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42話 クロードの夜

彼女の寝室から、フェリオンはしばらく出て来なかった。

ヨーコと話したくて、廊下でクロードはずっと待っていた。しかし、出てきたフェリオンに「ヨーコ、ちょっと考えたいって」と入室を断られてしまった。

ヨーコへの贖罪の気持ちと、自分の愛情を父性と断じながら彼女と親密なフェリオンへの嫉妬がないまぜになってクロードを苛んだ。

結局この日はヨーコに会えなかった。




寝室の明かりを落とすと、重い沈黙が降りてきた。

クロードは椅子に腰を下ろしたまま、手のひらに残る微かな温もりを見つめていた。

さっきまで確かにそこにあったのに、いまは遠い。

「嘘つき」と言った彼女の顔が忘れられない。

胸の奥が、焼けるように痛む。

彼女を傷つけるつもりなど、毛頭なかった。

ただ——守りたかった。支えたかった。それだけのはずだった。




ヨーコが眠りについていた日々のことを、クロードは今もはっきり覚えている。

静謐な部屋。穏やか呼吸。

誰もいないあの部屋へ足を運ぶ「夜の日課」。


話しかけても返事はない。

けれど、語り続けることで自分が保たれていた。

「君を守りたかった」

「すまない」

あの雨の日、そう呟いていた。

彼女は眠ったまま何も言わない——はずだったのに、ある夜、寝言のような小さな声が返ってきた。


『……えらいね』


たったそれだけで、胸の奥がほどけた。

あの瞬間、クロードは決めたのだ。

この人を、守ろうと。どんな形であっても。




彼女の目が覚めてからの毎日は、祈りのようだった。

起き上がることもできない彼女の傍に座り、肩に手を添えて支える。

触れるたび、彼女の命を感じた。

その温かさが、彼自身を生かしていた。


最初は「責任」だった。

けれど気づけば、それは「理由」になり、そして「欲」に変わっていった。

彼女に触れること。

彼女が笑いかけること。

それらが、自分の生きる目的のように思えてしまった。


「クララ、これは……普通のことだな?」

そう尋ねれば、クララはいつも笑って「はい」と答えた。

安心した。あの頃はまだ、自分を誤魔化せていたのだ。

今になって思えば、あのメイドは最初から気づいていた。

彼の想いが、ただの「保護」では済まないものになっていることに。


だが、怒る気にはなれなかった。

なぜなら——クララの目を欺かせていたのは、彼自身だったからだ。



ヨーコが初めて立ち上がった日のことを、鮮明に覚えている。

倒れないように懸命な震える足。

頼るように彼の手に触れる細い指。

「よくやったな」

そう言いながら、つい抱きしめてしまった。

あれは称賛でも激励でもなく、ただ、彼女に高まった気持ちをぶつけただけだ。


その時、胸の奥に生まれた感情が「恋」なのだと気づくまで、そう時間はかからなかった。

彼女の頑張りを見ているうちに、どうしても離れられなくなっていた。


恐ろしいことに、無意識だった。


彼女が誰かに心を預けてしまわないように。誰も彼女に近寄ろうと思わないように。

彼女がこの国を知らない事につけ込んだ愚策に及んでしまった。

それが愚かだと気づいたのは、フェリオンの視線に射抜かれた瞬間だった。


「それは治療でも学習でもない」


冷えた声。

まるで矢を射られたような衝撃だった。

ヨーコが小さく震えたのが見えた瞬間、全てが崩れた。



「嘘つき」と言われた時、頭が真っ白になった。

あの一言で、彼女との間にあったものが、全部崩れたように感じた。


——俺は、彼女を守りたいと言いながら、それを嘘にしてしまったのは他でもない自分自身だ。


そう思った時、全身の力が抜けた。

手を伸ばせば届く距離にいたはずの人が、いまは果てしなく遠い。


「俺が嫌?」

あの時、最後の望みをかけて不用意に尋ねた。


『私は信頼の話をしているのに。伝わらなかったのね』


彼女を更に失望させてしまったと気づいた時にはもう遅かった。

好意を素直に伝えられなかった、臆病なクロードの行動すべてが裏目に出た。




窓の外で、冷たい風が窓を震わせていた。

クロードは顔を伏せ、拳を握る。

フェリオンの顔が脳裏に浮かぶ。

あいつもきっと、同じだ。

彼女に触れ、救われ、そして惹かれていった。

だが、あいつはまだ気づいていない。

彼女の穏やかな笑顔の裏に、どれほど無垢な強さがあるかを。

ヨーコは誰も拒まない。

だからこそ、誰よりも遠い。


「……俺は、何をしていたんだろう」

呟きは空気に溶けた。

守るはずだったのに、いつしか「自分のものにしたい」と願っていた。

彼女の瞳に映る自分が、他の誰かより近くにいてほしいと願っていた。

それがどんなに卑しい願いだったか、今になって思い知らされる。


それでも——彼女の笑顔が浮かぶたびに、胸が痛い。

どれだけ後悔しても、その想いだけは消せなかった。


「守る」と誓ったあの夜の言葉。

あれは嘘ではない。

だが、「嘘つき」と言われた今となっては、その誓いすら罪のように思えた。


彼は目を閉じた。

闇の中で、眠るヨーコの横顔が浮かぶ。

あの穏やかな寝息に救われた日々。

あの静けさの中にだけ、彼の真実はあったのだ。


この気持ちだけは、彼女に伝えなければ。


クロードの眉間からシワが消えた。

もうヨーコの信頼は取り戻せないかもしれない。

それでもいい。

彼女に話そう。


朝を告げる鳥の声が彼の耳に届いた。

窓の外、空が白んでいた。

夜明けだ。

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