26話 リゼの依存
クロード卿の屋敷で長く働いていると、世の中の変化は石畳の振動みたいに少しずつ伝わってくる。最近の屋敷は、そんな微かな震えを何重にもため込んでいるようだった。
「黒髪の眠り人」の件は、最初から厳格に区切られていた。
情報は最小限、入室は女性のみ、立ち入る時は必ず名簿に署名――。でも正式な指示書と現実が同じだとは限らない。
現実の方がずっと、色んなものを飲み込んでいった。
「聞いた? 黒髪で、黒い瞳なんだってさ」
「それって、魔女ってことじゃないの?」
「魔女って、あなたいくつ?」
厨房の片隅で、何人かの若いメイドが囁き合っている。噂は火の粉のように広がり、口を伝って大きくなっていく。
私もその輪の中にいるはずだった。
きっと、上背があるから、腕力があるから任された。押し付けられていた力仕事が評価されたから。
家政婦長の「異動」の言葉に内心は震えていた。
「リゼは選ばれたんだってね、よかったじゃないの」
喜ぶ人もいる。
「あの眠り人って本当に…黒髪? うへぇ、見たくないわ〜」
嫌がる人も。
「でもご主人様に許された人しか入れないんでしょ? まあ、あんたが面倒見てくれるなら安心かも」
からかうように、励ますように、声が飛ぶ。
私はにこりと笑う。
「そうね。任されちゃったし、頑張るよ」
ただし、声の裏側には別の感情があった。恐れと、どうしようもない好奇心と、そして――少しだけ、胸がぎゅっとなるような期待。
最初にあの仕事を命じられたとき、私は断ろうとした。
黒髪、黒い瞳の眠り人。彼女の世話だ。
幼い頃、祖母の膝で聞かされたおとぎ話がチラついて、胸がざわざわする。
『白の聖女と黒の魔女』
黒は触れてはいけないものだと教えられていた。だが屋敷で主張できる意見ではない。幼さを鼻先で笑われるだけだろう。
「女の方が優しいから」と、ご主人様は言った。
背丈や力ではなく、優しい――それが評価されたのなら、と私は自分を納得させた。けれど手が震えたのは確かだ。
客室の扉を開けると、空気が変わる。温度、匂い、光の具合。すべてが別世界のように静かだ。
眠り人はお人形のように整った顔をしていた。
黒髪は怖いけど、眠っているから瞳は見えない。もしかしてだけど黒い瞳じゃないかも。そう自分をごまかして仕事を始めた。
「よろしくお願いいたします」
耳元で囁き、白い手を取る。彼女のまぶたが揺れ、まつ毛が震えた気がした。
細い腕、軽い体。
この方は怖い存在ではないと感じた。
私の仕事は些細で、細かだ。
部屋の掃除、換気、許可なく部屋へ出入りする人がいないか確認すること。
眠り人の寝具を交換し、肌や髪を清潔に保つ。
そして彼女の変化を見逃さないこと。
人が見れば退屈な雑事だろうが、私にとっては一つ一つが儀式のように意味を持っていった。
彼女の髪を丁寧に梳き、肌には香油を伸ばす。
私の好きな、甘くて爽やかな香りが彼女を包む。
とても気持ちが落ち着く。
誰かが部屋で彼女に会う時、私は決まって扉の外の、少し離れた場所で待つ。
扉を閉める時、内側でいつもより低い声がした。
―――おはよう。今日は少し寒いな。
ご主人様の声だ。
私の胸は一拍、二拍と速まる。鍵付きの扉の奥で何が行われているか、誰にも知られてはいけない。だから私だけが、毎日扉を開ける役目を負わされている。
日が経つにつれ、変化が起きた。
最初は恐怖心が先行していたのに、いつの間にか私は小さな安心を見つけていた。
彼女の額に落ちる一本の髪、睫毛の影が作る細い線、ゆっくりと上下する胸。そのすべてを観察し、整えることに私は喜びを覚えた。手に残る温度を、こっそり確かめることすら許されている気がした。
でも、扉の内側にいることを許されている方は沢山いらっしゃる。
