31話 肉球の救済
クロードは絶望していた。
圧迫して止血しても、渡り人の体からは、温かくて重い血がじわじわと流れ続けていた。
傷の場所は悪くない。なのにどうして―――血が止まらない。
いくら騎士としての経験があっても、戦場で幾度も負傷者を抱えてきたとしても、今だけは、知識も技術も何の役にも立たなかった。
「フェリオン……! 早く来い!」
声がかすれていた。必死に大声を張り上げているつもりなのに、震える喉がそれを拒む。
抱きかかえた彼女の体温が、確実に奪われていく感覚だけが、容赦なくクロードの心臓を締め付ける。
その温もりを失えば――もう二度と取り戻せないと、理解してしまうから。
背後では、数人の騎士がカレハを押さえつけ、部屋から引きずり出していった。
あの女が何を喚こうが、今はどうでもいい。クロードの視界には、ただ一人の女しか映っていなかった。
――彼女を失うわけにはいかない。
荒い足音が近づき、フェリオンが飛び込んできた。
額に張り付いた銀髪が汗で濡れて光っていた。肩で息をし、目だけは強い光を放っている。
「見せて!」
短い言葉に、全てを託すしかない。クロードはゆっくりと、しかし震える手で彼女を横たえた。
真っ赤に染まった夜着が視界に広がると、フェリオンの表情が一瞬だけ凍り付く。
――なぜ、この子ばかり。
心の奥底で怒りが噴き上がる。
この世界で何をしたというのか。誰を傷つけたというのか。
それでもなお、彼女はただ、優しく生きていただけなのに。
「……くそっ」
止血している布を取る。
深く刻まれた傷口が露わになり、血がドロリと溢れる。
フェリオンはすぐさま、白い魔力を精製した。研ぎ澄まされた純白の光は、彼が聖女に会って以来、さらに純度を上げていた。
魔法で水の玉を作って傷口を洗い流す。
これなら、すぐにでも塞げるはずだ――そう信じて、傷口に魔力を添わせたその瞬間。
「……っ!?」
白は、一瞬で漆黒に染まった。
「どうした!?」
クロードの低い声が鋭く響く。
フェリオンの指先が僅かに震え、青ざめた顔で息を呑んだ。
傷口に指を当て、そこから糸くずみたいな黒いものを引っ張り出した。
「……呪いだ」
その一言が、室内の空気を一気に凍らせた。
呪いは魔法使いの専門外。
解かれるまで、癒しの魔法は一切流れない。
つまり――このままでは。
「……何とか、やってみる」
自分に言い聞かせるように口にしたが、フェリオンは呪いを解いた経験がない。
それでもやるしかなかった。この国には解呪専門の魔法使いはいないのだから。
目を凝らすと、傷の奥に細く絡み合った黒い魔力の糸が見える。
その一本一本を解きほぐすように、慎重に指先の魔力で触れていく。
時間がかかる――その間にも、彼女の命は失われていく。
「……っくそ……!」
思わず息が乱れる。悔しい。
手の届く距離にいるのに、何一つ救えない自分が、ただの無力な人間に思えてならなかった。
クロードは、その涙を初めて見た。
フェリオンが泣くほどの絶望――それは、もう手遅れに近い証だった。
「フェリ……」
クロードは友の肩に手を置こうとして、そこで異変に気づく。
―――――水だ。
彼女の中から、透明な水があふれ出している。
2人が唖然とする間に、その水は彼女の全身を優しく包み込み、そのまま留まった。
彼女は完全に水の中だが、苦しい素振りは見せていない。
もしや、もう……。
「フェリオン! これは……これは何だ!?」
クロードが焦燥を顕に渡り人に手を伸ばす。
フェリオンはその腕をさっと制した。
「静かに」
フェリオンは彼女の奥の空間を見ていた。クロードも視線を移す。
そこは寝台のすぐ奥の空間。
そこだけ、雨がシトシトと降っている。
窓も空いてない。そもそも雲もない。当たり前だ。部屋の中だ。
信じられないものを前に、2人は動けずにいると、雨水が人の形を作った。
二人とも息をのんだ。それは、教会の教えにある水の神の形をしていた。
神はちらりと2人を見たが、すぐに渡り人に視線を移すと、言葉をかけた。
――私の愛し子
――世界の調和を保つものよ
声ではなかった。しかし言葉が頭の芯に染み入るような、不思議な感覚。
言葉が止むと、水の神は形を変えた。
黒猫だ。
「くろ、ねこ」
フェリオンが思わず口を割る。その言葉に、クロードはぎくりとした。
クロ……ね、こ?
おそらくオスの成猫だ。大きさが彼女の胴体くらいある。しっぽはしなやかで長い。
黒猫は水に包まれている渡り人の胸の上にひょいと乗った。
「あっ」
大の男2人がおろおろする中、黒猫は彼女の傷口をざりざりと舐めた。
ざらざらした舌に、呪いが絡め取られた。
フェリオンは絶句した。
「ぅそだろ……」
傷口の呪いを舐めとると、黒猫は伸びをして、今度は傷口をテンポよく踏み始めた。
ふみふみふみふみふみふみふみふみ…………
「ぁあっ!傷口をそんなっ」
クロードは思わず手を伸ばしかけるが、神の所業を止められず、その手は空を掴んだ。
肉球が傷を踏むと、みるみるうちに傷は塞がった。
「こんな奇跡…………」
自分たちは今、何を見せられているんだろう。
こんな、デタラメな、神の御業。
傷口がすっかり塞がると、彼女を包んでいた水が勢いよく流れた。寝台が、床が、脇にいたクロードとフェリオンもビショビショになった。
黒猫はゴロゴロと喉を鳴らし、彼女の顎に頭をグイグイと押し付けた。
彼女がの眉根が寄った。
「うう、ん」
2人は刮目した。彼女が――――――。
「よしよし、いい子ね」
黒猫を撫でた。
あ、ああ…………これは。
震える2人の脳裏に彼女との甘い時間が蘇る。
それが今、目の前で起こっている。
黒猫が彼女の頬を舐める。眠ったまま、彼女はふふっと笑って。
「んん、偉いね」猫の顔を撫で回した。
黒猫はもう一度伸びをすると、くるりと向きを変え、彼女のお腹の中に消えるように入っていった。
後には――びしょ濡れで、傷一つない彼女だけが残されていた。
クロードとフェリオンは情報量が多すぎてパンクした。
「……とりあえず、濡れたままはマズイ」
「そう、だな。部屋を変えよう」
クロードは彼女をタオルで包んだ。




