇が呼び覚まされる。
それを手放すことが快楽になる――この構造を理解しているのに、心は従わない。
「でもね、ヨーコ。
君がここにいてくれるおかげで、この国は少しずつ癒えている。
君がいる場所の空気は澄んで、風の流れが整う。
世界はちゃんと反応してるんだ」
ヨーコは静かに頷いた。
けれど次の瞬間、彼女の瞳に小さな影が宿った。
「魔女じゃなくて、聖女……」
つぶやく彼女にフェリオンは真剣な眼差しを向けた。
「フェリオン……?」
「召喚のとき、君は斬られた。そのことは、目覚めた後にクロードと謝罪したけれど、今ならちゃんと謝れる。懺悔してもいいかな」
ヨーコはため息をついた。
言葉が分からない時に1度、少し話せるようになってからも、彼らからは謝罪を貰っている。その時は理由はよく分からなかったけれど、今話を聞く限り何となく察した。
「何度も謝らないで。それに、フェリオンもクロードも、私を助けてくれたじゃない。元気になってもこうやって気にかけてくれて、お礼を言いたいくらいなのに……」
「それは!……オレがしたくてしている事だ。君の感謝が欲しくてしていたわけじゃない!」
フェリオンは思わず遮った。
声が強くなりすぎたことに気づき、息を整える。
「君が傷ついたのは……僕の責任だ。
あの現場を指揮していたのは僕だ。
"黒の魔女"への恐怖と偏見で君を“敵”と断じたあの騎士を見過ごした。
本当に……すまなかった」
そう言うと、彼は一歩下がり、静かに膝をついた。
額を床に近づけようとするその姿勢は、どこか滑稽なほど真剣だった。
ヨーコは慌てて立ち上がり、彼の肩に手を置く。
「そんなこと、しないで」
「でも――」
「ゆるす」
言葉が胸を突き、フェリオンはハッとしてヨーコを見た。
「あなたが、私によくしてくれたから。それが嬉しいから、もう謝らないで。全部教えてくれてありがとう」
フェリオンは目を閉じた。
彼女の手のひらが触れる場所から、黒の魔力が静かに流れ出していくのを感じた。
そして、その代わりに胸の奥に温かい痛みが広がる。
「……ありがとう、ヨーコ」
蝋燭の炎が小さく揺れた。
沈黙が、二人のあいだに柔らかく漂う。