白の聖女さまはお菓子を片手に訪れては、ちょっとした愚痴をこぼしていく。かすかに聞こえる笑い声が、いつも優しい。
フェリオン様は毎日やって来る。ローブの裾をはためかせ、上機嫌で部屋に入る。
あの人、軽薄だわ。メイド仲間はみんな彼に夢中だけど、私はあまり好きじゃない。
ある日、ご主人様とフェリオン様が一緒に扉の前に立ち、小さな会話を交わしたまま室内に入っていった。二人がしばらく出てこない間、私の視界はぎゅっと狭くなる。
「今日は結構長引いてるね。何してるんだろう」
掃除をしている仲間に、つい漏らした言葉がほんの少し震える。
仲間のメイドは恋の予感に頬を染めて騒いだ。ますます気持ちが滅入った。
入れてもらえない。
男たちが笑い合い、軽い会話を交わし、扉を閉めて戻ってくる。
私はそのとき、胸の奥で妙なものが疼くのに気づいた。
嫉妬だ。
誰かと比べて怒るのでも、所有欲でもない。ただ、その部屋にいるべきなのは自分だけだという、独占に似た欲求。それに気づき戦いた。
「リゼ、最近顔色悪いよ。ちゃんと寝てる?」
食堂で、若いメイドの一人が遠慮がちに声をかけてくる。皆は私の変化に気づいているのだ。
私は一瞬、鏡を思い出す。確かにまぶたの下に薄い影が増えている。だが胸は不思議と高鳴っている。仕事で疲れているはずなのに、気分はすごくいい。
体が快楽を覚えたかのように、あの部屋から戻るたびに軽くなるのだ。私はその言葉を飲み込んで、にこりと答えた。
「大丈夫よ。ちょっと忙しいだけ」
——そう答える私の声はいつもより細いが明るい。
「黒髪の方のお世話一人でやってるもんね。たまには変わりましょうか?」
「大丈夫。……慣れてきたところだから」
表情は普通を装っているのに、手はふるえている。誰にもバレてはいけない秘密が、胸の中でふくらんでいく。
夜になると、私はあの扉の前に立つ。
静けさが重く、時折中から訪問者の笑い声が漏れるのを聞くと、胸がキュッと締め付けられる。
あの笑い声は、彼女が誰かの肩の力を抜いた証。
分かる、私もそうだから。
私もその暖かさを求めていた。それが怖い。私がそれを求めるあまり、自分を少しずつ削っている気がするからだ。彼女が誰かの癒しになっている事が悔しい。私だけが、誰より長く彼女を見ているのに。
ある夜、彼女の寝台の縁に手を置いたとき、ほんの囁きが耳に届いた。
眠りの中からこぼれた小さな言葉
「 ――偉いね」
私に言ったのかしら?いつも綺麗にしてあげているから。
胸がふわりと温かくなり、頬が緩む。鏡に映った自分の顔を見ると、そこには映る私は誇らしさに目がキラキラしていた。
バタン!
はっとした。窓の鍵を閉め忘れていた。今日は風が強い。
窓を閉め、寝台に寄ると、鏡にまた自分の顔が写った。
「ひっ」
これはだれ?
鏡の中の私は目が酷く窪んでる。
唇は乾いて笑う度に痛む。
酷い顔に目だけがギラギラと見開いている。
こんな私は知らない。
それに、こんな夜更けに私は何をしているのか。
私は混乱した。
この仕事に誇りを持っている。
でもそんな理由でこの部屋に来たわけじゃない。
ここにいてはいけない。なぜだかそう思った。
急いで客室を出て鍵をかける。
何故こんな事に。
頭ははっきりしている。大丈夫、私は大丈夫。そう自分に言い聞かせて、私は暗い寝室に逃げ込んだ。自分の寝台に潜り込み、目をぎゅっと瞑る。
疲れてるんだ。だからこんな酷い顔になったんだ。早く寝て疲れを取らなきゃ。
こんな顔を、彼女に見せてはいけない。
――――――何故、こんな時にまで彼女の寝顔が浮かぶのだろう。
でも。
彼女の顔を思うと気持ちが落ち着く。
明日も黒髪の彼女があの部屋にいることにほっとする。
それが、一番、怖い。




