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35話 浮かれたフェリオン

〈 ヨーコ 〉

クロという人が、またどこかへ行ったようだった。

扉が閉まる音を聞いて、そう思った。


私はまだ身体が思うように動かせず、ベッドの上でぼんやりと天井を見ていた。

小柄な女の子が私の世話を焼いてくれている。肩まである柔らかそうな髪を揺らしながら、私の体を起こし、優しくシーツを整え、寝転がる私の額に冷たい布を当ててくれた。


「ありがとう。重いよね、ごめんなさい」


そう声をかけると、彼女は驚いたように目を見開き、何かを早口で話し出した。けれど言葉は分からなかった。ただ、その中で一度だけ――「クロード」という響きが、はっきりと耳に残った。


……クロード?


あの人の名前、クロじゃなかったの?

勝手に呼びやすいあだ名にしていたことに気づいて、頬が熱くなる。


俯いた私を見て、女の子はふふっと笑った。ちらりと盗み見ると、花がほころぶような笑い方だった。


「かわいい」


思わず口に出してしまった。

すると、彼女は少しだけ顔を赤らめて、なにかをつぶやいた。やっぱり、意味は分からない。私はもっとこの言葉を覚えなければ――そう思った。



〈フェリオン〉


朝、少し早めに黒の騎士団の詰所へ足を運んだ。

目的はひとつ――ヨーコの様子を、クロードから聞くため。


昨日、また瀕死の重傷を負った彼女。

神を愛し、愛された彼女。

目覚めた彼女の言葉。


「……クロ」


彼女がずっと夢の中で呼んでいた名。それを、目を覚ましきらぬままでも、彼に向けて発した。

なぜ。

あの猫水神が「クロ」ではないのか。

屋敷に戻ってからも、胸の奥が鈍く痛んだ。

神の権能で癒えていく傷を見るよりも、二人が見つめ合う姿のほうが胸に残っている。


……何やってんだ。もっと考えることあるだろ。


そんな自己嫌悪の真っ只中に、本人がやってきた。


「おはよう、フェリオン」


「おはようクロード。待ってたよ」


まぶしい。もう本当に、肌が光ってるんじゃないかと思うほど、生気に満ちている。

ヨーコと話したんだな、と思った。

俺は、自分の顔色が悪くなっているのを自覚していた。


「その様子だとカレハの所にはまだ」

闇など一欠片も持ち合わせていないようなクロードに瑞を向けると、彼の口元は引き結ばれた。


「……もう行ってきた」


眉間に皺を寄せ、頭をかく。「話にならん」クロードはそれだけ言うと報告書をオレに差し出した。


それはカレハの供述調書、と言うには語弊があるような書類だった。

何を聞いても「自分は悪くない」「騙された」「彼の聖女は私」など、意味の分からない言葉ばかり呟いて、時折気が触れたように叫んだり笑ったりすると書いてあった。


「何を聞いても要領を得ん」

クロードは大きく息を吐き、目頭を押さえる。


オレは調書をめくる。リゼにも尋問を行ったようだ。

彼女はカレハの友人で、ヨーコの部屋の鍵を開けたが、カレハの思惑を知らずに手を貸したという。

ただ、尋問の間、ずっと「あの黒髪の眠り人様のお世話をしなくてはなりません」「あの方は私が居ないといけないのです」などとうわ言のように話し、何度も逃げ出そうとするそうだ。こちらはこちらで埒が明かなそうだ。


