39話 裏目
ヨーコが目を覚ましたあの日から、彼女はずっと努力を惜しまなかった。
体を起こすことも難しい彼女は早く歩けるようになりたがった。また、言葉の習得にも貪欲で、つい夜更かししてしまうため、彼女はいつも疲れていた。
フェリオンは何度も様子を見に訪れ、魔力の流れや体温、脈の乱れまで細かく確認した。彼の診察はヨーコの過労を叱るところから始まる。
「一度に何でもかんでもやらないで」
彼女にわかるように平易な言葉を選んで再三言っても一向に聞かない。
クロードはその傍らで、彼女の体の回復を支えた。最初の頃は、座るだけで息が上がるほどだったが、彼は背を支え、腕を貸し、短い時間でも体を動かせるよう手助けをした。
ヨーコは痛みや疲労を感じても、諦めることはなかった。その健気な姿に、クロードは日ごとに心を奪われていった。
ヨーコがひとりで立てた時は嬉しくて、クロードは抱きしめるつもりが、勢い余って体当してしまい、フェリオンに2人して大目玉を食らったものだ。
二週目に入る頃には、フェリオンの指示で歩行訓練が始まった。
クロードは転倒を防ぐため、彼女の腰や肩を支えながら歩幅を合わせた。彼の手は決して強くはなかったが、その支えには確かな意志があった。
フェリオンが経過を見守りながら注意を促すたび、クロードは無言で頷き、ヨーコの動きを見つめ続けた。
三週目には、ヨーコは邸内をゆっくりと歩けるようになり、フェリオンは安堵の笑みを浮かべた。
言葉の学びも同じ頃から始まった。
みひろが訪れる日は、通訳として二人の会話を取り持ち、ヨーコは幼子のように新しい言葉を口にし、熱心にメモを取った。
みひろが帰ると、クロードとフェリオンは子供用の教本や絵本を広げ、簡単な単語を指さしながら彼女に教えた。
「これは太陽」「これは鳥」――そんな小さな積み重ねが、彼女の世界を少しずつ広げていった。
ヨーコは笑いながら単語を真似し、クロードはその声を誇らしげに聞いた。
回復と学びの日々は、静かで、けれど確かに温かかった。
彼らはヨーコを助け、ヨーコは彼らに報いるように努力を怠らなかった。
それを、誰も苦とも思わなかった。
こうしてお互いがお互いを知り、心地のいい時間を積み重ねていった。
しかし、男ふたりが彼女への愛情をこじらせていることは彼女は知らなかった。
―――――
空が茜色に深く染まり、クロード邸の庭木を橙色に照らす頃。
ヨーコに渡す初等教育用の教本を携え、フェリオンはクロード邸の門をくぐった。
執事のコンラートが、いつもよりも深い位置で頭を下げて出迎える。
「コンラート。ヨーコはどこかな? 」
いつものように軽い調子で話しかけると、思ってもみないほど慇懃で、どこか胃が痛そうな答えが返ってきた。
「フェリオン様。ヨーコ様はただいま、当家の主人と大変、熱心に勉学に励んでおられます」
いつもの気さくなおじさんはどこへ。コンラートは眉間に深い皺を刻んでいる。
「え、何、どうしたの。クロードがまたヨーコに無理をさせているの?」
やっと立てるようになったばかりの頃、ヨーコを廊下に出して歩行の練習をさせていた衝撃が脳裏に蘇る。
ヨーコもヨーコで無理とも思わず玉の汗をかいて頑張っていた。邸の主人の考えに誰も逆らえずオロオロしていたところにフェリオンが来て、主治医として怒った事を思い出した。
フェリオンが疑念の目を向けると、コンラートは曖昧に首を振った。
「いえ、なんでもございません。ご案内致します」
コンラートの表情を読みかねたまま、フェリオンが促されたのは、いつもの明るい客間ではなく、クロードの書斎へ通された。
ここにヨーコが?フェリオンの胸のざわつきは加速する。
そして扉が開いた瞬間、コンラートが言わんとした事、そして彼の胃痛の原因が分かった。
「フェリオン、来たのか」
クロードが、重厚な革張りのソファに深く座り、鷹揚に軽く手を上げた。その彼の足の間に、ヨーコがちょこんと座り、クロードが支える童話を前に真剣な面持ちで読んでいる。
「…見つけました。そして、…王様?あ、王子はお姫様に花束を…投げ入れ……ん?」
分からない文字に赤ペンで線を引いていた。確かに「勉強中」だ。書斎の暖炉の灯りが、二人の姿を静かに照らし出していた。
嫉妬の波が、教本を持つフェリオンの腕に電気のように走る。
こいつ、ついにやらかした。
妙にヨーコと距離を縮めていると思っていたんだ。
フェリオンは思わずソファに詰め寄った。
「おい、これはどういう……」
