49話 ヨーコという人
「理由は私にも分からないの。朝起きたら言葉も分かるようになってて、体も軽くなってたのよ」
階段を上りながら、ヨーコは言う。
途中でよろけたり、フェリオンに寄りかかったりはもうしない。淀みなくスイスイと足を運ぶその姿は、昨日までの虚弱な様子からは想像できない。
フェリオンはヨーコの話に頷きながら、心の中でため息を吐いた。
魔法塔の地下書庫で見つけた古い記録が脳裏を掠める。
”黒の聖女は心を閉ざす限り、世界に溶け込まない。”
それが今、目の前で覆された。
―――彼女がこの世界に心を向けたのだ。
フェリオンは唇を噛む。
ヨーコは、クロードの事を知りたくて、こちらの世界に飛び込んだのだ。
彼の心配をして、彼を知るために必要だったから。
「不思議よね」
部屋の扉を開けながら笑顔を向けてくるヨーコに、フェリオンは眉尻を下げて「そうだね」と笑った。
あの地下図書館で呟いた願いは叶わなかった。
それがオレならいいのに。
叶わないと分かっていたじゃないか。こんな嫉妬には意味が無い。
相変わらず黒い魔力が満ちる部屋に入る。ヨーコのそばにいるだけで自分の中の黒い魔力が彼女に流れていく。
そこに身を投じるだけで、気持ちの制御ができなくなる。
「ヨーコ……」
「じゃあ教えて」
ソファに座り、ぴしりと背を伸ばすヨーコ。そこにはもう笑顔はなかった。
「クロードはどこに行ったの」
じくりと心臓が痛い。フェリオンは苦い顔をしてヨーコの向かいに座った。
昨日の弱々しい彼女の姿はもうない。
フェリオンは気を引き締めた。
「うん。昨日言った通り、クロードは魔物討伐の依頼で、ここから馬で1週間くらいの所にあるプルーヴィア領に行ったんだ」
フェリオンは地図を広げながら、昨日あんなに時間を取った説明を一息でする。
「いつ帰ってくるかは分からないって言ってたわよね」
地図を見ながらヨーコが言う。
「ああ。プルーヴィアに、嘆きの沼っていう、魔物が湧き出る沼地が出来たんだ。それで、帰還の目処が立たないんだよ」
「魔物がわき出ることはよくあることなの?」
フェリオンが首を振る。
「稀だね。あんなものがほいほい出来たら、国が滅びる」
「そ、んなに、酷いの?」
ヨーコは青くなる。フェリオンはため息を吐いた。
あまりショックを与えたくないが、正直に話す。
「5年前にも嘆きの沼は発生した。その時もクロード達騎士団が派遣されたけど、2年以上戻ってこなかった。でも………」
「2年、も?」
ヨーコは言葉を失う。想像を絶する激しさだ。膝で握っていた手が震える。
フェリオンは思わずその手に触れそうになった。今彼女の手を温めてやれるのは自分しかいない―――
その時ノックの音がした。
フェリオンはハッとして椅子に座り直した。
メイドのクララがお茶を持ってきたのだ。
彼はヨーコを励ますように少し語気を強めて話す。しかしそれは、自分の危うさを断ち切る行為でもあった。
「大丈夫。クロード前回の嘆きの沼からも元気に帰ってきたから。ね、クララ」
紅茶を淹れるクララが微笑んで頷いた。湯気がたち、紅茶の豊かな香りが揺れる。
「当然です。クロード様は”翠焔の剣士”ですもの。その後すぐ他の地へ行って竜の首を取るほどお元気でしたよ」
「本当に!?クロード強すぎない?」
「そう、クロードは呆れるほど強い騎士だから、心配しないで一緒に待とう」
テーブルに置かれたケーキにフォークを入れながら、フェリオンは軽い口調で言った。
「君が不安にならないように、クロードの英雄譚を沢山教えてあげる」
「それは楽しみだわ」
やっと笑った彼女にフェリオンの胸は傷んだけれど、それは酷いものではなかった。口に運んだケーキの味がする程には余裕があると自分に安心する。
「でも話すのは休憩の間だけだよ。ヨーコにはこの世界の事を山ほど覚えて貰いたいからね」
「それも、楽しみ」
言いながら、意気込むフェリオンの口元に付いたクリームをヨーコは指で取ってやる。
思わず口元を抑えて赤くなるフェリオンにヨーコは笑う。
「私、好きよ」
「え」
「勉強。結構好きなの」
指に付いたクリームを拭いた。フェリオンは彼女から目が離せない。
「よろしくね、フェリオン先生」
意地悪く笑う彼女。そんな彼女にときめいてしまう自分を咳払いで誤魔化した。
フェリオンはフォークを置いた。
「……不安を煽ったから怒ってる?」
「怒ってないわ。クララが来なければすぐにフォローするつもりだったでしょ?
それに、フェリオンもクロードを信じてたから、そんな言い方ができたのね」
ヨーコはケーキを口に入れた。
甘い笑顔。フェリオンは酩酊した心持ちになった。
なんて事だろう。
フェリオンはこの気持ちが黒の聖女の性質ではなく彼女のせいと気づいた。
「ふふ、英雄譚。楽しみだわ」
ヨーコはクロードを思い、無意識にふわりと笑った。
「………きっと驚く。楽しみに、してて」
フェリオンは薄く笑った。
気づいた瞬間砕けた運命。なんて笑える話だろう。
彼女は自分の世界を変えるくらいクロードに焦がれている。
対して自分はどうだ。口元を拭われるなんて、弟か子供扱いされて。まるで勝負にならない。
ああ、泣きそう。
オレの恋は今終わったのに、魔力を吸われるせいで心の火が消えない。
彼女がこの性質を抑えられたら―――自分も救われるだろうか。




