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38話 彼女のための書庫探索


古びた報告書をめくるフェリオンの指が、途中で止まった。

覚醒したヨーコとの十日間を思い返し、息を吐く。

伝わっていなかった恥ずかしさと、どうしようもない落胆が、胸の奥で波のように押し寄せてくる。


午前中は仕事に追われていたせいで考えずに済んだのに――

こうして静かな場所にいると、沈んでいた感情が、音もなく浮かび上がってくる。


魔法塔の地下書庫――乾いた空気に、蝋燭と埃の匂いが混じる。

古代の魔法陣によって空間が歪められたここは、地下とは思えぬ天井の高さと広さを持つ。

そこに積み上げられたのは、無数の本、報告書、そして紙片。

製本されているものばかりではない。塔の魔法使いたちは、外部に漏れないように自らの研究記録をここに次々と放り込む。

ここは、いったん収めた物は、書き写しすら持ち出せないように封じられる。

知識を外に持ち出したければ――この場で読んで、頭に焼きつけるしかない。


扱いづらく、探しづらく、何より融通が利かない。

だからこそ、実用的な資料は別棟の図書塔に置かれるのだ。


埃を被った棚の列を、ひとりの影が静かに歩く。

この地下に来るのは、塔の幹部か、研究狂いか、あるいは召喚術のような稀少な分野を追う者ばかり。

今、石造りの広間に響くのは、フェリオンが本棚を探る微かな音だけだった。


「……このあたりに、あるはずだ」


ヨーコが目覚めて以来、彼女がこちらの言葉を理解した様子はない。

それなのに、彼女の言葉は誰にでも通じる。

通訳魔術も、思念伝達も、すべてすり抜ける。


まるでこの世界そのものが、彼女の内側に触れることを拒んでいるようだった。

――いや、拒んでいるのはこの世界ではなく、彼女自身なのかもしれない。


フェリオンは、記憶の奥底に残る資料の形を思い出す。

召喚チームに携わっていた頃、似たような記述を見たことがある。

“言葉”ではなく、“音”に関する、かなり古い報告書だった。


使い終わった召喚資料をまとめて納めた棚をほのかな灯りが照らす。

手探りで進む指先に、見覚えのある綴じ紐の感触があった。

紐で雑に綴じられた古文書を開くと、そこに断片的な一節が残っている。



『黒──は音を放ち、世界を動かす。

しかし世界は、その──の──を覗くことを許されぬ。』


『黒──歓びの世界─能う事』



古代語で書かれた文字は欠け、判読もままならない。

嗜む程度の翻訳ではこれが限界だ。


「……訳、違うのか?」


辞典を引き寄せ、指で単語をなぞる。

消えかけた綴りが、ゆっくりと意味を取り戻していく。

その瞬間、胸に小さな衝撃が走った。


『黒は音を放つ。

世界はそれを受け入れながら、返すこと能わず。』


「……受け入れても、返せない?」


息を呑む。


『──黒が世界を識り、能うこと、歓ばしき。』


“黒”――それは神話や伝承で繰り返し語られる存在だ。

世界の理に干渉するほどの力を持ちながら、対話を拒む者。

ほとんどは“白”に滅ぼされる混沌の象徴として描かれてきた。


この資料も、召喚チームで一度は集めたものの、まゆつばだと解読班が仕舞い込んだ記録の一つだ。

けれど今、ヨーコの現状を思えば、その内容は途端に現実味を帯びてくる。


彼女は召喚の儀の“途中”で現れた。

みひろが完全な術式で呼ばれたのに対し、ヨーコは“割り込むように”してこの世界へ来た。

おそらく、あの黒猫の水神が自らの意思で彼女を手繰り寄せたのだ。

そして神に愛されたヨーコという魂は、“世界を従わせるほどの強さ”を持っていた。


だからこそ、彼女の言葉は通じる。

世界の方が、彼女に合わせて翻訳しているのだ。

だが同時に、彼女自身はこの世界をまだ受け入れていない。

その拒絶が、心の壁を生み、音を遮っている。


「……心が閉じているのか」


ふと、みひろの顔が脳裏を過る。

ヨーコと唯一、会話が成立する存在。

同郷ゆえに魂の響きが似ている――

いや、それ以上に、ヨーコが彼女に“心を開いている”のだ。


「同じ世界から来た者……。

言葉ではなく、心の波が共鳴している……」


呟きが、書庫の闇に吸い込まれていく。

理解と納得の裏で、胸の奥にざらついた痛みが残った。


フェリオンは、ふと天井を仰いだ。

書庫の灯が揺れ、長い影がゆっくりと壁を這う。


ヨーコを思う。

彼女のあの黒い瞳。何を見ても何を聞いても、どこか遠くを見ているような——。


「……心を閉ざしている、か」


思わずつぶやいた声が、闇に溶けた。

そう、彼女はまだこの世界を受け入れていない。

言葉も、想いも、すべて届かない。

まるで、厚い硝子の向こう側にいるように。


それでも。

彼女がほんの少しでも誰かに心を開けるなら——


「……それがオレならいいのに」


苦笑がこぼれた。

自嘲にも似た笑み。

言葉にしてしまえば、途端に幼く聞こえる。

だが、その願いが胸の奥で確かに疼いているのを、彼は誤魔化せなかった。


フェリオンは机に散らばった古文書をまとめ、深く息を吐いた。

灯火の明かりが揺れる。

壁に伸びた影が長く、静かに揺れる。


戻した棚の端に、一冊の童話があった。

誰もが幼い頃に読む「白い聖女と黒い魔女」――この世界では定番の物語だ。


「……黒の魔女、か」


ふと心を盗む魔女の姿に、彼女を重ねる。

――いや。彼女は、あんな邪悪な存在ではない。


彼女は、黒の“オレの聖女”だ。


口元に、微かな笑みが灯る。

世界を愛しながらも壊してしまう魔女と、乞われながらも世界を拒む彼女。

その孤独に、どこか共鳴を覚えた。


「とりあえず、追加の教本でも買って帰るか。……地道が近道」


今の子供用の教本や童話での学びを、彼女は楽しそうに続けている。

あの勤勉さは、目を見張るものがある。


無意識に世界を拒んでいるとしても――

彼女なら、それすら勉強で克服してしまうのかもしれない。


静かな呟きを残し、階段を上がる。

フェリオンの足音だけが、古い書庫に穏やかに、誓いのように響いていた。



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