32話 君のクロ
――ここは、静かすぎる世界だった。
澄んだ空気と、遠くで水のせせらぎのような音だけが耳に届く。
草原を、裸足で歩く。足の短い草がサクサクと気持ちいい。
ヨーコが前を向くと、、目の前には漆黒の毛並みではなく、人の姿をしたクロが立っていた。
長い水色の髪。透き通った肌。緑の瞳。
「……クロ?」
夢の中だからこそ、迷わずそれがクロだとわかる。
クロは、少しだけ寂しそうに微笑んだ。その緑の瞳の奥に、猫の面影がふっと揺らぐ。
「……ヨーコ。別の世界で、のんびりしてたのに……」
クロの声は静かだが、胸の奥に滲む悲しみが混じっている。
「こっちに呼ばれて……もう二度も、瀕死の目にあった」
涙をはらはらとこぼすクロに、ヨーコは胸が締め付けられるように痛くなった。
「……ごめんね」
「クロが助けてくれたの?」
そう呟き、頭を撫でようと、そっと手を伸ばす。ヨーコより頭2つ分高いそれを、クロは腰を折って差し出す。
クロの頭に触れ、「大丈夫。いい子ね」といつものように撫でる。クロは瞳を細め、ヨーコを抱き寄せた。
ゆったりしたクロの服はフワフワで温かくて、陽だまりみたいだ。
――眠っている間、二人はよくこうして過ごしていた。
実家の居間のこたつの中、柔らかな布団の上、あるいは色とりどりの花畑。
クロが猫の姿でヨーコの膝に、胸に丸くなり、ヨーコは頬を寄せ、頭を撫で、愛しげに言葉を囁いた。
それが現実の寝言になり、時には無意識に身体も動いてしまっていたのだ。
「おいで」
手を引かれ、ヨーコはクロについて行く。
近くに湖があった。
「見て欲しい」
なんだろう。しゃがんで湖面を覗き見ると、めまいがして湖に落ちた。
苦しくはない。クロの記憶の中に落ちたのだ。
―――
――猫の姿で、眠る彼女の上に乗り寛ぐ夜。彼女の鼓動を確かめるたび、胸がきしんだ。
クロは、神であった。
あの世界――騎士と魔法、剣と誓いの飛び交う世界。その均衡を保つ神々の一柱にして、幾千の魂の巡りを見守る存在。
彼女の魂を、クロは何度も見ていた。
時には癒し手として、時には兵として、あるいは魔女として。
その魂はいつも清廉で、この世の理の一部としての役割を果たしていた。
そして、そのどれもが悲劇に染まった。
踏みにじられ、孤立し、恐れられ、殺された。
どの輪廻にも幸福はなく、その運命の痛みに、クロは胸を裂かれるような苦しみを覚えていた。
ある時、隣界の神がクロに声をかけた。
―――この魂、不憫だ。我が世界に導こう。慰めと癒しを与える世界へ
完全なる善意だった。隣界の神は慈愛の神であり、救いの神だった。
だが、クロにとっては違った。
―――それは……この魂の、運命からの逃避ではないか
運命を超え、魂が真に報われるには、自らの世界で、自らの意志で光を掴まねばならない。
そう信じたクロは、彼女を追った。
別世界の法則のもとでは、神の権能も制限される。
猫の姿となって、彼女の元へ現れた。
そして、彼女に名を付けられた。
「クロ。今日からうちの可愛いクロ。大事な家族だよ」
その瞬間、神としての力は彼女に束縛され、クロはただの猫となった。
だが、それでいいと思った。
彼女が笑ってくれるのなら。
夜、彼女が泣いている時はその膝に乗り、喉を鳴らして慰めた。
桃を食べる指先にじゃれ、彼女の祖父の胡座の間に丸くなって昼寝をした。
かけがえのない日々だった。
だが、祖父の死に絶望し、ひとりで丸くなっている彼女に寄り添っていると、あちらの世界の扉が再び開く気配を感じた。
元の世界が呼んでいた。魂が戻るべき場所へ戻るように。
クロは決断した。
――彼女を連れて帰る。
彼女の喪服の裾にじゃれついたのは、偶然ではない。
倒れた瞬間、クロはその魂を召喚陣に滑り込ませた。
再び元の世界へ。今度こそ、運命を越えるために。
召喚陣を抜けるとクロの権能が戻る。
勢い余ってヨーコを濡れ鼠にしてしまった。
「ごめんね」
気づくと、黒と一緒に草原に戻っていた。
「クロ、神様になっちゃうの?」
ヨーコは本当は、ずっとこの世界でクロと一緒にいたかった。
家族はもうクロしかいないから。
しかし、クロは小さく息を吐き、ヨーコを優しく抱き寄せると、耳元で囁く。
「……もう、起きる時間だ」
「やだ……」
思わず子供みたいに口を尖らせるヨーコに、クロは柔らかく笑い、見慣れた黒猫の、愛らしい姿に変わって短く「にゃー」と鳴いた。
ヨーコの腕をすり抜けて、しっぽを立ててどこかへ行ってしまった。
――会えなくなっても、そばにいるよね。
そうであってほしかった。
ふっと景色が滲み、現実の感覚が押し寄せる。
―――
「おい!起きそうだ」
「本当!?」
「早く来い。シーツなんか後でいいから」
ヨーコは、話し声に誘われるように目を開けた。
お姫様抱っこで運ばれている。
髪や服はびしょ濡れで、大きなタオルに包まれている。
変な夢。……夢、なの?
見上げれば、クロと同じ色の瞳が涙で潤み、ホッとした顔で自分を見つめている。
「……どうしたの。大丈夫よ」
懐かしさに包まれ、ヨーコはそっとその頬に触れた。
「あなたは、どなた……?」
「……オレは、君のクロだよ」
その声は震えていた。
クロードは、神の奇跡で綺麗に消えた傷の場所に顔を埋め、必死に抱きしめる。
「君は?」
ヨーコはまだ半分夢の中にいて、これはクロが人になった夢だと思った。
微笑んで、クロードの頭を優しく撫でる。
なんでか懐かしい感触に、ふっと笑いがこぼれた。
「……私は、ヨーコよ」