ヨーコという隠された相手への襲撃事件だ。オレもこの後接見する予定だ。


「ヨーコの体調はどうだ?」


調書を閉じ、クロードに向き直る。

「ヨーコ」という名前だけでクロードは元気が出たようだ。

「体力は落ちているようだが元気だ。奇跡の体現者だよ」

まだ見ぬ彼女との出会いを思い、オレは「後でヨーコを見に行く」と伝えた。



---



クロードの屋敷に着いたとき、廊下の奥から、浮き立つような声が聞こえてきた。


「でねでね、ヨーコ様に、クロード様が朝晩ずっとお世話してたって言ったら、

赤い顔して、すっごく恥ずかしがってたんですよー! めちゃくちゃ可愛かったんです!」


……聞きたくなかった。


ヨーコがクロードに――心を許している。


いや、まだ早計だ。

今日が、俺と彼女の“初対面”なのだ。

警戒されないよう、誠実さと優しさを伝えよう。

俺は実際そういう男なのだから。ちゃんと伝わるはずだ。


そう心に言い聞かせて、扉を開けた。


「こんにちは」


彼女は、寝台から体を起こして、まっすぐにこちらを見ていた。

黒曜石のように深く、吸い込まれるような瞳。

その視線に、胸を撃ち抜かれた。

何度も見ていたはずのその顔が、意思を宿すだけでこんなにも違って見えるとは。


「こんにちは」


それ以上の言葉が、どうしても続かない。


クロード。今ここにいない親友よ。

今日のお前が輝きに満ちていた意味が今俺にも分かったぞ。




「はじめまして。私は――「ヨーコ」」


早く彼女の名を呼びたくて、言葉尻を自然に捉えてしまった。


彼女は、目を見開いた。

驚いた顔。なんて――なんて可愛いんだろう。


「知っているさ。昨日、あの場に俺もいた。

君が目覚めてくれて、本当に嬉しい。俺はフェリオン・スヴァルトハイム。君の治療をしていた者だよ。

フェリオン、て。呼んでくれる?」


自分でも信じられないほど落ち着いた声で言えた。

彼女はじっと、俺を見ていた。何も遮らず、正面から。


幸せで、こそばゆくて、浮き足立つような気持ちで説明をしていたとき。


「フェリオン」


彼女が、俺の名前を呼んだ。


……夢の中、クロードの名前らしきもの以外を呼ぶことはなかった彼女が。

毎晩、不安になるほど力無く眠り続けていた彼女が。

今、俺を見て、俺の名前を呼んだ――。


……その瞬間、涙腺が崩壊した。


頬が熱い。視界が滲む。……馬鹿だ、オレ。


――最悪だ。


初対面で泣くなんて、彼女は引くかもしれない。

顔を手で覆い、思わず目を逸らした。


でも。


「かわいいひと」


その声に、振り返ると、彼女はふふっと意地悪な笑みを浮かべていた。

子供がからかうような、いたずら好きの表情だった。


……俺は照れて、笑った。




その後は、ようやく互いの緊張がほぐれた。


魔力の流れを確認した。

やはり今日も枯渇していた。


あの猫水神さまとなにか関係あるのだろうか。


脈を測り、瞳の反応を確かめた。

近い。顔が近い。赤面を必死でこらえた。


体調は良さそうだった。

この調子なら、すぐに歩けるようになる。

色んな場所へも――連れて行けるかもしれない。


そんなことを考えていたら、彼女が突然、俺の手を掴んだ。


驚いて彼女を見た。


「ありがとう」


小さな声で、でもまっすぐに。

そしてその薄く、温かな手が、俺の手をきゅっと握った。


……心臓まで一緒に握られた気がした。


力無く横たわっていたはずの彼女が、こんなにも力強く――生きている。


また、涙が溢れた。


俺は慌てて部屋を飛び出した。



---


なんでここに来るまで、くだらない嫉妬をしていたんだろう。

彼女の力強さに触れたら、誰だって笑顔になる。

……ああ、俺は対面するまで、本当に何もわかっていなかった。


今夜、また来よう。

この感動を、クロードと分かち合いたい。

この世界に“希望”が生まれたような、そんな気がしたから。



---


〈ヨーコ〉


午後になって、部屋の空気がふっと変わった。

メイドさんが扉を開けると、そこには美しい顔立ちの青年が立っていた。背が高くて、ローブの裾が軽やかに翻る。魔法使い……だろうか。


「こんにちは」

「―――――」

私は、メイドに上半身を支えてもらいながらそう言った。

彼も、柔らかい声でなにかを返した。おそらく、同じ挨拶。


「はじめまして。私は――「ヨーコ」」


言葉を口にした、その言葉尻が彼の言葉と重なる。初めて意思が通じたように感じた。



息をのむ私に、彼は優しい目を向けて言った。「フェリオン」――そう名乗ったように聞こえた。


「フェリオン」


真似するように名前を返すと、彼は突然、目を潤ませた。頬まで赤く染めて涙をこぼす様は映画みたいだ。


……え?

美形は何をしても様になる。いや、そんな問題じゃない。


さっきまで落ち着いた雰囲気だったのに。私に気をつかっていたのだと分かった。ここまで泣くということは、きっと心配してくれていたんだ。


なんて……

「かわいいひと……」


また、声に出してしまった。

フェリオンの動きがピタリと止まり、目元に当てていた手を下ろしてゆっくりこちらを見た。私はバツが悪くて、でも笑ってしまった。ふふっ、と。フェリオンも、照れたように笑った。


彼の笑顔は、大輪の花のようだった。

何この人、顔に死角なしだわ。


フェリオンは私に近づくと、何か囁きながら手首や首筋にそっと手を触れ、瞳をのぞきこむ。どうやら診察をしているらしい。――医師なのか。ああ、それなら、こんなにも心配してくれるはずだ。


診察が終わって、彼が椅子に腰を下ろそうとしたとき。私はそっと、その手を握った。


「ありがとう」


きっと。私が肩を斬られた時、治してくれたのはこの人なんじゃないかな。


言葉しか返せないけれど、伝わってほしかった。手に、少しだけ力を込める。


フェリオンはまた泣いた。

泣いたまま、部屋を出て行ってしまった。



……文化の違いかな?

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