「あ、フェリオン。いらっしゃい」
ヨーコがフェリオンの方を向き、にこやかな笑顔で挨拶する。こちらの言葉を覚えるために、自分でも話すようにしているのだそう。その甲斐あってか、挨拶程度の言葉はもう完璧だ。
「あ、ああ。こんにちは、ヨーコ。……クロードはなにやってんの? 」
フェリオンはヨーコに笑顔で挨拶し、即座に笑顔を引っ込めてクロードに向き直った。
「なに、とは?」
悪びれもせず、クロードは至極当然のように言い放つ。メイドのクララが運んできた紅茶を、クロードの向かいのテーブルに置く。フェリオンは深く息をつき、腰を下ろして一気に紅茶を飲み干した。
「いや、変だろ。抱っこして童話の読み聞かせって。淑女をそんな抱え方……」
まるで恋人だよ。とは、フェリオンには言えなかった。
クロードは全く動じない。彼はヨーコの黒髪を慈しむように撫でながら、控えているメイドに聞いた。
「変? クララ、この状況に何か不自然な点はあるか? 今のヨーコには寄りかかるものが必要だろう?」
「もちろんでございます、クロード様」
クララは真顔で答えた。一見主人の意図を察し、絶対に逆らわない優秀なメイド。いや、フェリオンは知っている。この古株のメイドは忠誠心の高い、弁えた人だ。フェリオンは、自分の常識がこの空間では通用しないことに、心底ため息が出た。
「……これはもう治療でも学習でもないよね。やりすぎ。
ヨーコはどうなの、こんな恰好」
フェリオンは撫でられるがままになっているヨーコを見た。
「どうなの、って? 分からない」
ヨーコが片言でオウム返しをする。「どうなの」はまだヨーコの知らない単語だ。
「この、二人でくっついている状態、好きで、やってるの?」
フェリオンはゆっくり話し、身振りで何かを抱っこする仕草をした。
ヨーコはフェリオンが、この「抱っこ」状態の話をしている事に気づいてハッとした。
彼女の黒髪の頬が、一瞬で恥じらいに染まる。上目遣いでクロードをきつく睨んだ。
『やっぱり変なんじゃない! クララさんにまで嘘つかせて』
流暢な言葉遣い、完全な日本語での非難だった。
『嘘つき。恥ずかしいから、もう離して!』
その言葉にクロードはビクッと震えた。
お腹に回されていたクロードの手が、名残惜しそうに、ゆっくりと彼女を解放した。
「許可もなしに淑女を抱っこしたらダメでしょ、黒の部隊長殿」
呆れたようにフェリオンは言った。
「許可はとったさ。なあ、クララ?」
クロードは、クララが注いだ紅茶を一口飲む。
クララは「はい」と言って目を伏せる。
「ヨーコは、良いよって、言ったの?」
フェリオンは釈然とせず、簡単な単語だけでヨーコに確認した。
ムスッとしたヨーコが、フェリオンの隣にゆっくり座り直す。
「……クロードと、クララが、フツウと言いました」
完全に騙されていたと気づいたヨーコは、ぷりぷりとした様子で紅茶を飲んだ。
「ダメだよ、クロード。言葉が通じないのをいいことに、勝手にフツウにするのは」
フェリオンは即座にヨーコの味方をした。
「支えただけさ。彼女はまだ長時間座っていられないんだぞ」
クロードはこの期に及んでそう言った。
フェリオンは「へー」と目を細め、ヨーコに向き直った。
「さて、ではヨーコ、診察をしようか」
フェリオンが言うと、ヨーコは立ち上がり、歩こうとするとふらりと上体が揺れた。
「ほら」
いつの間にか立ち上がっていたクロードが、当然のように彼女の肩を抱き、支える。
ヨーコは一瞬彼にもたれたが、すぐに「ありがとう」と不満そうに片言で言って、離れた。
「フェリオン、行こう」
そう言って、彼女はクロードから一歩離れ、フェリオンのローブの裾をちょこんとつまんだ。
「ヨーコ。俺が嫌なのか?」
クロードが、眉尻を下げた顔でヨーコの顔を覗き込む。
ヨーコは白けた目で彼を見上げた。
そして、流暢な凛とした声で言った。
『私は信頼の話をしているのに。伝わらなかったのね』
クロードは、完全に固まった。
フェリオンが腕を出し、ヨーコが手を乗せる。
ヨーコを1人の女性として扱うフェリオンにクロードは為す術がない。
「あんまり怒らせてやるなよ。過保護すぎ……ブフッ……クロード父さん」
意図せず最高の皮肉を浴びせて、吹き出すフェリオンの手を取り、書斎をよたよたと出るヨーコを、クロードはただ、呆然と見送ることしかできなかった。
「お、お父さん、だと……?」
背後では、クララが思わず口元を押さえ、小さく吹き出す音が響いていた。




