44話 国難
夜明けと共に、それはやってきた。
早馬に乗った伝令が、黒の副騎士団長からの書簡を携えて現れる。
クロードは夜着のままそれを受け取り、短く息を吐いた。
「クロード・ラングレイ様。国王より登城のご命令です」
「……了解した」
厳しい声でそう答えると、封を切った。
文面は簡潔だった。
>『黒の騎士団部隊長クロード・ラングレイは、直ちに出立の準備をし登城せよ。
国難発生。聖女殿下を護衛し、プルーヴィアの“嘆きの沼”へ最速で向かい、黒の騎士団長の補佐をせよ。
詳細は副団長より口頭で伝える。』
クロードの顔が険しくなる。
“嘆きの沼”――突発的に発生する魔物の巣。
地が裂け、底なしの泥が沸き立ち、そこから無数の魔物が湧き出す。
災害級の魔物災禍だ。
「よりにもよって……プルーヴィアか」
プルーヴィア領は南方の穀倉地帯。
国の食を支える大地が、いま飲み込まれようとしている。
まさに国難だった。
「コンラート、部屋へ。遠征の支度を」
執事が小さく礼をして答える。
「はっ」
足早に廊下を進みながら、クロードは頭の中であらゆる準備を巡らせる。
その思考の隙間で、ただ一人の名が浮かんだ。
――ヨーコ。
昨日の件で、謝りたい。
彼女を傷つけてしまったのに、まだ何も伝えていない。
このまま戦地へ向かえば、もう会えないかもしれない。
「……コンラート。ヨーコを頼む」
「お任せを」
それだけ告げて、階段を上ろうとしたその時――
「クロード」
静かな声が、廊下に響いた。
振り返ると、そこにヨーコが立っていた。
淡い布を羽織っただけの姿。
冷たい石床の上で、彼女はじっとクロードを見つめていた。
「どうしてここに……」
「いなくなるの?」
その一言に、クロードの胸が締めつけられた。
言葉が出ない。
そして次の瞬間、彼は彼女の腕をとり、部屋の中へと導いた。
「ヨーコ。時間がない。聞いてほしい」
自分の羽織を彼女の肩にかけ、両手でその肩を支えた。
彼女は真剣な顔でうなずいた。
「まず――昨日のことだ。
俺は、嘘をついた。君の信用を失った。……許されないことをした」
そこで、ヨーコの細い指が彼の手を掴んだ。
「もっと、かんたんに」
ああ、そうだった。
焦りで、彼女がまだ言葉を学んでいることすら忘れていた。
クロードは息を整え、膝をついた。
目線を合わせ、ゆっくりと告げる。
「ヨーコ。俺は、君が好きだ。……それで、まちがえた。許さなくていい」
彼女の黒い瞳が、まっすぐに彼を映す。
静かに見つめ合う時間が、永遠に感じられた。
「俺は、今から戦いに行く。長い戦だ」
「戦い……」
ヨーコの指が小さく震えた。
「だから、言っておきたかった」
クロードは微笑む。
その表情には、覚悟と優しさが混ざっていた。
「好きだよ、ヨーコ」
ヨーコは目を瞬かせ、そっと言葉を返した。
「……すき」
それはきっと反芻しただけだろう。返事ははなから期待してはいなかった。
クロードは心の奥で思う。
――これでいい。伝えられただけで。
「俺を哀れと思うなら、何か形をくれないか。戦地で、君を思い出せるように」
ハンカチでも、髪のひと房でもいい。
何でもいい。彼女を感じられるものが欲しかった。
ヨーコは一瞬、考えるように目を伏せた。
彼女の持ち物は、すべてクロードが与えたものだった。
自分の“もの”など、何ひとつない。
『私を思い出すように……』
そう小さく呟くと、彼女は意を決したように顔を上げた。
クロードの手を取り、そのまま――小指の外側に、歯を立てた。
「……っ!」
鈍い痛みと共に、指先から熱が走る。
驚いて手を引こうとするクロードを、ヨーコは優しく押さえた。
『痛くしてごめんね』
彼女の唇に、赤い血が滲んだ。
彼女に噛まれた。
それが自分の血だと知った瞬間、全身の血が沸騰したように熱く駆け巡った。
手が震える。口元を彩る赤から、目が離せない。
動揺するクロードをよそに、彼女は彼の傷口に口づけを落とし、囁いた。
『これが、私の証になるかな』
血の色が、白い肌に落ちる。
その黒曜石のような瞳には、静かな決意と祈りが宿って輝いていた。
『治るまでに、戻ってきて』
クロードの胸の奥が、灼けるように熱くなった。
彼女の小さな願いが、命よりも重く感じられる。
「……ああ、必ず。必ず戻る」
彼はその頬を包み、額に唇を寄せた。
「ヨーコ。愛してる」
ヨーコは驚いたように目を見開いたが、すぐにその瞳を閉じた。
短い、けれど確かな口づけだった。
その瞬間、扉の外から声がした。
「準備が整いました」
コンラートの声。
クロードは小さく息を吐く。
ヨーコは彼の腕の中から静かに離れ、扉へ向かう。
振り返り、微笑んだ。
「……いってらっしゃい」
その一言が、胸に深く刺さった。
クロードは、心の奥で誓う。
――国難だろうと関係ない。早く、必ず帰る。
この手を、もう二度と離さないために。




